ジャズと雑学

(23)  Tin Pan Alley 錫鍋小路

Tin Pan Alley

ポピュラー音楽の作曲家や作詞家を抱えた軽音楽出版ビジネスが1890年代半ばから盛んになりました。譜面、ポスター、絵葉書などを売っていたのです。

ニューヨークのブロードウェイと6th Avenueの間の西28番街には、このような出版社がたくさん集まって来ました。そこで、この辺りを"Tin Pan Alley"というニックネームで呼ぶようになりました。ミュージカルやポピュラー・ミュージックの発信地だったのです。

数十年続いたTin Pan Alleyも1955年、Bill Haley and His Cometsの"Rock Around The Clock"、1956年のエルビス・プレスリーの"Heartbreak Hotel"のレコードが爆発的にヒットし、これを境にしてTin Pan Alleyは廃れていきました。


Bill Haley and His Comets

Billboardの#1を走っていた”Rock Around The Clock”を1位の座から引き摺り下ろしたのがミッチ・ミラーです。ご存知でしたか?爵士楽堂は痛快で気持ちがよかったです。”The Yellow Rose Of Texas”です。日本でも1960年代にはLet Me Hear A Melody♪と日曜日ごとに聞こえてきました。


Monroe H. Rosenfeld

さて、Tin=錫、Pan=鍋、Alley=小路、という命名は、Monroe H. Rosenfeld(1861−1918)という新聞作家でソングライターによるものです。 音楽出版社にはデモンストレーション用のピアノが置いてあり、夏ともなろうものなら窓が開けっ放しですから、Tin Panをたたき鳴らすような騒音の街だったのです。

57歳で亡くなる前の1917年には、The Tuneful Yankeeという音楽雑誌の編集長になりました。

 
このTin Pan Alleyという語が新聞にRosenfeldによって書かれたのは、20世紀になったばかりのころだといいます。

右の写真が出版社のデモルームの様子です。

あのガーシュインが15歳の時、ピアノで楽譜のデモをして働いていたという話は有名です。


Demo-room


Music Publisher

    

東京のTin Pan Alley

爵士楽堂は変な人で、青梅街道を下って中野区の鍋屋横丁を通るたびに、信号機の街路案内のプレートを付け替えたい衝動に駆られていました。やっとこの程、付け替えに成功しました。


東京のTin Pan Alley 作成:爵士樂堂主人

もともとは@です。本物には”Tin Pan Alley”とは書いてありません。ANabeyayokocho”の文字を消して”Tin Pan Alley”ととり替えます。B寸法を合わせて入れて、向きを変えてみても、どうも不自然で具合が悪いのです。

これを自然に見えるようにしたのが、「東京のTin Pan Alley」です。ちょっとした悪戯アイディアでも、見られるものにするには知恵を出さないとなりません。いや、知恵というより画像処理技術です。

こんな街路案内板があったら、世の中もっと楽しく生きられるのにねぇ。(2013/1/16)

おまけがあります。青梅街道の一本南の甲府に向かう街道は?


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