SUEのエッセー
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ベトナム 今、よくTVで見る「ハノイのバイクの洪水」はまだ無く、女性たちが美しいアオザイの裾を翻しながら、皆自転車に乗っているのを見たものです。 空港は木造の平屋の建物で、タラップを降りると、「日本からの中古バス」が空港内のリムジンバスとして待っていましたし、ハノイの街までの道は、田園地帯の中の一本道で街まで1時間半もかかったものでした。 ◎二度目はその14年後の2009年に、当時勤めていた日揮がハノイにエンジニアリングの子会社を設立した時に、「その設立メンバーの一人」として赴任しました。空港は鉄筋コンクリートの最新式の立派なエアポートターミナルに、ハノイ市内までの道路も、「立派なハイウェイ」に生まれ変わっていて、その「近代化のスピード」に驚かされました。 ◎三度目は、2013年から2018年までの6年間、日揮退職後に移った某工業計器メーカーの「会社設立」の為にまたまたハノイに赴任し、「会社の登記」「工場用地の購入」「工場の設計と建設」「従業員の雇用」「製造設備の設置」「材料の輸入」「工業計器の組み立て」「製品の輸出」までのプロセスを確立し、後任者に引き継いで帰国しました。 ◎よく「ベトナム人は優秀だそうですね・・」という質問を受けますが、その通りで、他のASEAN諸国と比べても、教育レベル(教育機関や教育の内容と卒業生の質)も勤労意欲も高く、(きちんと指導すれば)安心して仕事を任せられます。一寸専門的な話になりますが、僕の専門の「自動制御」でも、普通の「微分・積分数学」だけでなく、高度な「ラプラス変換数学」を使いこなします。ただ、ベトナム国内の北部やハノイには充分な職が無く、卒業生の多くは、(限られた)国内の南部(ホーチミンやブン・タオ)や韓国、中近東諸国などに職を求めています。私も、日本で言えば、東大や東工大のレベルの優秀な人材を採用できました。 ◎私の三度目の6年間のハノイ生活については、カッパさんに作っていただいた「SUEのエッセー」というHPで報告していますので、そちらにアクセスして下されば、よりベトナムとハノイへの理解を深めて頂けると思います。ぜひご覧になってください。 ◎ベトナムでも南部では(ホーチミン近くのブン・タオの海上油田で)石油を産します。ベトナムの原油は(ガソリン留分などの)軽質分が多く、かつ硫黄分も少なく良質なため高い値段で売れるので、ベトナムはこの原油は輸出に回して外貨を稼ぎ、中東のクウェートから値段が安い(ただし硫黄分の多い)原油を輸入して、国内の石油消費にあてています。 ベトナムの電力は「石油火力」ではなく、「石炭火力」に多く頼っています。したがって、環境への影響も大きく、前述の「石油製品の質が悪い事」に併せ、ハノイでの「大気汚染」の重要な要因になっています。さらに、冬の時期には「中国から流れてくるPM2.5の汚染」も加わるので、結果、冬の間には「マスク」が欠かせません。 ◆ シンガポール
◎シンガポール(シンガポール共和国)は、ASEAN 諸国の中では一番の「西欧的な」先進国で、マレーシア半島の南に「ジョホール海峡」で隔てられたシンガポール島、及び60以上の小規模な島々からなる島国です。教育、金融、人的資本、製造技術、観光、貿易・輸送のアジアでの中心で、日揮でも多くの装置や機器をシンガポールで調達しています。 ◎1人当たり国内総生産(GDP)が世界で2番目に高く、多くの国際ランキングで上位に格付けされています。最も「テクノロジーに対応している」国(WEF)、国際会議のトップ都市(UIA)、世界で最もスマートで投資の可能性が最も高い都市(BERI)、世界で最も安全な国、世界で最も競争力のある経済、世界で3番目に腐敗の少ない国、等々です。 ◎最大の島はシンガポール島ですが、東西42km、南北23kmの小ささです。国土の最高地点はシンガポール島にあるブキッ・ティマで163m。シンガポール島以外の島はいずれも小さく、44の島は面積が1平方kmを下回る、つまりはシンガポールは「小国」なのです。 ◎日本とシンガポールは、過去数十年にわたって前向きな関係がありました。シンガポールがイギリスの植民地であった1943年にも日本は人種差別撤廃の観点からシンガポールに昭南医科大学を開校するなど、現地の人々に高等教育を実施していたため、太平洋戦争で日本がイギリス戦艦を撃沈して日本の統治とした際には、シンガポールの人々はこれを歓迎したそうです。 ◎シンガポールで仕事をしていた時、街ですれ違ったご老人が、「日本人ですか?」と訊くので、「そうですが」と答えると、「私の父は日本軍のドライバーをしていて、日本人には良くしてもらいました」と言われたこともありました。 ◎2014年の調査では、シンガポール人の約44%が日本と日本との関係を「非常に友好的」と見做していますし、シンガポール人の53%が「(多少の留保はあるものの)日本を信頼できる」と考えているそうです。 ◎シンガポールはマレーシアとは元々は同じ国であって、今もコーズウェイという細い陸路一本でマレーシアのジョホールとつながっています。水の供給も、シンガポールの企業で働く労働者の供給の多くも、マレーシアに依存しています。 ◎シンガポール人は中華系(74.1%)、マレー系(13.4%)、インド系(9.2%)及びユーラシア人に大別できます。大部分は2言語使用者であり、共通語及び第2母語として英語を使用しますが、独特の発音をするので、よくENGLISHならぬSINGLISHと呼ばれています。 ◎シンガポールの観光の目玉のひとつが、よく観光案内書で紹介されている「マーライオン」です。
