SUEのエッセー

ハノイの街角より

ホン河に架かる新旧二本の橋



今回は、ハノイ市内のベトナム北部を流れる紅河(ホン川)にかかる、二本の橋をご紹介しましょう。(因みに、「橋」<音読みだと「きょう」>は、ベトナム語では「 Cau」ですが、元々中国語からでしょうか、やっぱり似てるでしょう? )

 

@ ベトナム戦争を生き抜いた ロンビエン橋

紅河(ホン川)にかかる古いトラス式の鉄橋。

全長は1700mで、パリのエッフェル塔を設計したギュスターヴ・エッフェルが設計し、1902年に完成しました。(写真を見ると、「なるほど、エッフェル塔に似ている」と、思います)


ロンビエン橋@

ハノイとハイフォンを鉄道で結ぶ目的で造られ、ベトナム戦争中には米軍により繰り返し爆撃を受け破壊されながらもその度に修復され、今日もなお利用されています。ロンビエン(龍編)の名は、「龍が躍る」の意味。鉄道線路と歩道があります。


ロンビエン橋A

ハイフォンは、仏領インドシナ植民地政府の下で市に昇格し、フランス海軍の極東最大の基地として、またホンゲイ石炭の輸出港として発展した重要な工業都市です。今ならハノイから東南東へ車で2-3時間。ソ連が援助した地対空ミサイル「サム」 が、ハノイとハイフォンへ装備されていたので、ハイフォンもアメリカの空爆を受けました。

ハイフォンは北ベトナムで第二の工業地帯でもあります。2007年には紅河デルタのGDPのうちハノイについで2位の11.8%を占め、また、紅河デルタにおける重要な米の産地でもあり、漁業でも4番目に大きな漁場を持っています。

ハノイとハイフォンへの、ほぼ4年にわたる米軍の空爆は月平均2500回、100万トンの爆弾を投下して、600の学校、200の病院、500の教会と寺院を破壊したと言われています。爆撃は無差別というよりも、むしろ人口密集地帯を狙い執拗に繰りかえされました。

1972年12月のいわゆる「クリスマス爆撃」では、150機のB-52による夜間絨毯(じゅうたん)爆撃で、ハノイやハイフォンが焼け野原になりました。先回ご紹介した、ハノイの目抜き通りのチャンティエン通りは壊滅し、死者は500名を越えたと言われています。

ベトナム戦争時、米軍はロンビエン橋を最大の攻撃目標としました。橋は、何度も何度も破壊されますが、その度にハノイ市民は架橋を作り、粘り強く戦い抜きました。超大国アメリカを駆逐したシンボルとして、この橋は今もハノイ市民の誇りです。

A 日越友好の橋 ニャッタンブリッジ 
 (Nhat Tan Bridge、Vietnam - Japan Friendship Bridge)

紅(ホン)河の「ロンビエン橋」の少し上流に架かる橋で、環状2号線の一部として、日本の経済的・技術的支援のもとに建設されました。2015年1月に完成記念式典が催されています。

構造は「吊り橋」の一種の「斜張橋」で、 全長は1,500mです。 因みに、本四連絡橋の1つの多々羅大橋もやはり斜張橋です。 写真でも分かるように、塔から斜めに張ったケーブルを橋桁に直接つないで支える構造です。


ニャッタンブリッジ@


ニャッタンブリッジA

ニャッタン橋は、(日越友好橋)プロジェクトとして、既存の道路の交通量がすでに限界を超えていたのを解消するために、建設計画(第一期 136億9,800万円)、(第二期115億3,700万円)、(第三期 156億3700万円)と日本のODAで建設され、ハノイ市の中心部と新ノイバイ国際空港(これも日本のODAで建設されました。周辺道路の整備を含め、258億2,200万円)を接続する新たな連絡橋です。

皆さまも、ハノイへ来られると、この新しい国際空港に降りたち、ニャッタン橋のハイウェイを通って、ハノイの街へとお入りになることになります。(2015/10/21)


カッパさん、
読者の皆様のアクセス数に一喜一憂する気は御座んせんが、二週間で覗いてくれる人が100回いると思うと、又、つい書いてしまった。
でも、目標の”50”までは、まだまだでありんすなあ。
掲載、宜しくお願い申します。