しょうちゃんの繰り言


厄介な生き物

地球にとって“一番有害な生き物は?”と聞かれた時、“人間”と答える人は思ったより多いのではないだろうか。もし自然界に神の摂理があるとすれば、あらゆる連鎖の頂点に君臨する動物である人間が他を全て利己的・恣意的に支配するという風には神様は創らなかったと思う。

狼が増えるには羊が必要だが、その羊には牧草が要る。牧草が無くなれば羊は減り、自ずと狼も減ってくる。狼が居なくなれば又羊が増えて牧草は無くなり、羊が生きておれなくなる。牧草も羊も狼も自然界の中でバランスが取れて初めて互いに長く共存が出来る。

このバランスの図式はあらゆることに通用するようだ。日本人の好きなマグロや鰻が世界的に減っているというが、取り過ぎれば自然の資源はそれがマグロであれ、鯨であれ、石油であれ枯渇するのは当たり前だ。再生出来るものは旨く管理すれば枯渇しないだろうが、再生出来ない有限な資源は期間が長いか短いかの違いだけでいずれは枯渇するに決まっている。

個人にとって100年・200年は経験不可能な長い時間だが、自然界の人類の歴史から見ればごく短い時間に過ぎない。しかし過去、この100年・200年という時間に起きた科学技術の進歩と我々の生活の変化は目を見張るものがある。

ちなみに天文学的見地から地球の今までの歴史を1年間のカレンダーに短縮して当てはめれば、現生人類(ホモサピエンス)が地球上に現れたのは12月31日の夜中に近い23時37分過ぎだという事らしい。

そんな後発の生き物が我が物顔に地球上で君臨して良いのだろうかという疑問がまず浮かんで来る。新参者はどの世界でも小さくなっているものだが、大晦日の夜遅く出て来てわずか23分の間に我々人類は地球上で牢名主面をしている。もっと謙虚になる必要があるのではないだろうか。

宇宙や地球に存在するもの全てが自然の流れに沿ったもので、人類の誕生や人間への進化とその営みも我々現代人が口を挟める余地は無い。考えてみれば極めて未完成の無防備な状態で地球上に現れた人間は、存在し生き延びる為に多くの困難を克服して来たに違いない。

衣服無しでは生きられない個体は自然界ではどう考えても生存に最も適しない生物と言えるだろう。細菌やヴィルスとの戦いから生き延び、人間は今日の繁栄(?)を短時間の間に地球上で築いて来た。だがその文明はまだ進化の途中とも言える。その偉大なる人間という生き物が又、皮肉なことに自然界に対する一番の脅威でもある。

人間が誕生し今のように進化したのも自然の営みの結果だと受け止めれば、その知恵と挙句そのバランスの悪さで自滅していくのも自然のなせる業として謙虚にこれも受け止めるしかないのだろう。

先程の地球一年間カレンダーで計ると1世紀が約1秒にあたるそうだが、こういった天文学的観点から眺めると人間そのものが如何に小さな存在かが良く分かる。但しこの人間という小さな生き物は等比級数的に進歩する文明の技術を手に入れてしまった。予言めいたことを言うとこの文明と言う利器で我々は破滅に向かっているのかもしれない。

現在我々が創り上げた社会・国家を見る時、人間の営みを科学者や所謂金儲けにしか関心の無い商売・金融での成功者だけの手に委ねていていいのだろうかという疑問が常に付き纏う。そろそろ哲学者の出番ではないだろうか。

人類の旧い社会体系は原始共産主義みたいなものを想像するが、何時の時代でも目先の効く人間は存在していて、そういった人が社会の中心となり挙句、国家を形成していったものと推測出来る。中心に居る人間は権力と富を独占するようになり、そこでも盛者必衰の理が何度も何度も繰り返されたに違いない。20世紀に生まれ、21世紀に生き続けている我々は過去の歴史から貧しい人間が常に権力と戦い続けて来たことも知っている。

我々が生まれ育った時代に日本では民主主義国家が確立され、国民主権の近代国家がほぼ出来上がった。そこには絶対権力を持った独裁者は居ないが、富は平等に分けられている訳ではない。働きに応じた分配がなされたと理解しても、その分配にはもっと配慮が必要な気がしてならない。

スポーツを特化して金の取れるゲームにまで進化させたのはある意味では評価出来るが、一握りのスポーツ界のスーパースターが手にする代価は今やとてつもない金額に達している。

