ベトナムの結婚式
ベトナムの結婚式は、この頃は日本と同じように、ホテルやレストランでいわゆる「披露宴」をやるケースも多いですが、一寸ローカルへ行きますと、日本と違った情景に出会います。
ハノイでの結婚式シーズンは、10月から4月位まででしょうか。これはこの季節の天気が良いからです。もう一つテト(旧正月)前と言うのも皆が結婚したがる季節のようです。
このシーズンに近くなりますと、ホアンキエム湖などのハノイ市内の景色の良い公園では、ウェディングドレスと黒のスーツを着たカップルが、プロのカメラマンに頼んで写真を取ってもらっているのをよく見かけます。この写真を結婚式の当日に会場に飾るためです。僕も一枚撮らせてもらいました。
<湖畔でのカップル>
<写真撮影風景>
結婚式の当日、呼ばれた新郎の家に行くと、大きなテントが張られていて、その下で、親戚の皆さま、ご近所の皆さま、友人などに、お茶と軽食がふるまわれています。別に挨拶や祝辞が有るわけでもなく、会場には(多くの場合)大きなスピーカーがしつらえてあって、大音量の音楽が、間を置かずに流されています。場合によってはカラオケ大会になっている。(日本人には、耳栓が必要なくらいに、大音響がうるさい。)
しばらくすると、新郎を初めとして、友人や親族の皆さまが、バスを連ねて新婦の家に向かいます。バスのフロントウィンドウには、必ず下のような「喜喜」のシールが貼ってあります。
<「喜喜」=喜びが、二つくっついている>
ベトナム人の皆さんは、「何かおめでたいことを表している」とは思ってはいますが、「喜び×2」とは知らないようです。
このシールを見ると、僕は、「漢皇重色思傾國=(漢王、色を重んじて傾国を思う)」で始まる、白楽天の「長恨歌」(唐代の玄宗皇帝と楊貴妃の愛を歌った長編叙事詩)の中の有名な一節、「在天願作比翼鳥、在地願爲連理枝」=「天にありては比翼(ひよく)の鳥となり、地にありては連理(れんり)の枝とならん」を思いだします。
ここでいう「比翼の鳥」とは、漢代に現れる、一眼一翼の伝説上の鳥で、雄が左眼左翼で雌が右眼右翼であり、常に一緒にくっついて暮らす鳥。このことから、後の人は仲のいい夫婦を「比翼の鳥」と言うようになったのですね。
「連理の枝」は、東晋(317−420年)に著された志怪小説集『捜神記』の、ある説話に由来した言葉。
戦国時代、宋の国の大臣・韓凭(かんひょう)と夫人の何氏は仲睦まじい夫婦であった。ところが、酒色に溺れ非道であった宋の国王・康王は、何氏の美貌が気に入り、韓凭を監禁してしまった。
妻の何氏は密かに夫に自ら命を絶つ覚悟を表した手紙を書き、康王に付き添って出かけた際に高台から飛び降りて自殺をしてしまった。一方、夫の韓凭も間もなく愛する妻のために命を絶った。
横恋慕の康王は激怒し、この二人を同じお墓には入れず、わざとすぐそばに別々に埋葬した。ところが、なんと数日後には二つのお墓から木が生え、枝と葉が抱き合うように絡み合い、根もつながってからみついた。そして、その木の上ではつがいの鳥が何とも物悲しい声でさえずりあったと言う。これが「連理の枝」。何とも悲しい一節である。
さて、新婦の家に行くと、そっちはそっちでテントの下で同じように盛大なパーティーが開かれています。
新郎と新婦が揃って、神棚の前で(多分)誓いあって、今度は新婦の親族もバスに乗って、新郎の家に戻ります。そこで又神棚の前で(多分)誓いあって、それで式は終了です。
別に「祝辞」が長々と続くわけでもなく、皆が集まって勝手にワイワイやっている、と言う感じです。
われわれ日本人はダークスーツにネクタイで、我がワイフは着物を着て行きますが、ご近所の皆さんは普段着、場合によってはジーンズにTシャツなんて人も居たりして。とにかく自由です。
それでも、親族のお婆ちゃまたちは、さすがに絹のベルベットのアオザイを着て来ますね。ワイフが着物を着ていくと、いつも皆大喜びです。
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ベトナムのお葬式
ベトナムのお葬式に行くと、まず入り口で「花輪」を頼みます。花輪業者が「○○株式会社」とか「〇〇でお世話になった・・」のプレートを作ってくれますから、その花輪と一緒に祭壇の前にと進みます。
祭壇の前で、その花輪と一緒にメンバーの写真を撮って、その花輪を祭壇に捧げます。あの花輪は、多分後でプレートを外して、他の葬儀に再利用されるのだろうなあ、と、思います。
親族の皆さまが、お棺の脇に、ご家族は黒の、親族は白の鉢巻をして立っておられるので、ご遺体とご家族に挨拶します。
生前の故人の業績などのスピーチがあります。
(すぐ隣のコーナーでは、遺体を囲んで別のお葬式をやっていました。こちらでは皆で、遺体に紙の短冊のようなものを、ペタペタと貼っています。訊いてみると、これは、お札(おさつ)(勿論おもちゃの)なのだそうで、個人が冥土に着くまでに必要なのだそうです。やはり、ベトナムでも「地獄の沙汰も金次第」なのですね。)
その後、バスで焼き場(火葬場)へ行き、又同じようにお別れをして、式は終わります。
日本だと、その後家族や親族などで「お骨を拾う」のですが、それは火葬場の係員がやるのだそうで、葬儀はここまでで終わりです。
また、街をドライブしていると、時々屋根の上に「青い点滅ライト」をつけた車を見かけます。これは遺体を斎場まで運ぶ車なのだそうで、時々その窓から、今度は黄色の紙がばらまかれています。これは、「もしかして冥土から戻って来るかも知れないので、その時のための目印」なのだそうです。「ヘンゼルとグレーテル」のお話みたいですね。
郊外へ行くと、畠の中に、つまりは自分たちの住んでいるエリアに、たくさんのお墓が並んでいます。
遺体は、ハノイやホーチミンのような都会では、すぐに火葬にして遺骨にしてお墓に入れますが、田舎では、まずは土葬にして、3年経ったら掘り出して、その遺骨を改めてまとめてお墓に入れるのだそうです。
(2016/5/10)
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