しょうちゃんの繰り言


いじめ問題の根

7月27日の産経新聞に、最近起きた中学生のいじめ問題に関する曽野綾子氏の論評が出ていた。その中で氏は「若者たちは、常に自分と他者を生かすためには、知恵を働かせて1人で闘うことを覚悟する他はない。他人や組織を当てにしないことだ。」と述べた上で、結びの言葉として「組織の中に生きながら勇気を示した人物などというものに、私は近年1人も出会っていない。」と書いていた。中学生の自殺がいじめに原因があったかどうかで、その学校・教育委員会の大人たちが歯切れの悪い自己弁護や、紋切り型の対応を繰り返すのを大人の目で論評したものである。

いじめ、若しくはそれに類するものは子供の世界にのみ出現する特異な現象ではない。人がいる限り世界のどこでも、どの年代でも、何時でも発生している。人間の生れ付き持っている業とでも表現するしかない性である。本人と周りの折り合いが悪ければどの世代でもたちまちいじめに会う。特に自己中心に育てられ、抑制の効かない世代は暴走してしまう傾向がある。大人の世界では民族や宗教の違いも大きな原因だし、職業、収入の差、それに住む場所の違いもいじめの原因に成り得る。「出る釘は打たれる」という格言が我が国にはあるが、他より抜きん出ていることもいじめの原因に充分成り得る。人は決して他に対して寛大ではないし、自分に合わないものは排斥しようとする傾向がある。

「職業に貴賎の差なし」と昔の偉い人が言っているが、現実はそんな甘いものではない。安心して叩ける相手には子供のいじめ同様遠慮が無い。曽野氏が指摘しているのは不条理なもの、整合性の無いものに対する個人の姿勢で、近年おかしなことに対して誰も物を言わないし、まして渦中の人たちがまともなことを言わない、言えないことに対する苛立ちだろう。

子供を育てる大人が問題を抱えていてはまともな教えを子供に伝えることなど無理だろう。石原慎太郎氏が「この国は劣化している」と述べたのも根は同じではないだろうか。

今から30年以上前にある大手の鉄鋼メーカーの社員が、自分が担当した自動車メーカーの車を孫子の代まで買わないと力を込めて言ったのを思い出す。鋼材を買う側の横暴さに耐えかねたのだろう。人がどうあるべきかという前に、どうすれば儲かるかということを会社ぐるみで優先させた結果だ。社会的に認められるより会社の中で認められた方が買う側の担当者には有難いことなのだろう。多かれ少なかれ我々は常にこういった判断をしている。

士農工商という今では差別用語に類する身分を表現する言葉があるが、言葉は時代を反映するし、また時として真実を語ってくれる。今の社会の力関係で表せば逆に商工農と言い換えることも可能だろう。士が社会を牛耳っていた時代、頂点に居た士には金銭的に損得の判断は原則あり得なかった。武士としてどう生きるべきかという形而上的な命題を常に意識していて、自分の誇りの為には命を懸けて対処した。切腹は究極の自己主張であり、時として身の潔白を示す正当な最終手段であった。一方、今の時代は経済を牛耳っているところが一番上にいて、経済規模が下がるに連れて発言力が弱くなっている。金を払う側が上位にいるというのは買い物をする庶民にとって唯一のストレスの吐け場所だが、そこでも道を外し要求を際限なく膨くらます浅はかな人間がいることも事実だ。ただ、企業単位では払う側が常に優位にあり、時としてそれが恣意的に力の証として利用されることがある。下請け、孫受けの中小・零細企業にとって上意下達は日常茶飯の事かもしれない。下位に属する人達は上位にいる人達の機嫌を損なわないように我慢を強いられ、屈辱に耐えながら仕事しているのが現実ではないだろうか。今昔の支配階級の質の差には歴然とした違いがある。

