しょうちゃんの繰り言


見えざる差別

我々日本人は差別の無い社会に住んでいると思っている人が大多数だろう。国民は等しく誰からも平等な扱いを受けていると思い込んでいる。だが例の口の悪い友人に言わせると、我が国を含めどこの国でも完全な平等なんてあり得ないと言う。その社会の住人が平等に関し、納得していても、他の角度から見れば矛盾する点はたくさん見つかるそうだ。“人がいる限り平等なんて有り得ないし、差別はなくならない。むしろ必要な時さえある。”と言うのが友人の持論である。

例えば我が国の憲法の下では基本的人権や選挙権は等しく国民全てに認められていて、義務教育を受ける権利も等しく認められている。少なくとも日本では身分に拠る差別は制度としては存在しない。あらゆる自由な選択肢があり、本人の努力次第で道は開けることになっている。但しその道はあくまで選ぶ側の判断によって決まる。希望者が多い場合抽選で決まるのは本人の技能を問題にしてない公営住宅なんかがその典型的な例だろう。医者のように国家試験が課せられているのはあくまで専門職としての技能の到達点を審査する為だ。車の運転も勝手に自己判断で決めることは出来ない。学校に関しては公立校での義務教育を除いて、名前が売れていて希望者が多いとこでは各校入学試験というチェック・ポイントを設けている。就職する場合も基本的には受ける側は採用する側から審査される。但しその基準には普遍性が無いこともあるようだ。親のコネで入るケースもあり、その場合当人の能力・技能は何ら関係ない。人間社会ではそういった選択も、良し悪しは別として充分あり得る。

イギリスでも元々学校は貴族の子弟を対象に創られていて、歴史ある名門校は全て貴族や上流階級の御用達だった。先般亡くなったサッチャー元首相は、雑貨商の娘だったが1947年オックスフォード大学に入学している。単なる私見だが、雑貨商でも父親が地元の名士で、市長をやっていた事が大学側で考慮されたのではないだろうか。

そのイギリスの伝統的名門小学校の入学は、校区に子供が産まれ時、父親から校長への電話で決まる。これが彼の国での入学の手続きだ。しかしこれはあくまで然るべき上流階級の子弟でなければならない。イギリスやヨーロッパ(注・通常ヨーロッパには英国は含まれない)ではまだ身分制度の名残は幾らでも見ることが出来る。日本語ではこういうのも差別と言うのだろう。

“成り上がりの行儀の悪さはどの国でも同じだが、人品が卑しくない程度に磨かれるには三代かかると日本でも言われている。”友人の話はいつも唐突だが、少し聴いてみよう。

“自慢ではないが我が家には代々家系図はない。従って我が先祖・子孫は全て初代を名乗ることが出来たし、今から名乗っても構わない。俺の人品が卑しいのはそのせいだと思ってくれ。”急性胃潰瘍で退院間もない彼はまだ薬を服用しているが、医者から止められているタバコに火を付けて続けた。“礼節は衣食の後に付いて来ることになっていて、食うに困らなくなった我々世代も、まだやっと二代目程度だから品格は充分に磨かれていないのだろう。むしろ父親の代が人間として、はるかに品が有ったように思う。三代目の我が愚息達が品良くなるのはまず無理だろうね。イギリスでは家柄や育ちには果す役目があり、その役目を毅然と実行するところに選ばれた彼らの価値があると考えているようだ。フランスではかつての貴族には納税の義務が免除されていて、軍隊でも実態は安全なところで肩書だけの名誉職だった。フランスで革命が起きた理由が良く理解出来るだろう。そこでは身分制度が単なる差別につながっていた。一方イギリスでは貴族階級はその役目を果している事から身分制度という差別社会が国民に受け入れられている。”

なるほど彼の国民には基本的な人権が認められ、しかるべき階級の人たちが特別な役割を果す事でバランスが取れているのだ。彼らはより大きな役割を生れ付き背負っていて、生死を厭わず果敢に国のために戦う事を運命付けられている。その覚悟が無ければ貴族の存在理由とその価値を国民は認めなかっただろう。

“前にも言ったが、イギリス貴族は自分達の本来の役目を心得ていて、原則的に金勘定での判断はしない。彼らが学ぶのは歴史であり、哲学であり、芸術であり、指導者としての一般教養を深める教科で、経済や商業を選んで金融界で働こうとはしない。そうでなければ貴族制度自体が現代社会では存続し得なかっただろう。選ばれた者の崇高な役目を背負っているから常に誇り高い選択を迫られている。普段彼らは「貴族が額に汗するのはスポーツする時」と、からかわれているがね”(拙文「組織論についての雑感」参照)

