しょうちゃんの繰り言
そして大人が居なくなった |
東京オリンピック(1964年)前後、現役で働いていた世代なら分かり易いと思うが、当時日本はあらゆる産業分野で上り坂だった。数字を基にした専門的論文ではないので、あくまで自分が眺めた狭い分野からの感想として述べているのは承知して頂きたい。オリンピック開催を契機とした、新幹線・首都高速道路・東名高速道路等の開通は日本経済発展の本格的幕開けとも言えた。 東京オリンピック当時、日本の鉄鋼メーカーに拠る年間粗鋼生産量はおよそ4,000万トン位だったと覚えている。50余年後の今は優に1億トン以上の生産能力を持っているがフル生産はしていない。それでもピーク時(1973年)には1億2,000万トン生産した実績が残っている。造船も世界一の地位を占めたのはその当時だった。(1957年に建造量世界一となり、1965年には全世界の建造量の半分を占めるようになった) 鉄鋼も造船も時代の牽引車の役目を果し日本産業の要であったが、経営陣の給料は決して高くはなかった。後に日本で長く言い伝えられていたのは、一部上場企業社長の給料は新入社員の約20倍という目安になる数字だった。これは単なる結果論で、各企業が取り決めていた訳ではないだろう。 ■ 現在では年収1億円の社長は珍しくないが、上の比率で逆算すると新入社員の年収は500万円となり、10億円だと5,000万円となる。現実は大卒新入社員の初年度の給料はせいぜいボーナスを入れても300万円止まりだろう。この事実からも時代が変わったことが窺われる。 また、1970年代には海運会社の社長は年収1,000万円を越えない不文律が存在していた。造船の際、国から利子補給を受けているため各社が自制していたのである。その自己規制がいつまで続いたかは不明にして知らない。だが、こういう事実は確かにあった。 ■ 今と比べれば決して多いといえない報酬で当時の経営陣は頑張っていた。一億総中流という時代を築いたのは彼らだったと言ってもいいだろう。派遣社員を含めた収入の格差は当時と比べれば一目瞭然だ。日本式節度で会社や社会が運営されていた頃は今のような不満は国民の間から起きなかった。そういった基礎を築いた先人の会社で、再建に成功したからといって、当たり前のように10億円の年収を取るのにやはり違和感を覚える。理由は簡単で、そんな金額が個人に必要なのかという基本的疑問からだ。そこにはもう既に日本的節度は存在しない。 ■ ある大手鉄鋼会社は関西地区に新設の高炉を備えた工場を1960年代に建設した際、現場で従業員が使用する作業着・ヘルメット・靴・手袋に至るまで地元の業者を通して購入している。大量に必要な消耗品・備品は各メーカーから直接買い付ければ格安になるのは分かっていても、地元を大事にした。つまり、社長も経営陣も会社や自分の利益が最優先という姿勢はあの当時その会社では皆無だった。前にも書いたが、年間10億円貰っても“欧米の基準ではまだ低い”と嘯いた社長が居るが、利益を上げるため工場・敷地を売却し、社員を切り、機材の納入業者を叩きに叩いた結果であることを忘れて貰っては困る。(拙文「厄介な生き物」参照) 日本にもその程度の知恵で良ければ幾らでも人材は居るが、日本人はやらなかった。地元のため、地域活性化のため、従業員のためという社会的使命を大事にし、何より社会での役割を心得ていた。私達が経済活動の中で育ったのはそういう価値観の時代だった。「鉄は国家なり」と言う言葉にも何の違和感も覚えず、むしろその通りだと思っていた。 ■ 上述した鉄鋼会社の役員・社長・会長を勤め上げた方と未だに交流があるが、基本に流れているのは共存であり、特に弱小業者に対する気配りである。ちなみに彼が役員になり会長の職を辞するまで、不況のため収入は48%カットだったという。 売れば売るほど損する自動車産業への薄板供給は鉄鋼メーカーの犠牲的精神に支えられていて、一方で何兆円という社内留保やトップが10億円に至る年間報酬を得る自動車業界がその対立軸にあるという背景はあまり世間に知られていない。さすが天下の公道を倉庫や駐車場代わりにする商人(あきんど)には金勘定だけは勝てない。自分達が儲かる前に周辺でサポートしてくれている人達を少しは考えてみてはどうだろう。そうすればおかしくなった時“ザマミロ”という罵声は起きない筈だ。(拙文「我が家の整理・整頓」参照) ■ 重厚長大産業が長く不況にあり、最近では優秀な人材もあまり来なくなったらしいが、国を支えた自負心は当時の人達には確かにあった。鉄は「産業の米」と言われ、そこに従事する彼らは使命感を持って生産に携わっていた。 急激な円高・後発国の過当競争等で造船・鉄鋼が不況産業になりかけの頃、パイプを咥えた評論家が“皆さん、1キロ何百円の鉄を作るより、1キロ何千円のICチップを作った方がよっぽど儲かりますよ。”と煽っていたのを思い出す。高層建築・橋梁・造船・自動車・等々の分野には鉄は必需品で、ICチップではビルの建設は不可能だ。用途の違うものを重量単位の価格で論ずるこの評論家の底の浅さに唖然としたが、彼は晩年“アメリカでは年利30%以上の金融商品を開発していますよ。日本の金融機関も見習わなければ。”とご高説を披露し、リーマン・ショック後には姿を消し、テレビからも引退した。こういった皮相的な物言いで通用し、かつこの程度を使い続けたマスコミも反省して欲しい。(拙文「天皇の執刀医」参照) 前述したように、鉄の支えがあって自動車が繁栄している事実を我々は認識しておかねばならない。 ■ 昭和25年代に千葉県に高炉建設の土地を買い求め、苦難の末最新鋭製鉄所を建設した川崎製鉄の西山弥太郎が当時の日銀総裁から“ぺんぺん草が生える”と揶揄された逸話は有名だが事実に基づいてないようだ。戦後の復興と鉄の需要を見越して果敢に立ち向かった彼の姿勢に花を添えるエピソードとして後に創作されたものだろう。二輪車から四輪車(自動車)製造に進出した本多宗一郎も、時の通産官僚に大反対されている。他にもアメリカでトランジスター・ラジオの販売契約に目処がついた時、ソニーの名前を販売会社の名前に変えるよう要請があった為、盛田昭夫は商談そのものを断っている。その時“あなたの会社よりソニーを有名にしてみせる。”と言った逸話も残っているが、真偽の程は分からない。他の分野でも似たようなエピソードはあるに違いないが当時の経営者には気骨のある人が多かった。 ■ 私が船の仕事で直接関わった鉄鋼会社の係長・課長クラスの人達は1965年当時、5年〜10年といった長期の契約に自分で判断を下し、決定していた。その後の10年単位の推移で見ると、その決定権は部長に移り、やがて担当役員まで巻き込むことになった。会社が成長期から短い安定期、そして長く続く不況へと推移し、あらゆることが管理されるようになったのが主な原因だろう。だが、この変化は企業の最前線に位置し、リスクを取って立ち向かっていた人達のあり方を根本的に変えてしまったような気がする。自分が失敗する事を極端に恐れるようになり、出来るだけ責任を取らない生き方に変わっていったようだ。背景には不況の為鉄鋼会社にもリストラの波が押し寄せたのが一番の原因とも言える。巷で言われている金融機関の減点方式が人事考課の基準となり、誰も敢えて先を読んで自分の責任で事を進めようとはしなくなった。下手をして読み間違えればリストラの対象になる。失敗を恐れだした頃から人は守りに入り、それぞれに少々の時間差があったとしても、あらゆる分野で閉塞感が漂うようになっていった。成長した後の舵取りが難しいと言われる理由はここにある。 ■ 環境が人を創り、そして育てる。気が付いたら辻褄合わせに終始し、上に従順な人間ばかり目立つようになった。身を挺してもやる気概が無くなり、培った人間関係まで上の意向とあれば平気で壊す会社まで現れるようになった。 ■ 私の友人が実際経験した例を紹介すると、株主会社から来た落下傘社長や役員の権限が強く、天下った会社の伝統・風土を平気で壊し、挙句に倒産の憂き目に会っている船会社がある。適性も能力も無いのに社長の椅子に長らく居座り会社を倒産させた例もある。(拙文「見えざる差別」参照) 彼らトップはやりたい放題で自分の意に反するものは退け、つまらぬ自己満足の世界に浸っていたとしか表現出来ない。理念・知性といったものには縁遠く、目先の利益を何の裏づけも無く追求し、挙句会社を破滅させた。 両社に共通しているのは身を挺してもトップに楯突く役員・社員が居なかったことだ。正確に言えば、少数は居たが彼らは暇なセクションに飛ばされている。酷い例では反発した為、出入り業者の会社に出向させられた社員もいる。なぜ他の社員は結束しなかったのか不思議だが、誰も我が身が可愛いのだろう。不条理と思えることが平気で行われ、それを正す人が居なかった。 周りに大人が居ないと、どうしてもこういうことが起きる。先を読み信念を持って事に当たることの素晴らしさを彼らは経験しないまま人生を送ることになる。そして何より怖いのは社員が結束して立ち上がる気風が無くなったことだ。 ■ 友人が経験した例は極端なケースかもしれないが、言えることは破滅は短い時間で起きたという事実だ。“組織の中に生きながら勇気を示した人物などというものに、私は近年1人も出会っていない。”と言った曽野綾子氏の意見に全く同感だ。(拙文「いじめ問題の根」参照) 人は何のために生きるのか、会社は何のためにあるのか、という基本的な事をしっかり叩き込まないと与えられた地位だけで破滅に向かうリーダーが上記二社に限らずどこにでも出てくる可能性がある。結果論としてではなく、彼らは最初から明らかな間違いを犯していた。それを指摘し正す大人が居なかったため、不必要な巨額な負債を抱え込むことになった。結果としてみんなが不幸になった。何か価値あるものに挑戦した結果ならまだ諦めも付くが、トップの浅はかな野望のため全てが壊れてしまった例だ。“俺が責任を取る”と豪語しても、個人で責任を取れる金額ではない。二度とこういうことが起きないように徹底して総括すべきだが、その気配は両社共に無い。 ■ 日本のために、地域のために、社員のために、取引先のためにといった当たり前の事を常に頭に入れておかないと間違える。特に権力を握った時、人はより謙虚になるべきだろう。先人達は今と比べれば格段に安い給料でも日本経済の牽引車になり、しっかり勤めを果し次世代にその遺産を渡してくれたが、我々をその遺産を次の世代に順繰りに渡す義務がある。それは何よりまず築きあげた理念でなければならない。そういった目で見ると情けないことが今は多過ぎる。 ■ 今からでも遅くない。大人が居なくなった社会は壊れていくことに早く気が付いて欲しい。誰のせいでもなく、自分のせいだと思えば今日からでもやれることはある。友人が言うようにそれぞれが大人になるしか解決法はない。曽野綾子さんに笑われないようにしないとこの国は長くない。 平成25年8月7日 草野章二
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