SUEのエッセー

ハノイの街角より

ハノイの歴史的建造物


ハノイは建築の宝箱

ヨーロッパの建築デザインと、アジア植民地

前回の、「14.ハノイの街角より ハノイ大教会」で、ハノイに残るフランス統治時代の建造物として、「大教会」をご紹介しましたが、ハノイには、この他にもフランスの植民地であった頃に建てられた数多くの「フランスの遺産」ともいうべき建造物が現存しています。

ハノイは1873年にフランスに占領され、1887年以降、フランス領インドシナの中心地として繁栄しました。1954年、ディエンビエンフーの戦いでフランス軍が敗退して第一次インドシナ戦争が終焉を迎えるまでの約80年間、ベトナムはフランスの植民地でした。

今回はその間に建てられた建築物の中から、オペラハウスと、ソフィテル・レジェンド・メトロポール・ホテルの二つをご紹介しましょう。

ハノイのど真ん中には、そこから6本の通りが放射状に伸びる中心広場が有ります。このような街づくりはフランスの特徴であるようですが、オペラハウスとソフィテル・レジェンド・メトロポール・ホテルは、その広場を挟んで建っています。

オペラハウス

「海外に出るとイギリス人は公園と競馬場を作り、フランス人はオペラ座と監獄をつくる」と、よくいわれるそうですが、ハノイのオペラハウスは、1901年から1911年迄かけて、パリのオペラ座をまねて建てられました。近年、改修工事が行われて外観も内部もすっかりきれいになり、演劇やオペラ、オーケストラの演奏などのほか、海外から招待されたアーティストの公演やベトナム国立交響楽団(VNSO)のコンサート(今までにも何回かご報告しました)などが行われています。(注:「監獄」については、「4.ハノイへのいざない」の、「ホアロー刑務所」を参照ください)


オペラハウス

1873年、フランスはホン河から上陸し、ハノイを占領、植民地としました。現在オペラハウスがある辺りから、ホン河寄りが、最初に接収した租界地でした。そしてフランス風の建物を次々と築きますが、パリのオペラ座を模したこの建物は、その中でもっとも荘厳な建物となりました。ただ、この辺は元々湿地であったため、大変な基礎工事を必要としたといわれています。もともと「ハノイ」というのは中国語の「河内」で、今のハノイ市の中心部が二つの大きな川に挟まれていたことからこの地名で呼ばれていました。全体が湿地帯で、市内には、川から分断された湖や沼がいたるところに有ります。今でも「水はけ(雨水の処理)」が極めて悪く、ちょっとしたスコールがあると、市の中心部に水が溜まり、車が動けなくなることがしばしばあります。

オペラハウスが面しているチャンティエン通りは、植民地時代に租界地とハノイ城を結ぶ重要な通りで、商業や娯楽の中心街でした。オペラハウスではオペラや室内楽、劇が上演されましたが、ここを訪れる事が出来たのは、上流階級のフランス人と、わずかのベトナム人のみでした。今日でも十分に優雅で贅沢な雰囲気を醸しているこのオペラハウスを、当時のベトナム人たちは何を思いながら見ていたのでしょうか?

オペラハウスは重要な歴史の証人でもあります。正面の広場は“八月革命広場”と呼ばれます。八月革命とは、第二次大戦終結後の、1945年8月後半、ベトナムを統治していた日本の降伏を機に、ベトナムの独立を目指して、インドシナ共産党が起こした革命のことです。8月19日にこの広場で蜂起を呼びかける集会が行われ、その後の9月2日の独立宣言につながります。この日にこの広場に何千人もの人々が集まり、ホーチミンが二階のバルコニーから、独立を宣言しました。建物の正面に、この集会が行われた事を記したプレートがあります。またその後は国会がここで開かれるなど、政治の舞台ともなりました。その後、1950年以降には戦争などのために一時期寂れましたが、1990年代には修復工事が行われ、1997年の第7回フランス語圏サミットに合わせて再開されました。