友人が必要と認める差別はこの事を指しているのだろうか。支配階級がそれなりの役目を果せば、むしろイギリスみたいに貴族階級がいる方が或いは国民にとって良いことかもしれない。名誉を重んじる彼らは決して不必要な天下りや渡り鳥生活は、例え用意されていても受け入れないだろう。

“貴族のいない日本には身分制度も無く、差別がないと国民は思い込んでいるかもしれないが、底辺から見ると差別だらけだ。そこそこの学校を出て、そこそこの会社に勤めれば確かに社会は適切に対応してくれるだろう。一方彼らの尺度に合わなければ絶対相手にして貰えない。その代表が銀行だ。”自営業の友人が住宅ローンや会社の運転資金で、どの銀行も相手にしてくれなかった恨みは古稀を過ぎても強烈に残っている。銀行以外にも彼には幾多の苦い経験があるらしい。彼は私と同じ船の業界で仲介業務を専門としているが、契約が決まった後に既定の仲介料を半分に下げさせられたり、ひどい時には数分の一にされたりした事も有ったらしい。また最近では彼の骨折りで成功した、系列を超えてのメーカーとの取引も船会社から一方的に打ち切られ、本来あった仕事そのものも訳の分からぬ理由をつけて打ち切られたと憤慨していた。気の強い彼はかつて“俺は乞食ではない、そんなはした金は要らん。”と、ある船会社で啖呵を切って帰ってきたこともあるらしい。当時、倒産直後のその船会社を日本の代表的なメーカーと話を付け長期契約に大変な貢献をしたそうだが、喉もと過ぎての理不尽な対応に我慢ならなかったのだろう。ちなみにその船会社は数年前まで単年度で200億円以上の税金を払うほどに儲かっていたにも関わらず、つい最近また倒産した。彼の多大な貢献にも関わらず仕事を打ち切った会社も実質現在は倒産状態に陥り、株主会社からの支援で何とか生き延びているらしい。“理不尽な扱いはこの業界の常だよ。”と寂しく笑っていたが、大手メーカーの重要人物と深い人間関係を築いている彼の影響で、少なくとも彼に不義理をしたこの倒産した会社と、倒産しかかっている会社は彼が関係した大手メーカーとの取引は今後難しいだろう。

“こういった例はいずこの世界でもあり得る事だ。差別が無いと思っているのはよっぽど鈍い人間だけだろう。”彼がよく吐き捨てるように言う“小商人(こあきんど)”という表現は自分達の目先の利益だけで判断し、大きな井戸を掘った人間をすぐに忘れてしまう事に腹を立てているからだ。象徴的なのはそういった判断しか出来ない上記の二社が経営難に陥っている事実だが、その程度の判断しか出来ないから倒産の憂き目に会っているとも言える。原因はトップの無能で、リーダーを選ぶ基準が確立されてなく、株主会社の天下りや社内のトコロテン人事がその根底にある。“底辺から見ていると人の醜さがよく見える。俺が懇意に付き合っている人たちは相手の立場によって判断する人たちではないが、むしろそういった例の方が社会では少ない位だ。”

幼稚園の運動会で園児を並ばせ同時にゴールに走り込む事を平等と理解して実践しているとこがあるらしい。小学校でもかけっこ競技で順位をつけないという。だったら学業にも同じ理屈を付け、上級学校が採用している、試験の点数という結果で生徒を選別することに反対しなければおかしい。人間の能力に差があるのは当たり前で、それは運動能力にも当てはまる。各個人の能力差を否定していて、挙句の果てには本質を問わないペーパー・テストで差を付けるのは何か一貫性が感じられない。肉体も頭脳も差が有るのはあたり前で、子供だからといってそれを運動会等で否定することはない。

低学年の児童に対して差を付けないことに拘っている人達が結構居るが、彼らが主張する平等が全てに適用される筈がない。むしろ優秀な人材にはそれなりの役目を与えた方が社会のためになるのだが、それも何故か上手くいかない。実は我が国では優秀と思われていた人たちが優秀でなかった例が多かったからだ。「自分は少々の犠牲を払っても社会に貢献する義務がある。」と自覚している階層があった方がまだましかもしれない。本来教育とはそういった人間を育てる役目もあると思うのだが、何故だか自分の利益に振り回される彼の言う「小商人」みたいなのが多い。そのくせ色々と垣根を作りそれが差別の根源になっていることにも気が付かないでいる。

