ハノイ市ドンダー区にある、2010年に「世界遺産」に登録されたタンロン城遺跡のすぐ隣に、軍事歴史博物館があります。
ベトナムの歴史は、まさに戦いの歴史。中国と、フランスと、日本と、アメリカと、と続く戦いの歴史です。
ベトナムは、約一千年にわたり、中国に支配されていました<北属期(漢から唐までの中国王朝支配期)
- (前111年 - 938年)>。この支配から独立を勝ち取ったのが、ゴー・クエン(呉権)という将軍でした。
時は、日本では平安時代の中ごろに当たる900年代ですが、939年に、中国軍(南漢軍)が海路ベトナムに攻めてきます。
ゴ・クエンはバックダンサンという河で、干潮の時に長さ3mほどの固い杭(鉄木)を川底に何本も埋め込み、潮が満ちて南漢軍が河口から上がってくると、逃げると見せかけて南漢軍の軍船を上流に誘い込み、潮が引いて南漢軍の船が杭に引っかかって身動き出来なくなると、一気に攻撃してこれを壊滅したのです。
バックダンザンの戦い
(海の中から鉄木が見える。 小舟が呉軍、右側の大きい船が漢軍)
この同じ方法を、13世紀後半に、モンゴル・元が三度目に攻めてきたときに、今度はチャン・フン・ダオ(陳興道)という将軍が、チャイン河で、同じ方法でモンゴル・元の海軍を壊滅します。
この時沈められた元の軍船には、日本への三度目の侵略に使う予定だった船が多く含まれていたらしく、結局、元は日本への三度目の遠征を断念する事になります。
どうやら日本を元から救ったのは、「神風」ではなく、ベトナム人の知恵だったという事のようですね。この、川底に打ち込んだ杭が、この博物館に展示されているのですが、写真を撮りに行った時に、丁度その展示室が改装中でしたので写真が撮れませんでした。
さて、1010年、ベトナム最初の長期王朝リー(李)朝の初代皇帝リー・タイトー(李太祖)が、都をハノイに定めました。ちなみに、ハノイの古い呼称はタン・ロン(立つ竜)。昔中国が攻めてきたときに、ハノイから竜が立って中国軍を滅ぼし、ハ・ロン(入る竜)湾へ入った、という言い伝えが有ります。その時に竜が吐き出した多くの玉(ぎょく)が、今のハロン湾の美しい島々となったのだそうです。なぁる程。
軍事博物館内にあるフラッグタワーは全体の高さ33.4m、三重の正方形の台の部分と18.2mの塔からなっていますが、この塔は、1812年にザーロン帝によってハノイ城内に監視塔として建てられたものです。 完成までに7年もの歳月がかかりました。1940年代には、日本軍がバクニン省と連絡を取るために電報局として使っていたそうです。これは、前述の「世界遺産」の一つとして、登録されています。
ハノイ城 監視塔
中国との戦いの次は、今度はフランスとの戦いでした。フランスは1887年にホン河から上陸し、ハノイを占領、日本に追い出されるまでベトナムを植民地としました。
日本が1945年にポツダム宣言を受諾すると、ホー・チ・ミンは、ベトナムの独立を宣言しますが、フランスは、これらインドシナ諸国の独立を認めず(何ということでしょうか!!)、1946年に植民地再建のためインドシナに戻ってきます。それからベトミン軍が1954年のディエンビエンフーの戦いでフランス軍を敗北させるまで、第一次インドシナ戦争(ベトナムの独立戦争)が続きます。
このインドシナ戦争で撃ち落とされたフランスの戦闘機の残骸が、博物館に展示されています。
撃墜された仏軍戦闘機
この独立戦争には、旧日本陸軍の兵士が随分と参加したという話を聞きます。この軍事歴史博物館にも、ディエン・ビエン・フーの仏軍との戦いで用いられた、日本製の砲が展示されています。この砲には、「四一式山砲」という銘板が読み取れます。
仏軍とのビン・ビエンフーの戦いで用いられた、日本の砲
四一式山砲 の銘板(右から読む)
余談ですが、ベトナム、インドネシア、フィリッピン、マレーシア、シンガポールなどで仕事をしますと、年配の方から時に「我々を独立させてくれたのは、日本だったのです」と言われることが有ります。万が一それが本当だったとしても、だからと言って、「大東亜共栄圏」をスローガンにした日本のアジアへの侵略と支配をとても正当化できるものでは有りませんが、「もしかすると、これらの国々の「親日感情」の奥にはこれが有るのだろうか」と時に複雑な気持ちにさせられます。
フランスの次は、今度は第二次インドシナ戦争(ベトナム戦争)になりますが、これは皆さままだまだ記憶に残っておられるでしょうから、特に解説は致しません。この博物館には、撃墜された米軍の爆撃機や戦闘機、それに「サイゴン陥落」の時(1975年)に、大統領府へ乗り込んだ戦車(皆様、このシーンはテレビでご覧になりましたよねえ、)が飾ってあります。
サイゴン陥落の時に、大統領府へ乗り込んだ戦車
これも余談ですが、ベトナム人はよく、「アメリカに勝った国は我々だけなのだ」と言います。これは彼らにとって、すっごく大きなプライドなのです。
さて、では「ベトナムは常に侵略されてばかりだったのか?」というと、実はそうでもありません。
ベトナムは、カンボジアがベトナム国境を侵犯したという口実で1978年からカンボジアに侵攻を開始、1979年1月に首都プノンペンを制圧します。ちょうどその時期、ポルポト派の政治委員だったヘン・サムリンが政権争いで失脚してベトナムに亡命してきたのを幸いに、この人物をカンボジア民族救国統一戦線の議長に就任させ、彼等を傀儡(かいらい)にしてカンボジアに侵略戦争をしかけたのです。つまり、ベトナムは内乱状態の内にカンボジアを占領し傀儡政権を樹立して影響下に納めるつもりだった、というのが歴史的事実です。カンボジアへ行くと、このベトナム軍の侵略と略奪と暴行を描いたレリーフが、あちこちで見られます。
当時のシアヌーク殿下は親中派であったので、中国にベトナムへの侵攻を依頼し、ベトナムが中国の反ソ政策に同調しない態度だった事に腹を立てていた中国のケ小平と華国鋒は、ベトナムをソ連の手先と見なして開戦を決断します。これがいわゆる「中越戦争」です。それでベトナムはそっちが忙しくなって、シアヌークの思惑通り、カンボジアから手を引く事になります。
ベトナム人に、「なぜあなた達はカンボジアに侵攻したのか?」と問うと、「カンボジアに居るベトナム人を救うためだったのだ」という答えが返ってきます。これは「日本の満州国樹立」や「ロシアのクリミア併合」の言い訳と同じですね。何時だって、戦争は自分勝手な理由をつけて始まるのです。
初めに「川底に打ち込んだ杭がこの博物館に展示されているのですが、写真を撮りに行った時に、丁度その展示室が改装中でしたので写真が撮れませんでした。」と書きましたが、その鉄木の実物を見に、皆さま一度ハノイまでいらっしゃいません?(2016/11/17)
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