高等教育を受けた人間までこういった判断しか出来ないとすれば、正にこの国は劣化しているし、曽野氏が言うように組織に属する人には勇気が無いことになる。

商人国家を代表するような人物が我が国の大使に抜擢され、挙句どの国の大使だか分からないような発言で更迭されることになった。国家間の問題に商売を優先させるようなコメントを出したのが更迭の原因だった。至るところで個人若しくは個人の属する組織の利益を優先すれば、見事に今の日本と似たような国が出来上がるだろう。

子供の人権を声高に主張する教育者や弁護士が居るが、元々確立されてない人間に人権などは無い。子供にあるのは人間らしくなるための教育を受ける権利だけだ。犬も躾をしなければ人間と共存することは不可能で、そこでは人間の都合が何の疑問も無く優先されている。子供も人間として完成させるためには人間らしくなるよう教育しなければならない。その過程で指導者(先生)の言うことを無視するような教室が存在するとすれば、そのことが一番問題である。子供も犬も動物は自分より上位者の目を意識していて、どこまで許されているかを本能的に常にチェックしている。簡単に言えば甘く見られたらそこでは躾も教育もまともには出来ない。学級崩壊や陰湿ないじめの根はそこにあるのではないだろうか。いじめを傍観する子供の世界にも曽野氏の言う「勇気を示した人に近年出会ってない」という大人社会に通用する現実的暗黙のルールが働いているのであろう。その周辺に居た大人たちも根本を変える取り組を放棄し、無かったことにしようという事無かれと責任逃れの姿勢がありありだ。

我が国では利益・損得・金儲けという物差しをあらゆる分野に持ち込み、自分の利益、我が社の利益を優先させ、それに従うことに何の疑問も感じなくなっているように思える。その延長上で物を見ると納得することが多い。

小学生の頃、道に外れた事を仕出かした場合、私の恩師は猛烈に怒った。その先生は子供に慕われていて、今でも懐かしく思い出すことがある。怒られた事に子供心にも当時理不尽だと感じたことが、今思えばそれぞれに納得のいくものである。奇麗事にして思い出を美化しているのではなく、真剣に子供の教育に取り組んで下さった先生がいたことを言いたいだけなのだ。その昭和20年代の小学校や中学校では今みたいな陰湿ないじめは皆無だった。教師には権威と威厳があり、とても馬鹿なことで逆らう雰囲気ではなかった。子供同士も学校から帰ると鞄を家に放り投げクラス仲間と暗くなるまで外で遊んだものだった。喧嘩もあり、諍いもあり、それでも子供は又すぐ仲良くなれた。当時、子供の世界には自然発生的に出来たガキ大将やリーダーが必ず居て、一方的ないじめを含めた揉め事にはリーダーが口を出して収めていた。こういった遊びの中での原体験が子供の社会性を養っていたのだろう。そこでは勉強が出来ても独り善がりな子供はリーダーにはなれなかった。子供は敏感なのだ。善悪の判断も集団生活から自然に学び、互いに成長していった。そういった昔の仲間は何年経っても本当に懐かしい。こういった経験を今の子供たちにさせることは出来ないのだろうか。塾に取られてしまった時間を子供だけの遊びに取り戻せないのだろうか。子供の頃の遊びは実は沢山のことを学んでいるのだ。仲間を死に追い込むようなことはその世界では本来あり得ない。

一方大人の社会では自分の都合や損得を優先させた場合、そこには既に共通する言葉が無くなっている。社会の劣化はこうして起きるのではないだろうか。勇気とは自分にも相手にも通用するものでなければならない。自分だけに通用し、相手を力で抑えることが勇気ではない。ヒエラルキーの完成された組織では個人は特に物を言わなくなっている。そんな人生を送っていて楽しいのだろうか。少なくとも胸を張って子供に自慢出来る生き方なのだろうか。それがサラリーマンだよと達観したような言い訳を良く聞くが、彼らは生き方の基本を間違えてはいないだろうか。

辻褄合わせに自分の人生が翻弄され、いい学校に入った、いい会社に就職出来たということが人生の全てだとしたら寂しい限りだ。陰湿ないじめの根は学校や子供の世界にだけあるのではなく、今の大人たちの生き方に深く根付いているような気がしてならない。

平成24年8月27日

草野章二