SUEのエッセー
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ヨーロッパ・中近東編
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*フランクフルト Frankfurt
am Main 本当はその後、フランクフルトを起点に、「ロマンティック街道巡り」をするはずでしたが、クウェートのイミグレーションの手違いから、乗るはずだったフライトを逃し、代わりにフランクフルトで「ライン古都巡り」をすることになったりしました。ライン河をゆったりとクルージングしながら、川べりに連なる古城を眺めるのも悪くは有りませんでした。 *スイス Schweizerische
Eidgenossenschaftとオーストリア Osterreich 覚えているのは・・
*ニュールンベルグ
Nurnberg ニュールンベルグはリヒャルト・ワーグナーの楽劇『ニュールンベルグのマイスタジンガー』の舞台として知られる街ですが、現在も旧市街は中世の城壁で囲まれています。この街は1050年に神聖ローマ帝国の資料に、nuorenberc(=「岩山」を意味している)として記録されていて、それが現在の地名の元となったとか、Nur ein berc =「たった一つの丘」の意味で、中世には重要な交易路がこの丘の上でいくつも交差していたからこう呼ばれた、とも言われます。このためかつてニュールンベルクはヨーロッパで最も裕福な都市の一つだったそうです。 行ったのは12月のクリスマスの頃で、それこそ滅茶苦茶に寒くて震え上がったことと、じゃがいもと、種々さまざまなソーセージが、めちゃくちゃ美味しかった事を覚えています。 ニュールンベルグは、第二次世界大戦中、連合国軍による空爆の優先目標であって、イギリス空軍とアメリカ空軍の航空機による爆撃で1945年1月2日に旧市街は壊滅的に破壊され、全市域が甚大な被害を負いました。 ただ、ドイツ人はそれから「壊された石のひとかけらまで拾い集めて、まったく元のように街を作り直したのだ」と言っていました。真偽のほどは分かりませんが、ドイツ人の「根性」とは凄いものだ、と感心しました。 <ニュールンベルグ> *スペイン/トレドToredo と バルセロナBarcelona ・トレドは、大聖堂を始め、旧市街全域がユネスコの世界遺産に登録されていますが、12世紀から13世紀にかけては、古代ギリシャやローマの哲学・神学・科学の文献がここでアラビア語からラテン語に翻訳され、その成果が中世西ヨーロッパの12世紀ルネサンスに大きな刺激を与えました。今でもその当時の街がそのまま残されていますが、マドリードから70km位の所にある古都で、一度は訪ねてみる価値のある街です。 1582年に九州のキリシタン大名の名代として、ローマへ派遣された4名の少年を中心とした天正遣欧少年使節が、ポルトガルのリスボン、スペインのマドリード、イタリアのリヴォルノ、ミラノ、ヴェネティア、フィレンツェ、ピサなどを歴訪していますが、その時にこのトレドも訪れたそうです。今我々が訪れてもその街の姿に圧倒されますが、その時の少年たちが得た感慨は計り知れないものだったろうと思います。
・バルセロナはカタロニア地方の主都で、マドリードを中心とする地域とは、政治的にも文化的にも一線を画してきました。今でも州立学校での教育はカタロニア語で行われていて、スペイン語は「外国語」として教えられているそうです。フラメンコを鑑賞しにいった時に、周りの人々の会話が、「スペイン語みたいだけど、何だかちょっと違うみたい」と思えたのですが、あれは多分「カタロニア語」だったのですね。 カタロニアは、ガウディ、カザルス、ダリ、ミロ、ピカソなどの独特な芸術家を多く輩出しています。 バルセロナからは、「モンセラート(のこぎり山の意味)」という山々が見えますが、この山々の独特な姿を見ていると、この地方でこれらの独特な芸術家が生まれたことが、なんとなく理解出来るような気がしました。
*ロンドンLondonとパリParisとローマRome
・我々は、聖公会の信徒なので、イングランド国教会(=聖公会)のウェストミンスター寺院へいきました。 ウェストミンスター寺院は、聖ペテロ修道教会で、戴冠式などの王室行事が執り行われます。内部の壁と床には歴代の王や女王、政治家などが多数埋葬されている他、ニュートン、ラザフォード、トムソン、マックスウェル、ダーウィン、ホーキングなどの科学者や、ヘンデル、ディッケンスなども埋葬されています。 寺院の中を歩いていた時に、床にヘンデルの名前が有った(そこが彼の埋葬場所の真上だった)のに驚きました。 ・パリの「ムーラン・ルージュ」にお出でになるときは、ちゃんとドレスアップしてお出でになるのがよろしいでしょう。我々はきちんとしたスーツで行きましたが、そのお陰で舞台に近い最前列の特等席に案内されて、フレンチカンカンその他のショーをすぐそばで充分に満喫することが出来ました(ラフな服装で行った他のツアー観光客は、上階の奥の席に案内されていましたから)。
・なぜかパリの街角に「ラーメン屋」が有って、若いマドモアゼルたちが箸で美味しそうにラーメンを食べていましたねえ。 ・もちろんルーブルにも行き、多くの素晴らしい芸術を満喫しましたが、とても一日では時間が足りませんでした。一週間くらいの時間が欲しかったですねえ。