その由来は、11世紀にマレーシアの王族が対岸に見える大地を目指して航海の旅に出た際、途中で海が激しく荒れた。その王族が自分の王冠を海に投げたところ、海は静まり無事に陸地にたどり着くことができた。その時、ライオンが現れて、王族にその地を治める事を許して立ち去った。マーライオンの頭部はこのときのライオンを表し、その魚の尾は、古代都市テマセック(ジャワ語で「海」)を象徴しています。王族は、その地を「ライオン(Singa)の都市(Pura)」を意味する「Singapura(シンガプーラ)」と名づけ、マーライオンを国の守り神として祭ったという伝説があります。 ◎もう一つの観光名所は、「セントーサ島(Sentosa Island)で、これは、シンガポール島の南にある、レジャー施設が多数ある島。島の北側は遊園地や水族館が並び、島の南側はビーチが続いています。シンガポール島のハーバー・フロント駅から、ケーブルカーで行くのが便利。 ◎この中に映画館が有り、「シンガポールの歴史」と称する映画が上映されています。その映画の冒頭では、「イギリスは、シンガポールに近代文明をもたらし・・」とあり、続いて「ボンネットをかぶったイギリス婦人たちが、競馬場でレースを楽しむシーン」や、「イギリスの紳士淑女が、夜会でダンスに興じるシーン」が映し出されます。 一方「シンガポールの人々はイギリスの保護の下で、今まで通りの平穏な生活を続け・・」との解説があり、「シンガポールの人々が牛車で水田を耕しているシーン」などが映し出されます。何のことは無い、イギリスの植民地政策の歴史です。 続いて「野蛮な日本軍が南進して来て、イギリスはやむを得ず撤退した」との解説となります。この解説には、正直腹が立ちましたけど。 ◎なお、シンガポールをイギリスの植民地としたのは、ラッフルズ卿(Sir Thomas Stamford Bingley Rafflesで、イギリスの植民地行政官としてシンガポールを創設しました。 彼は、マレー半島南端の島シンガポールの地政学上の重要性に着目し、ジョホール王国の内紛に乗じてシンガポールを獲得し、1819年2月に同島を開港、1820年に自由貿易港を宣言。1822年から1823年までシンガポールに留まって植民地の建設にたずさわりました。 それ以前にも、イギリス東インド会社から派遣されてジャワ副総督に任命されて統治に当っており、このとき、「カンボジアのアンコールワット」「ミャンマーのガバン」と並ぶ「三大仏教遺跡」の一つの、「インドネシアのボロブドゥール遺跡」を、ジャワ島の密林の中に発見しています。 ◆ インドネシア 第二次大戦前は、オランダ領東インドとして、ほぼ現在のインドネシアの領域全体がオランダ本国政府の直接統治下でした。 日本軍は1941年には英領マレー半島のコタバルに上陸(マレー作戦)して、太平洋戦争が開戦し、1942年には主たる目的であった、スマトラ島の製油所と飛行場を制圧します。 1945年8月15日に日本はオランダを含む連合国軍に降伏しますが、念願の独立が反故になることを恐れたスカルノら民族主義者は同17日、ジャカルタのプガンサアン・ティムール通り56番地でインドネシア独立宣言を発表します。そして、これを認めず再植民地化に乗り出したオランダとの間で、独立戦争を戦うこととなります。 連合国軍への降伏後に多数の経験豊かな日本の有志将校が、インドネシアの独立戦争に参加して武装化しました。彼らはインドネシア側に武器や弾薬を提供し、農村まで撤退してのゲリラ戦や、都市部での治安を悪化させるなど様々な抵抗戦によって反撃します。この独立戦争には、スカルノやハッタら民族独立主義者の理念に共感し、軍籍を離脱した一部の日本人3,000人(軍人と軍属)も加わって最前列に立ってオランダと戦い、その結果1,000人が命を落としたそうです。 (ベトナムでも同じように、大戦終結後に抗フランス戦に参加した日本兵が多くいました。これについては、「SUEのエッセー」の31話を見て下さい) ジャカルタの国際空港には、「スカルノ・ハッタ空港」という独立戦争の英雄の名前が付けられていて、入り口には二人の立像が建てられていますが、「この二人がインドネシアを独立させたのですか?」と訊くと、「いえ、我々が独立できたのは、日本がオランダを追い出してくれたお蔭です。ただその後インドネシアをまとめたのは、あの二人でしたが」という返事が返ってきます。 ◎先に「ベトナム人は優秀です」と書きましたが、インドネシアでは一寸様子が違います。勉学のレベルもともかく、勉学に対する姿勢に違和感を持ちます。 例えば、メンバーの一人が「ミスター・スエツグ、この技術について一寸教えて下さい」と訊いてきたとします。僕が「分かった。では教えるから皆を集めて、、」と言うと、「いえ、私だけに教えて下さい」と言います。要は「自分の物だけにして、自分だけが上位に立ちたい」のでしょう。 ベトナムで同じようなケースがあると、何も言わなくてもすぐに皆を呼んできます。僕が講義をすると、誰かがノートを取って、後でそれのコピーを皆に配ります。レストランでも、手の空いたものが、忙しい人を手伝って料理を運んだり、片づけたりしますが、インドネシアでは中々そうはなりません。これは民族性の違いなのでしょうか。 ◎インドネシアは石油や天然ガス、天然ゴムなど、各種の天然資源に恵まれた「資源大国」であるとの印象を持つ方も多いでしょう。その通りで、インドネシアは産出量で世界上位に並ぶ資源大国です。(原油で世界22位[2012年]、天然ガスで世界10位[2011年]、天然ゴムで世界2位[2011年])。だからこそ、戦前、連合国の禁輸政策に苦しむ日本がそれらを狙って支配下に置いたのです。ただ、インドネシアはここ10年ほど、特に原油を含む石油類に関しては輸入国に転落してしまっており、原油・石油の合計の貿易量では、2004年から輸入超過が続いていて、その超過額と量はともに増加傾向にあります。原油だけに議論を絞ればかろうじて輸出超過を維持してはいるものの、1990年代までの「地域を代表する石油輸出大国」の面影はもはやなく、2008年には、OPEC(石油輸出国機構)を脱退しています。 ◎前述のシンガポールのラッフルズ卿の解説の一部でご紹介した、「ボロブドゥールの仏教遺跡」は、中部ジャワの中心都市ジョグジャカルタの北西約42kmに所在し、巨大なムラピ火山に囲まれた平原の中央に立地します。遺跡総面積はおよそ1.5万m2、高さはもともと42mあったが、現在は破損して33.5mになっています。
この遺跡は、久しく忘れ去られ密林のなかに埋もれていました。その原因については、火山の降灰によるものであるとする説と、イスラム教徒による破壊をおそれて人びとが土で埋めたという説があります 1814年にイギリス人のトーマス・ラッフルズによって森のなかで、遺跡の一部が丘の頂上から突き出しているのが発見され、全体が掘り出されました。 ◆ マレーシア ただ、君主が亡くなると、連邦内の13州のうちの9州にいるスルタン(君主)による互選で選出され(実質的には持ち回りの輪番制になっている)、任期は5年。世界でも珍しい、世襲ではなく選挙で選ばれる、任期制の国王である(選挙君主制)。 ◎僕は、サラワク州(ボルネオ島の北部。なお、ボルネオの南部はインドネシア領)での、天然ガス(メタンガス)を合成して石油燃料(ガソリン)を製造する、世界で初めてのプラントの建設に従事しました。 余談ですが、ボルネオの北の海岸で海を眺めていると、ここで「ああ、この海をあっちへ泳いで行けば日本に帰れるのだなあ」と思いながら死んでいった兵隊が数多く居たのだろうなあ、と、思ってしまいます。 ◎日本が輸入する天然ガスの約20%はマレーシア産です。 さらに、マレーシアの鉱業はスズ(錫)鉱の採掘が中核となっており、2002年時点の採掘量は4215トンであり、世界シェア8位(1.7%)を占めます。主な鉱山は、ケダ州、ネグリ・センビラン州に点在します。 首都のクアラルンプールに向けてマレーシア(マレー半島)の空を飛んでいると、下に見える地面に多くの池が見えます。スズ鉱石の化学組成は酸化スズ(SnO2)なので、アルミ(AlO2)と同様に、山中の鉱山や地中深くよりは、地表に多く存在します。 鉛とスズを主成分とした合金であるハンダは、金属同士を接合するのに使われますので、「溶接技術」が確立されるまでは、スズは金属接合の為の重要な「軍事物資」でした。 前述のたくさんの池は、スズ鉱石を得るための「露天掘り」の跡です。 その他、スズはブリキの被覆や、電子回路で電子部品をプリント基板に固定するためにも使われます。 スズ以外の鉱物資源としては、金鉱(サラワク州、パハン州)、鉄鉱、ボーキサイト鉱(ジョホール州)などが有ります。有機鉱物資源では、石炭、原油、天然ガスを産し、石炭以外は世界シェアの1%を超えます。 その他、椰子の油は、あの「ナパーム彈」の材料にも使われたそうです。ナパームは、沖縄での火炎放射噐にも、東京大空襲にも、ご存知のように、ベトナム戦争でも大量破壊兵器として使われましたから、やはり、「椰子の油」は大変な「軍事物資」だったのです。イギリスは、これらの資源を求めて、マレーシアを植民地としたのです。 ◆ ミャンマー
今回の解説は、以上です。 では。 (2020/12/21) ■ ■ ■ ■ ■ |
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