白と黄色に彩られたオペラハウスの正面は、イオニア式とドーリア式の柱により荘厳で優美な雰囲気に包まれています。軒下の壁の装飾、小窓があるドーム屋根、屋根の上の獅子像、などなど、当時の優雅な様子を忍ばせるものばかりです。

中に入ると、座席数は660あります。二階にはボックス席があり、一寸した「貴族階級」の気分を味わうことができます。音響効果も抜群です。

ソフィテル・レジェンド・メトロポール・ホテル

オペラハウスから見て、広場の反対側に、ソフィテル・レジェンド・メトロポール・ホテルが建っています。このホテルは、ハノイで最も格式の高いホテルとして君臨してきました。過去にはミッテラン大統領、ブッシュ大統領などの世界各国のVIPや、チャップリンなどの著名人が訪れています。

2009年には改装が完了し、快適で清潔な最高級のホテルとして生れ変わりました。プール脇のテーブルで、ティースタンドでサーブされるスコーンと、美味しい紅茶かベトナムコーヒーを楽しむと、フランスの貴族の気分を味わえるでしょう。ホテルの前には、いつもクラシックカーのシトロエンが置かれています。


ソフィテル・レジェンド・メトロポール・ホテルは、1901年、フランスのインドシナ支配の絶頂期に、グランドホテル・メトロポール・パレスとしてオープンしました。植民地政府の高官であったデュムティエールが、「首都にふさわしい最高級のホテルを・・」と建てたといわれています。


ソフィテルレジェンドメトロポールホテル

読者の皆さま、ベトナム戦争中に、歌手のジョーン・バエズや女優のジェーン・フォンダが「ベトナム戦争反戦」を唱えてこのホテルに「楯となって」滞在し、「ハノイを爆撃するなら、私を殺せ!」と、世界に発信していたことを憶えていらっしゃいますか? 今でもその時の写真が館内に飾ってありますし、宿泊客以外には公開はされてはいませんが、その時の防空壕もまだ残されているそうです。


ソフィテルレジェンドメトロポールホテルからオペラハウスを望む

ところで、みなさまお気づきになられたかも知れませんが、ハノイのコロニアル建築って、黄色や黄色に近いクリーム色のものが多いのです。その理由は何かというと・・・・    

「これらの建築物は、形はフランス的だが、フランス人にとって南方を意味する黄系色で塗られていて、いわば『色の南方趣味』ともいえるものなのです。フランス人にとって、『黄色い建物は南部にあるもの』で、南仏にいけば、たしかに黄色い壁の建築が多いのです。これは、プロヴァンス地方で産出するオークル(黄土)などの石材を建材として使ったことに由来します。オークルは建築材料として盛んに使用され、インドシナへも輸出されていましたが、実際のオークルの使用はインドシナではごく限られていたと思われます。その代り、壁を黄色に塗ることで、建築家たちは南方の地に立つ建築であることを表現した」ということのようです。

ついでに、同じく黄色やクリームに塗られたハノイの重要な建築物の幾つかを、ご覧ください。


その他のハノイの建造物

ただ、同じくフランスの南方植民地であったアルジェリアやニジェールの写真などを見ても、建物の色は「白」が多く、黄色やクリーム色はそう見られません。その理由はまた別にあるのかも知れません。

(2015/10/9)


カッパさん、
暇な内に書いとこう。と言う事で、
「15.ハノイの街角より ハノイの歴史的建造物」
を送ります。

写真は、
「オペラハウス」「メトロポール」「シトロエン」の3枚は独立して、
その後の「公安警察・・」から「大統領官邸」までの7枚は、「縮小して一枚にまとめてしまって」、で良いのだけど、そんな風に行きますか?
願いご検討。
カッパさんも見にお出でよ!

末続

ところがメトロポール・ホテルの写真はない。末はボケました。

私がホテルの写真を探して出してあるのじゃ。

かっぱ