“バスの理論というのがあって、20人位で並んで待っていると列の先頭に並んでいた人達はバスに乗ったら最後、中のほうに詰めようとはしない。後に並んでいる人達は必死だが、乗れた人は一向にお構い無しだ。残念ながら人間というのはだいたいこの程度ではないかね。人生の乗り合いバスにも乗ってしまった方が勝ちで、乗れなかった人に手を差し伸べることは普通やらない。”なるほど、考えてみれば彼の言う通りだ。どういう理由であれ、乗れなかった人に思いを馳せるのは人間として当たり前ではないだろうか。乗れた乗客同志の笑顔の談笑には乗れなかった人への配慮が見えない気がする。

“制度としての差別なら文句の言い様もあるが、見えぬ差別の方は表立って批判出来ないだけに、たちが悪い。表面的には平等主義を唱えていても、実際には巧妙に立ち回るのが人の常なのだろう。もしかしたら差別している事の自覚も彼等には無いかもしれない。”

人は自分の利害に関する事には非常に敏感だが、公共のため、国のためといった事柄には一般的に無関心だ。残念ながらこれは人間の生き物として、自分を守るという防御本能に基づいているから教育で教え込むしか変える方法は無い。本来なら高等教育がその理念の確立を基本に置くべきだが、選抜の方法からして皮相的なものを試しているに過ぎない。

「社会正義」の実現を謳う弁護士が我が国に出現して何年経ったのだろう。「国民に対する奉仕」を第一義にしている官僚を含めた役人の組織が我が国に出来て何年経ったのだろう。「国民の代表」として選ばれた人達が国会で知恵を絞り始めてから何年経ったのだろう。

もっと言えばそれらを看視しているジャーナリズムは今まで何をしてきたのだろう。そしてその結果、安倍総理が言う「美しい国」はどの程度出来上がったのだろう。

如何なるスポーツでも名匠は「基本に忠実」をモットーに反復練習を選手に課している。料理の世界でも同じ事を新入りにやらせる。何時如何なる時でも身体が無意識に反応出来るまで鍛える。それでこそいいプレーは生まれ、いい料理が出来る。人が金を払うのはそのためだ。素人のプレーや料理に金を払う人は誰もいない。弁護士・役人・国会議員・新聞・テレビ・銀行・等々、本当に金の取れるレベルまで「基本に忠実」な訓練をして貰いたい。そして教育を預かる学校も「基本に忠実」な教え方を考えて貰いたい。前にも書いたが、文章も書けない国語の成績の良かった学生、外国人と意志の疎通も出来ない英語の出来た学生等々、その教育の成果の一端を見ても努力と時間の無駄が分かるだろう。

見えざる差別は人間としての基本を鍛えなかった結果ではなかろうか。

平成25年5月23日
草野章二


編集人注:

章ちゃんは「教育を預かる学校も・・・」と書いている。大体、学校の先生というものは困った人が多い。特に最高学府で教鞭をとる教授さんたち、ほとんど頭の中の半分は腐っているか脳みそが欠けているかのいずれかである。バランスの取れた人はいない。2年前にリタイヤした教授がいうのだから間違いない。

自分が何処かで習ったか読んだ知識とやらを学生に「基礎知識」と称して横流しをする。挙句の果てに覚えたかどうかテストする。これをやると学生の学力は見事に落ちる。問題解決のできない人間が大学を卒業していくのである。

私は大学教員になるずっと前、高校生の時にこのことを体験した。1年生のときのベテラン数学教師は、つまらんことを教えなかった。考えさせたのである。ところが2年生の時に、数学を担当したのがまだ大学卒業したての新人教師だった。彼は教科書の練習問題を解いきて、毎時間その答えを黒板に書く。私たちは呆れてボーっとしていた。

「写して憶えろ」という。そこで、

「ちょっと待て」とその教師に一問出してやった。なぜかというと、練習問題を自分で解いているのか、あんちょこを写してきたのか怪しい。ちょっと、試してやりたくなった。

「2つの円の共通接線の方程式を導け」という問題を出してやった。この問題は幾何学の問題だ。その新人教師は、この問題を代数的に解こうとした。

しばらく、ごちゃごちゃ計算などしていたが、

「この方程式を解けばいい」

非線形方程式になって、解析的に解けないのだ。意地悪く、

「いいから、解いてください」

お手上げになって泣いて教員室に逃げ帰っていった。1年の時のベテラン先生が飛んできた。

「お前たち、XX君を虐めちゃ駄目じゃないか」

お蔭様で、高校2年の時に数学の学力が地にまで落ちた。教師も教授もピンからキリまでなのです。生徒は先生を選べません。これは悲劇だ!唯一、いい学生はゼミ・研究室を選ぶのに真剣になる。

その新人教師もそろそろ80歳を越していることだろう。(2013/5/23わかやま)