野球には9人の選手が必要で一人では野球は出来ない。それでも打率で何分(ぶ)かの違いで手にする金額は打率に応じた按分比例ではない。あり得ない30割バッターと3割バッターの比較なら納得いっても1分(ぶ)・2分(ぶ)の違いで手にする年俸には格差があり過ぎるのではないだろうか。興行を目的とするプロスポーツは当然話題になることを歓迎するし、人より抜きん出た選手に高額の報酬を払うことは最終的にペイする限り今後も続くだろう。

日本の企業でも年間で億単位の収入を得る経営者が多数輩出するようになり、中には10億円に迫るトップさえいる。平均的な就労国民の生涯賃金が2億とか3億とか言われている事実を考えれば数億から10億という年俸は、特に創始者でもない限り、必要無いのではないだろうか。工場閉鎖・工場敷地の売却・従業員の解雇・給料の削減を大胆にやった結果の収益向上でトップが10億円近く貰い、“欧米の基準ではまだ少ない”と嘯いているのを聞くと何かが違うとつい思ってしまう。

グローバルスタンダードの本家アメリカでは金融関係者が億単位の報酬を取るのは当たり前になっており、トップに位置する者は年間何十億の報酬を当たり前のように競って取っていた。

リーマン・ショックで金融が破綻する前年(2007年)のリーマン・ブラザーズではトップの報酬は年間約200億円とも言われており、彼がそこでCEOとして14年間で得たトータルの報酬は510億円だったそうだ。同社のトップトレーダーは同じく41億円その年稼いでいる。ちなみにそこの社員の2007年平均給与は4,000万円だったそうである。ゴールドマンサックスにいたってはその年の社員平均給与は何と6,000万円だったそうだ。(全て当時の換算レートによる)

いったいこの富は何処から生み出されたものだろう。紙屑となった金融商品を買った顧客が彼らの高給を支えていたことになる。どっちみち不労所得を漁った結果だから観客として笑って済ましていいのだが、世界の経済界に与えた影響が大きいことを考えるとほっとく訳にもいかないだろう。

ミルトン・フリードマン(Milton Friedman)というノーベル賞を受賞した経済学者は所謂“新自由主義経済”という新しい理論で、極論すればあらゆる規制を無くし、企業の社会的責任も考慮の必要が無いと唱えている。これを聞いてアメリカ金融界の単細胞なハゲタカ共が意を強くしたに違いない。

こういった節度も理念も無い株屋や投機屋をオバマ大統領も“Greedy”(えげつなく貪欲な)と彼らを表現したが、これがアメリカの勝ち組の実態で節度を重んじる日本が真似をすることはない。破綻したリーマン・ブラザーズの失業日本社員を、日本を代表する証券会社が年俸4,000万円で引き受けたのには驚いたが、案の定ドブに金を捨てたような結果になった。

人の懐を探るのは極めて卑しいことだと我が国では戒めているが、こういった実態が明るみに出てくると少しは知恵を絞ったらどうだろうとつい余計なことを思ってしまう。

我々が高等教育を受けるのは少しでもましな人間になろうと目指すからではないのだろうか。世の中が何かおかしいと思うのは人の知性や理性に関係の無い判断が、儲かるという理由で大手を振っているからだろう。経済が生活の基盤を支えていることは良く理解しているが、人は一握りの利益のために奉仕しているのではない。上に立つ者には日本人と言わず、アメリカ人と言わずまず金儲けの前に“人間はどう生きるべきか”という勉強をしてきて欲しいものだ。哲学者が必要なのはそのためでもある。

我々人類が物差しの基準を間違えるとその分滅亡が早くなることを知るべきだろう。狼・羊・牧草には微妙なバランスがあってはじめて互いに共存が出来る。マグロも鰻もそして鯨も自然界で再生産できる範囲の捕獲に留めておかないと資源は枯渇する。

極めて少数の金持ちと多数の貧者では社会のバランスは崩れてしまうだろう。今ある社会が少なくともベストではないことを我々は理解している。それでも厄介な生き物である人間は飽くなき自分の利益追求で手一杯の輩が多過ぎる。

一人勝ちの勝負は経済の法則に則っていても、もっと大事な人間の感情の法則には則っていない。これを貧乏人の妬みと取るのは自由だが。

平成25年1月16日

草野章二