Jazzにまつわる話編集人

若山邦紘  1941年1月生まれ

歌好きの私が初めて合唱をやらされたのは、慶應幼稚舎(小学校)5年の時だったと思う。草野剛先生から放課後、居残り命令が出た。ヨハン・シュトラウスUの「美しき青きドナウ」を2部合唱だったか3部合唱だったか、歌わされた。
 

 

何故歌わされたのか分からないまま練習した後、学年末の学芸会に赤屋根(講堂)でオンステージだった。やっと、居残りの訳が分かった。

普通部(中学校)になって、川上ガマちゃんからウクレレを習った。夏の合宿に持って来てハワイアンを歌っていた。「小さな橋の下」などを弾き語りするのだ。普通は歌を憶えその伴奏のコードを憶えるのだが、ガマちゃんに質問したのは、「どんな押さえ方(コードの種類)があるのか?」だった。実に私らしい問いかけだった。合宿後はすぐに神田のカワセに行ってウクレレ(\1200)を買ってきた。これに飽き足らず、また、カワセに行ってギターを買ってきた。アコースティックのピックギター(\5000)だった。昭和29年の出来事。

ピアノは4年生ごろから、先生が週一わが家にやってきた。ツェルニーをやってるころに、表通りでキャッチボールをやっていたら「指が固くなるからダメだ」と叱られ、やる気をなくした。普通部生になった頃だった。

高校時代に素晴らしい音楽の岡田忠彦先生に出会った。まるで音大で教えるような和声学の音楽理論を高校生に講義した。それに感動して、先生の合唱団、楽友会に参加しで宗教曲の大曲をオーケストラバックで歌ってきた。この合唱団は大学まで続くサークルだった。音楽の基礎理論を勉強したのがこの時期だった。岡田先生は、私の音楽性をすっかり読んでいた。そして「お前は試験は受けなくてよい、試験免除だ」と言った。

「A durのサブドミナントは?」と聞かれ「D Fis A (デー フィス アー)」と間髪を入れずに答えた。


岡田忠彦師匠

私の音楽理論の師匠は、岡田忠彦師匠である。


慶應義塾創立100周年記念音楽会 「第九」演奏 1958

余技・お遊びにトリオやカルテットでジャズ・コーラスやバーバーショップ・ハーモニーを楽しんでいた。

学生時代からメンバーが所帯を持つ頃まではカルッテットでフォークからPops、ジャズまで歌っていた。パートはバスがいないので、やむを得ずバスを歌っていた。4人が家庭を持つ頃までは細々と歌っていた。


白金 八芳園 1961/12


東京プリンスホテル 1968/6

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われわれが高校から大学生になる頃、日本ではオーストリーのスキー教師が来日し講習会を開くようになった。それまでは日本でのスキーはフランス流が当たり前だった。トニー・ザイラーはイタリアの冬季五輪でアルペンスキー3冠王となり、世界中のスキーヤーのアイドルとなった。後に映画俳優ですぜ・・・。

1961年暮から62年春のシーズン、NHKと朝日新聞の招聘でフランツ・デルブルという国立スキー学校の校長が2人の若者教師を連れて来日し、志賀・八方・蔵王でオーストリー・スキー7講習会を開いた。私は蔵王での講習会に参加した。その時、毎日、我々の練習姿を見に来るオジサンスキーヤーが居た。地元の人に山形の山林王と呼ばれる岸 三郎助の3男でジャンプの国体選手も経験したスキーの名手、岸 英三という人だと聞かされた。

講習会が終わって「別れのシーハイル!」をやっていた時、オジサンは私の所に滑ってきて「お前は眼の光がいいから俺の友達にしてやる」と言いわたしの手を握ってくれました。この日から、私は岸 英三師匠の弟子となった。オジサンの夢は自分のロッジを持ちスキー教師と生徒が同じ屋根の下で過ごせるスキースクールを開校することだった。オーストリーのクルッケンハウザー教授の許に留学し、スキースクールの在り方を勉強しに行った。

1965年に蔵王パラダイスロッジの部屋を借りて、蔵王スキースクールを開校した。2年後、上の台に出来たロッジを買い取り、オヤジの考え通りのスキースクールとなりました。蔵王スキー学校という地元の古い学校と紛らわしいので、「蔵王ハイムスキースクール」と名称を変更しました。Heimとはドイツ語で、意味はHomeである。


