先日、ひょんな会話から「エミール・アレのフランス・スキー術」が話題に上がった。50年以上前に眺めた古い本であるが、探してみたら出てきた。1955年に新潮社から出版されたものであるが大元のフランスでは1938年に出されている。私の生まれる3年前の話である。おそらく、こんな本は古本屋に行ってもなかなか見つからないレア本だと思い、内容の紹介を私流に書いてこのホームページ上にアップした。
日本のスキーは戦後はフランスのスキーが普及していたのだが1956年のコルチナ・ダンペッツォでの冬季五輪でトニー・ザイラーが3冠王になり、あわせて猪谷千春が回転競技で銀メダルをとり、日本のスキー界の目はオーストリアに向けられていた。ザイラーは「黒い稲妻」など銀幕にも登場し映画スターになってしまった。そのザイラーがやはりその時代の名手、ヨセフ・リーダーと日本に立ち寄り、春のベタ雪の石打で生の滑りを披露した。その翌年、1958年にはスキー指導者としてオーストリアの職業スキー教師協会会長のルディ・マットがオーストリアスキーの講習会を開いた。私は高校生だったので出かけては行かなかったが、その講習会に出た父の友人のおじさんがいたので、そのおじさんに岩原に連れて行ってもらい、後ろをついて滑りを盗ませてもらった。
1961年〜1962年のシーズンには、NHKと朝日新聞の招きでフランツ・デルブルが若いスキー教師を伴い、1シーズンを八方・志賀・蔵王で講習会を開催した。NHKのテレビ放送や講習会の中継もあり、多くのスキー愛好者がオーストリアスキーの滑り方を見たのである。1963年にはついに「オーストリアスキー教程」を書いたクルッケンハウザー教授がフルトナー、シュバルツェンバッハとノイマイヤーを連れて苗場で講習会を開いた。さらにその後には1965年にはヘルベルト・ユーエンと弟のカール・ユーエンが蔵王にやってきた。
マドルベルガー・パウリー ロイス・ツォプ フランツ・デルブル
(蔵王中央ゲレンデ 1962)
この当時、何年かの間にオーストリアは次々と日本に名選手や名指導者を送り込み、日本のスキーはオーストリアスキーが主流となってしまった。改めて数えてみると本当に毎年のように誰かがオーストリアから来ていたのだ。
私のスキーの師匠は山形の岸 英三(1922年生まれ)であるが、クルッケンハウザー教授に「わが友、わが息子」と言わせた稀な大人物である。1963年にはクルッケンハウザーの許に赴き、スキースクールというもののあり方を学びに行ってきた。私とは1962年の初めに蔵王のゲレンデで出会い、19も歳の違いがあるのに「お前を俺の友達にしてやる」と言ってくれたことが縁で親子以上の付き合いが50年続いているのである。
Eizo Kishi Kunihiro Wakayama
(Kaneyama 2006)
1969年4月から法政大学工学部の専任教員になった。法政大学工学部の私のゼミの学生をスキーに連れて行くようになったのは1973年卒の4期生からである。誰に聞いたのか「先生はスキーをされるんでしょ、一緒に行きましょう」と誘われて、バスを借り切って万座に行ったのが最初である。近くて雪がいいところだから万座に行くことにした。この3年ほどスキーは滑っていなかったのである。大学の先生になっばかりで第一子も生まれて、スキーどころではなかったのではないかと思う。
いや、そうじゃない。当時のスキーは年毎に新しくなり、学生時代に流行から遅れることがなかったのだが、3年も蔵王に行っていないと、インストラクター達が新しい滑りをしているだろうと、自分の古い滑りを見せるのを躊躇していたにちがいない。それで蔵王に行かずに万座に行ったのだ。
私のスキーの故郷は蔵王であるから、やはり彼らを蔵王に連れて行きたい。その頃、岸英三は「蔵王スキースクール」を設立し1967年には上の台のロッジを買い取りスクールをパラダイスロッジの間借りから独自のロッジを持つ、オーストリアのスキー学校のスタイルのスキースクールとなった。スキーを習いに来る人たちとスキーを教えるスキー教師たちが同じ屋根の下で寝食を共にするスキースクールを作るのが岸英三の夢だったのである。
当時、蔵王には古くから「蔵王スキー学校」という地元のスキーの上手な人が集まって生徒を集めてスキーを教える学校があった。岸英三のは「蔵王スキースクール」で名前が紛らわしいことから、「蔵王ハイム・スキースクール」と改称することになった。
スクールのバッジ
これは蔵王スキースクールの徽章であるが、オーストリア国家紋章の使用を日本で唯一許されたものである。わたしはこのバッジをつけて滑ることを許された珍し人間です。岸英三はオーストリアから日墺スキーの架け橋となった功績でオーストリア国家から勲章を受けている。
1978年卒業の9期生から「蔵王ハイム」に連れて行くようになった。文字通り、ホームに帰ったようなもので、ロッヂのものたちからは「お帰りなさい」と言われたものだ。今でも玄関を開けると「お帰りなさい」だ。
さて、本題はクルッケンハーザー教授が著した「オーストリアスキー教程」である。この本は法政大学の体育とドイツ語の教授だった福岡孝行が翻訳し、法政大学出版局から1957年に出版されたもので、後の日本のスキーヤーのバイブルとなった本である。この本も探しまくって出てきた。この本も神田の古本屋に行っても売っていやしない。私の教え子たちにこの本の内容もどんなものだったか教えておくことにしよう。
解説文はすべてわかGのものである。(2012/3/11・若山邦紘)
Never forget 3.11