Jazzにまつわる話編集人

若山邦紘  1941年1月生まれ

慶應義塾大学工学部卒、高校時代から塾の混声合唱団楽友会で宗教曲の大曲をオーケストラバックで歌ってきた。音楽の基礎理論を勉強したのがこの時期だった。余技にトリオやカルテットでジャズ・コーラスやバーバーショップ・ハーモニーを楽しんでいた。

大学院博士課程終了後は法政大学工学部経営工学科に奉職、42年間、70歳まで研究・教育生活を送った。専門はOperations Researchとシステム工学。2011年定年退職、名誉教授。ゼミの卒業生は526人になった。

 
NHKの3チャンネルで「コンピュータ講座」のフォートラン応用に駆り出されて放送センターに通った。当時、新しい学問分野だったので、経済成長著しい企業の実務家の研修には大学院生時代から駆り出され、日本科学技術連盟、日本生産性本部、情報処理研修所では自分よりはるかに年上のおじさんの教育研修をやらされた。

学生時代からメンバーが所帯を持つ頃まではカルッテットで難しいスタイルの曲を好んで歌っていた。パートはバスを歌っていた。4人が家庭を持つ頃までは細々と歌っていた。


1961/12

40代の頃、南青山のLamp LightというピアノバーでDolly Bakerという大歌手に出会い、ジャズボーカルの何であるかを学んだ。ドリーからはいろいろなことを教わり、いろいろな本や資料、譜面、写真など珍しいものをもらった。お袋のようにしてくれた。しばらく後に沢田靖司と無二の友となる。ドリーに紹介してもらったのだった。この時代にクルーニング唱法を身につけた。ベルカントとは正反対の発声法で何とかジャズらしく歌えるようになるのに3年かかった。

2人のJazz Vocal師匠

Dolly Baker, 2006

沢田靖司,2016

この時代はソロ・ボーカルが中心だったが、元サーカスの島田トオルと三菱商事の有名人、佐藤 宏さんと3人で簡単なコーラスもやった。今はないテレ朝通りの夜更けのSound Inn DOMINANTが遊び場だった。


バンコックにて ドミナント・コーラス

50代半ばになってLight Music Society出身の寺田 厚兄さん、白石惠一兄さんに連れられて赤坂のLittle MANUELAに行くようになった。そこで、出会ったブルーコーツの小島正雄さん(11PMの司会者といった方がご存知か)の長男、小島 恂に誘われてジャズ・コーラスを25年ぶりに再開した。これがOZ SONSの始まりだった。


初期のOZSONS

1999年にスリー・グレイセスのコンサートに引っ張り出されたのがきっかけとなり、2000年代はいろいろな人やいろいろなところから呼ばれた。鈴木史子のKeep Shiningは2001年から常連メンバー、2002年、社会人ビッグバンド都連のコンサートに、OZ SONSがジャズコーラスとして初めて呼ばれた。


3 Graces 1999


Keep Shinning 5, 2001

2003年、最後の「ゲソの気まぐれコンサート」にゲストに呼ばれた。「初見で歌えるようなグループがいくらでもいるのに」と言うと、「俺はお前たちでいいのだ」と言った。

ゲソG+3グレイセス+OZ SONSの8人コーラスは圧巻だった。5月連休初日にコンサートがあったのだが、ゲソG(笈田敏夫さん) はその年の9月に他界した。


笈田敏夫 2003

2004年の2月には、われわれを可愛がってくれた世良G(世良 譲さん)がガンで亡くなった。自分のライブにオジサンたちを呼んで素人コーラスの伴奏までしてくれたのだ。追悼コンサートには30組ほどのゆかりのミュージシャンが出演したが、唯一の素人、われわれOZ SONSは世良Gにささげて”Mr. Wonderful”を歌った。

世良ママは「あなた達、一番心がこもっていたわ」と言った。それは、その通りだった。


世良 譲 2003

大橋巨泉とサラブレッズのドラムス、日本楽友会の理事長池貝政俊さんはミュージシャンの集まりで私を紹介するとき、

   「この人は趣味で大学教授をしている若山さん」

と言います。うまいことを仰います。


池貝政俊

ついに日本楽友会(ジャズメンの親睦会)の理事にされてしまいました。


草月ホール 2013


サントリーホール 2013

2013年6月に、最初で最後の自主コンサートを草月ホールで開催しました。約500枚刷ったチケットはSold Outとなった。中尾ミエに生前葬だと言われた。3か月後にはサントリーホールでのKeep Shinning 6でした。

翌年からは、元の3人で細々と古いレパートリーを引っ張り出して忘れないように声だししている。もう大きなことはやりません。


MANUELA 2017/1/21

2017年6月2日にOZ SONSの小島 恂が15年間のがんとの闘いに終止符を打ち息を引き取った。私は一日でも彼が歌う気持ちのある間はOZ SONSで歌い続けようと決心していた。この写真は知り合いを集めての最後のライブとなった。本当に最後のコーラスとなったのは、4月28日、神楽坂「もりのいえ」だった。3曲くらい歌った。


もりのいえ 2017/4/28

OZ SONSの歴史は丁度20年となった。よく歌い続けたものだ。OZ SONSは小島 恂のためのコーラス・グループだった。彼の死と共にOZ SONSも幕を閉じることになった。寂しいことだが何の悔いもない。よく頑張ってくれた。

「まこGのお別れ会」を9月18日にグランドホテル市ヶ谷で140人の親しい友人が集まってくれた。素晴らしい幕引きだった。

  

1999年にAll Of Me Clubの金城さんの発案で六本木界隈のジャズ・ハウス6軒が参加して「六本木ジャズクルージング」というジャズ・フェスを開催した。私がこのサイトを使って広報を担当した。2002年12月、俳優座劇場でコンサート「Sound Cruising Roppongi 2002」を開催した。このとき、若かったジャズ歌手の卵たちを集めてFemail Jazz Singers(FJS)という女声ジャズ合唱団を立ち上げた。この合唱団の音楽監督に指名され、その合唱団が今も活動を続けている。


FJS女声ジャズ合唱団 ヤクルトホール 2016

FJSの生まれた当時のメンバーだった看守の卵は、プロの歌手へと階段を上って行った。それ入れ替わるように素人の歌好き姉さんやおばさんが入って来るようになった。FJSで訓練を積んでクラブ歌手になっていったメンバーも複数人いる。

「Jazzにまつわる話」の英訳

私の主サイトである「Jazzにまつわる話」では、2人の翻訳者が英訳を手伝ってくれた。最初に手を上げてくれたのは、北海道に住む英語の先生、岸田佳恵さんである。ジャズの勉強のためになると始めてくれた。

2人目は宇川まり子さん、アメリカ帰りの歌好きの女性である。洒落まで上手に英訳するのに驚かされてしまった。

お二人はメル友になって、やり取りしていたようだった。

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わたしが編集する主な音楽関係サイト

⇒ Jazzにまつわる話

⇒ OZ SONS-PIT(オジサンコーラス)

⇒ FJS女声ジャズ合唱団

⇒ 楽 友(慶應義塾楽友三田会Official Site)

⇒ KBR Tango Ensemble OB会(慶應大学タンゴサークル)

⇒ 日本楽友会(ジャズ・ミュージシャン親睦会)

⇒ リトル・マヌエラ(赤坂見附一ツ木通り)