岸 英三師匠

私はオヤジのスクールが出来る3年前からの弟子として、60年の付き合いが続いた。しかし、2022年1月9日に老衰で亡くなった。享年99歳7か月だった。弔辞は私が読んだ。

わたしが一人前のスキーヤーに成れたのは、岸 英三師匠が居てくれたからである。

「1級のバッジを取ろうか?」「そんなものは要らない。お前は特級だ!」と、こんなバッジを呉れた。

このスクールのバッジを持っている人間は、昔々の蔵王ハイムスキースクールの教師と私だけである。このオーストリー国家紋章の使用が許されているのは、日本では岸 英三師匠だけである。日本でのオーストリー・スキーの普及の栄誉を称え、オーストリア国家勲章を授かりました。

  ◆

慶應義塾大学工学部管理工学科の大学院博士課程終了後は、法政大学工学部経営工学科に乞われて奉職、42年間、70歳まで研究・教育生活を送った。担当科目はOperations Researchとシステム工学ほかコンピュータの応用。2011年定年退職、名誉教授。ゼミの卒業生は526人になった。

1971年、NHKの3チャンネル「コンピュータ講座」の「フォートラン応用」に講師の一人に駆り出されて放送センターに通った。テレビ・カメラに向かって講義するのは、好きにはなれなかった。実に話がしづらいのだ。

当時、新しい学問分野だったので、経済成長著しい企業の実務家の研修には大学院生時代から駆り出され、日本科学技術連盟、日本生産性本部、情報処理研修センターでは自分よりはるかに年上のおじさんの教育研修をやらされた。


関根智明師匠

20代の若造が一人前のOR研究教育者になれたのは、慶應義塾大学工学部管理工学科に関根智明という師匠が居たおかげである。夜、11時になると電話がかかって来る。「おい、居るぞ」と。居るぞというのは「居るから来い」ということだ。車でお茶の水まで10分で行ける。夜中にお勉強が始まる。こんな個人教授を受けたのは私一人だった。

この関根の親分は、限界を超えたヘビースモーカーだった。授業中の教檀で吸っているのが当たり前。武蔵小金井からお茶の水まで中央線快速で帰るのに、電車の中で平気でスパスパやる。そこで、ゴルフに連れて行けば少しでも本数が減る(毎日、メンソール20本入りのMFを6箱吸うのだ)と思い、ゴルフを始めさせた。我々が4年生の時だった。神田のミナミにクラブやゴルフ靴など用具を買いに連れていく。社長だったミナミのお婆ちゃんが「若山君の先生かい?」と。

関根親分のゴルフは葉山国際カントリー倶楽部で1週間の合宿から始めた。葉山国際CCは父親が無記名会員権を2枚持っていた。それで、合宿をやらせてもらえたのだった。1963年の夏休みだった。次の年は関西ゴルフ遠征だった。普段は真面目に芝ゴルフ練習場に通っていた。ところが冬の枯れた芝生の上でも平気でタバコをくわえていた。どうしようもない師匠だった。

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わかGのゴルフが本格的なったのは80年代の後半、川波義一プロ(大正7年生まれ)を紹介され、週に何日か放課後に通った。オフィシャルハンデが8まで行ったが、老眼が始り遠近両用眼鏡をかけてピンやボールの焦点がボケて、焦点が合うまで時間がかかるようになり、集中できず、それまでの「遊びではない」ゴルフは終わりになった。90年代前半頃には、名門「茨城ゴルフクラブ」の会員権は売ってしまった。川波先生は「ハンデ5まで行くことを保証する」と言ってくれたのに・・・。でも、ベストスコアは1アンダー(71)だった。


1983年のテキスト

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80年代、通産省の情報処理技術者試験の問題作りや、2002年から2003年、文部省の高等学校新教科「情報」設置にも委員として呼び出され、高校の「情報」教育担当教員研修では、東京地区、関西地区での研修は私が講師として実施した。「コンピュータ嫌いを作らないように」と話をした。

道路公団の委託研究では道路情報板設置問題他、NEDO(新エネルギー総合開発機構)では太陽電池のコスト分析研究を行った。

個別の企業にも出かけた。新日本製鉄、川崎製鉄、日本鋼管など製鉄関係、ブリジストン・タイヤの東京工場・戸塚工場も泊りがけで出掛けた。

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私が学部・大学院を終え社会人になるのを待ちかねている人がいた。東芝の技術主幹、原野秀永氏である。原野さんは慶應工学部管理工学科に委託研究の仕事を持ってきた。3年生だった私はプログラミングの分担をやらされた。ご褒美に東芝倶楽部でご馳走してもらった。大学院に進学して日本オペレーションズ・リサーチ学会学生会員となった。その頃から、原野さんは実務家の会員として学会の運営に携わっていた。1969年4月、大学院を修了し法政大学工学部に専任講師として赴任したと同時に、電話がかかってきた。


