またたく間にドリーはArt
Tatum, Charlie
Parker, Billie
Holidayらと並び称されるミュージシャンと言われるようになった。当時はThelma
Bakerという本名でニューヨークで有名な歌手となっていたのである。
今ではドリーの歌を聴けば誰もが「ドリーはジャズシンガー」と言うのだが、唄い始めた頃は、ドリーが唄った歌は当時の流行歌(popular
song)であり、自分自身も流行歌手(pop singer)と思っていたのである。
1961年にドリーの人生の転機が訪れた。ポルトガル人の事業家Botelho氏との、ドリーにとって2度目の結婚である。そして、夫のビジネスの場であった東京に移り住むことになった。ドリーのキャリアーはこの時すでに終わっていたのである。
しかし、日本は「ジャズのHotbed」であることにドリーは驚いた。ジャズを聴きに来る人たちのジャズの知識、ジャズへの情熱はアメリカ人のそれを凌ぐものであったと言う。彼らが平気でオリジナルの英語の歌を聴くのを知り「言葉の壁」は存在しないと感じたと言う。
「ここで、もう一度唄おう」と、ドリーは東京の地で再びライブを始めることを決心した。ドリー自身、自分に対する「需要」があることを認識したのである。
その後、30年以上にわたって東京だけでなく日本各地でライブを行い、数え切れないジャズファンの心を揺さぶったことは、多くの人たちの知るところである。
さて、”Thelma”という名前は日本人にとって発音が難しい。ある晩、ThelmaはHello
Dollyを唄っていた。ルイ・アームストロングの大ヒットである。Thelmaはルイの物まねも上手だった。
「そうだ!Dollyをステージ・ネームにしよう」
そして、Dolly Bakerと名乗るようになり、Hello
Dollyは、ドリーのテーマソングとなったのである。
ドリーが歌手としての存在だけでなく、もうひとつ付け加えておかなければならないのは、来日する有名なジャズミュージシャンたちの世話をし、日本のジャズ界だけでなく大使館などを含む外交的な橋渡し役を務めてきたことである。実際、「ドリーに話を通してもらえばうまく行く」と、アメリカにいた時代には会ったこともなかったサラ・ボーン、メル・トーメ、デューク・エリントンらの面倒を見ることになったのである。
1977年に夫は他界した。しかし、ドリーは東京赤坂の古いマンションに住み、アメリカに帰ることはなかった。それまでは、ニューヨークに戻ることはなかったが、その後は年に一度、2,3ヶ月は子供たちにも会いにニューヨークに里帰りをするようになった。
そのドリーも2001年5月にアメリカに帰ることになった。そこで2月にドリーの誕生日祝いとサヨナラパーティを六本木のCozy-Lで大勢のミュージシャンやドリーファンを集めて開催した。淋しいことだが仕方がない。10月はじめには再度東京に戻ってきた。翌年の1月半ばまで滞在したが、その間に、2001年度「日本ジャズボーカル大賞」の受賞が決定した。外国人としては初めての受賞である。本賞は1985年に中本マリが受賞したのが最初である。
ドリーはまだまだ唄える。まわりが放っては置かない。特に、ボストンで一番といわれるJazz
Club "SCULLERS"でのライブにはすこぶる喜んでいる様子である。
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