原野秀永主幹

「おい、若山。OR学会の理事会を新宿中村屋でやるから、議事録をとりに来い」

その時、原野さんは学会の庶務理事、私は庶務幹事にさせられた瞬間だった。そのOR学会で人並みの何倍か何十倍か働いた。1991年、こんなものをもらった。

原野さんはOR学会でのお父さんだった。国際学会の時、海外旅行を一緒に行ったものだ。90になっても学会に顔を出した偉人でした。

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1980年代、40代の頃、南青山のLamp LightというピアノバーでDolly Bakerという大歌手に出会い、ジャズボーカルの何であるかを学んだ。大師匠だった。ドリーからはいろいろなことを教わり、いろいろな本や資料、譜面、写真など珍しいものを私のところに置いていった。アメリカのお袋だった。しばらく後に沢田靖司と無二の友となる。ドリーに紹介してもらったのだった。この人には、Fakeの仕方、つまり自分だけの歌の作り方を仕込まれた。即興の仕方と言ってもよい。譜面通りではなく、いかに崩すかという話だ。

この時代にクルーニング唱法を身につけた。ベルカントとは正反対の発声法で何とかジャズらしく歌えるようになるのに3年かかった。

2人のJazz Vocal師匠

Dolly Baker(1922-2014), 2006

沢田靖司(1939-2017),2016

この時代はソロ・ボーカルが中心だったが、元サーカスの島田トオルと三菱商事の有名人、佐藤 宏さんと3人で簡単なコーラスもやった。今はないテレ朝通りの夜更けのSound Inn DOMINANTが遊び場だった。

やまぐちgt  トオル わか             おおばbs       さとう


バンコックにて ドミナント・コーラス

50代半ばになってKEIO Light Music Society出身の寺田 厚兄さん、白石惠一兄さんに連れられて赤坂のLittle MANUELAに行くようになった。そこで、出会ったブルーコーツの小島正雄さん(11PMの司会者といった方がご存知か)の長男、小島 恂に誘われてジャズ・コーラスを25年ぶりに再開した。これがOZ SONSの始まりだった。


初期のOZSONS(オージーサンズ)

1999年にスリー・グレイセスのコンサートに引っ張り出されたのがきっかけとなり、2000年代はいろいろな人やいろいろなところから呼ばれた。鈴木史子のKeep Shiningは2001年から常連メンバー、2002年、社会人ビッグバンド都連のコンサートに、OZ SONSがジャズコーラスとして初めて呼ばれた。


3 Graces コンサート 日本青年館 1999


鈴木史子 「Keep Shinning 5」, 横浜 関内ホール 2001


社会人ビッグバンド都連のコンサート 杉並公会堂 2002/6/2

2003年、最後の「ゲソの気まぐれコンサート」にゲストに呼ばれた。「初見で歌えるようなグループがいくらでもいるのに」と言うと、「俺はお前たちでいいのだ」と言った。

ゲソG+3グレイセス+OZ SONSの8人コーラスは圧巻だった。5月連休初日にコンサートがあったのだが、ゲソG(笈田敏夫さん) はその年の9月に他界した。「来年も同じメンバーでやろう」と言っていたのに・・・


笈田敏夫 ル テアトル銀座 2003

2004年の2月には、われわれを可愛がってくれた世良G(世良 譲さん)がガンで亡くなった。自分のライブにオジサンたちを呼んで素人コーラスの伴奏までしてくれたのだ。追悼コンサートには30組ほどのゆかりのミュージシャンが出演したが、唯一の素人、われわれOZ SONSは世良Gにささげて”Mr. Wonderful”を歌った。

世良ママは「あなた達、一番心がこもっていたわ」と言った。それは、その通りだった。


世良 譲 品川プリンスホテル 2003

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2006年、OR学会から表彰された。こんなものをもらいました。

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2011年3月、東日本大地震で大学の卒業式も津波に流された。私も42年間の大学生活を終える時だった。お祝いやパーティは自粛だった。ただ、1枚の紙が法政大学から送られてきた。

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かつての「大橋巨泉とサラブレッズ」のドラムス、2015年から日本楽友会の理事長池貝政俊さんはミュージシャンの集まりで私を紹介するとき、

   「この人は趣味で大学教授をしている若山さん」

と言うのです。うまいことを仰います。


池貝政俊

ついに日本楽友会(ジャズメンの親睦団体)の理事にされてしまいました。

現在(2023年)、池貝さんは日本楽友会会長です。私は理事長です。

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オージーサンズ・コンサート 草月ホール 2013


草月ホール 2013


Keep Shinning 6 サントリーホール 2013

2013年6月に、最初で最後の自主コンサートを草月ホールで開催しました。約500枚刷ったチケットはSold Outとなった。中尾ミエに生前葬だと言われた。3か月後にはサントリーホールでのKeep Shinning 6でした。

翌年からは、元の3人で細々と古いレパートリーを引っ張り出して忘れないように声だししている。もう大きなことはやりません。


Last Live at MANUELA 2017/1/21

2017年6月2日にOZ SONSの小島 恂が15年間のがんとの闘いに終止符を打ち息を引き取った。私は一日でも彼が歌う気持ちのある間はOZ SONSで歌い続けようと心に決めていた。この写真は知り合いを集めての最後のライブとなった。本当に最後のコーラスとなったのは、4月28日、神楽坂「もりのいえ」だった。3曲くらい歌った。


もりのいえ 2017/4/28

OZ SONSの歴史は丁度20年となった。よく歌い続けたものだ。OZ SONSは小島 恂のためのコーラス・グループだった。彼の死と共にOZ SONSも幕を閉じることになった。寂しいことだが何の悔いもない。よく頑張ってくれた。


小島 恂「お別れ会」 2017/9/18

「まこGのお別れ会」を9月18日にホテル・グランドヒル市ヶ谷で。140人の親しい友人が集まってくれた。素晴らしい幕引きだった。


1999年にAll Of Me Clubの金城さんの発案で六本木界隈のジャズ・ハウス6軒が参加して「六本木ジャズクルージング」というジャズ・フェスを開催した。私がこのサイトを使って広報を担当した。参加店はAll of Me Club、Satin Dolll、Birdland、Los Cos Mos、Relaxin、INDIGOである。 6店舗を1週間、クルージングして歩くのだ。チケットを1万円で買うと、チャージはゼロ、ドリンク1杯が700円だった。

2002年12月、俳優座劇場でコンサート「Sound Cruising Roppongi 2002」を開催した。このとき、若かったジャズ歌手の卵たちを集めてFemale Jazz Singers(FJS)という女声ジャズ合唱団を立ち上げた。この合唱団の音楽監督に指名され、その合唱団が今も活動を続けている。


俳優座劇場 2002


FJS女声ジャズ合唱団 ヤクルトホール 2016

FJSの生まれた当時のメンバーだった歌手の卵は、プロの歌手へと階段を上って行った。それに入れ替わるように素人の歌好き姉さんやおばさんが入って来るようになった。FJSで訓練を積んでクラブ歌手になっていったメンバーも複数人いる。

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わたしが制作編集する主な音楽関係のページ

⇒ Jazzにまつわる話(The Story of Jazz)

⇒ OZ SONS-PIT(The OZ SONS ジャズコーラス)

⇒ マヌエラ・シスターズ(The MANUELA Sisters)

⇒ FJS女声ジャズ合唱団(The Female Jazz Singers)

⇒ 楽 友(慶應義塾楽友三田会Official Site)

⇒ KBR Tango Ensemble OB会(慶應義塾大学タンゴサークルOB会)

⇒ 日本楽友会(Jazz Musician 親睦団体)

⇒ リトル・マヌエラ(赤坂見附一ツ木通り Jazz Bar)

⇒ 多重録音室(Multi-Recording Room)

 

お勉強関係のページ

⇒ ORにまつわる話(Oprations Research)

⇒ 若山ゼミOB/OGサイト(Wakayama Seminor)

 

クラス会のページ

⇒ 幼稚舎28年K組卒(Elementary School)

⇒ 普通部31年B組卒(Junior High-School)

⇒ 大学工学部管理工学科3期生(Department of Administration Engineering)

 

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⇒ France Ski(フランス・スキー術)

⇒ Austria Ski(オーストリア・スキー教程)

 

お絵描き他

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