・ローマのトレヴィの泉では、泉に向かって後ろ向きにコインを投げ入れると、ローマに再訪することができるという言い伝えがあります。 で、そのようにやってみましたが、今の所は再訪のチャンスは無いようです。 *(ローマ以外の)イタリア ヴァチカン・ピサ・アッシジ・ベニス 宗教機関でありながら、国としての側面も持ち、バチカン国籍保有者は615人(2018年10月時点)です。その領域はローマ市内にあります。 キリスト(イエス)は十字架で磔になって殺されましたが、「十字架刑」とはもともとローマの極刑で、ユダヤでの死刑方法は「石打ちの刑」でした。このことから、「キリストを処刑したのはローマであって、ユダヤ人がイエスを十字架に付けた訳ではなかった」という学説もあるようです。 その後、キリスト教がローマ帝国で公認(313年)されると、ローマにサン・ピエトロ(イタリア語で聖ペテロの意味)大聖堂が建てられました。 その場所はペテロが埋葬された場所と伝えられています。ローマ帝国内でキリスト教布教が公認された後、392年にキリスト教はローマ国教として認められることになり、ヴァチカンはカトリック(西方教会)の総本山となります。 新約聖書はこのころに編纂されていますから、「キリストを処刑したのはローマであった」という記述を避けたのではないか、とも言われているようです。 ・サン・ピエトロ大聖堂には、ミケランジェロの「ピエタ=悲しみの聖母像―1499年作」が有りますが、これを見るためにだけででも、サン・ピエトロ大聖堂へ行く価値があると思います。 ・ピサには、イタリア旅行の途中で、本当はミラノに行く予定でしたのに、フライトがキャンセルされてピサに着くことになり、ついでに「ピサの斜塔」に行って見ようという事になりました。「斜塔」は、教科書や観光案内誌にある通りで、最上階まで(もちろん歩いて)昇りましたが、「外部の滑りやすいデッキの床が斜めになっている」にも関わらず、「手すりも柵も何もなく」かなり怖い思いをしました。 ガリレオが、「重力による物体の落下速度は、その物体の質量の大きさによらない=重いものも軽いものも(空気抵抗を考えなければ)同じ速さで落ちる」のを証明するために、「ピサの斜塔から、重い鉛の玉と軽い鉛の玉を同時に落として実験した」という話は皆さまご存じでしょうが、「なるほどここから彼は落としたのか」と、改めて歴史を思いました。 ・アッシジについては、「サンフランシスコ」の稿でお話しした通りです。 ・ベニス(ヴェネツィア)には、スペイン旅行への途中で立ち寄りました。 ヴェネツィア人は697年に初代総督を選出して独自の共和制統治を始めました。これがヴェネツィア共和局の始まりです。 9世紀から、フランク王国との交易権も持つこととなり貿易都市への布石が置かれ、10世紀後半からはイスラム諸国とも商業条約を結び交易を拡大し、さらにアドリア海沿岸へと支配地域を拡大していきます。その後フランス、オーストリアによる支配を受けますが、19世紀にイタリアに編入されて、今に至っています。 「潮が満ちてくる」と、サン・マルコ広場も海水に満たされてしまいますが、「あっという間に」木製の遊歩道が組み立てられて、その上を歩くことになります。 「地球温暖化」でますますこの状況が悪化しているのでしょうか。 見どころは、サン・マルコ(聖マルコ)大聖堂、ドュカーレ宮殿など、お土産として、素敵なヴェネティアン・ガラス製品、各種のレース製品などを購入しました。。 *オランダ この時は、シェルが、あるプロジェクトを欧州の某エンジニアリング会社に発注していたのですが、「その設計がシェルのスタンダードに合っているのかどうか」を、「シェルのスタンダードを熟知している日揮にチェックしてもらいたい」との依頼があって、各セクションからの何人かのエンジニアでタスクを組んで、技術的サポートに行ったものです。天下のシェルからこんな依頼を受けるのですから、日揮の技術もたいしたものだ、と、少々自惚れましたけど。 ・ハーグでは路面電車と自転車が主たる通勤手段で、ほかの都市でみられる車の渋滞はなかったように記憶しています。 ・ハーグの海岸には数多くの「ムール貝レストラン」が有り、その味を飽きるほど楽しめます。ある時食事をしていたら、結婚式を終えた新郎新婦と多くのゲストがなだれ込んできて、「山ほどのムール貝」を何皿も何皿も平らげていましたっけ。 ・ちょっと足を延ばしてアムステルダムまで行くと、ゴッホ美術館が有り、多くのゴッホの作品を満喫することが出来ました。彼の最晩年の作品である「からすのいる麦畑」も鑑賞できましたが、思っていたより大きな、50センチX100センチくらいの作品でした。
ちょっと余談ですが、ゴッホの作品に「アルルの跳ね橋」と言う絵が有ります。これはオランダのクレラー・ミュラー美術館に所蔵されていますが、この風景と全く同じ「跳ね橋」をオランダの植民地であったインドネシアのジャカルタに行った時に、みつけましたっけ。
・アムステルダムには、「アンネ・フランクの一家が居た隠れ家」が今は博物館となっているのですが、残念ながらそこに行く時間は有りませんでした。 【中近東】 *
クウェート 国民の94%が国家公務員又は国営企業に勤めていて、早い話が、「働かなくても、国が(原油の売り上げからの分配として)給料をくれる」国なのです。役所に行くと、時には、仕事もしない娘さんたちが、単におしゃべりで時間をつぶしているような風景も見られました。 *
エジプトとイスラエルとイラン 【東南アジア諸国】 東南アジアでは、ベトナム、タイ、ブルネイ、マレーシア、フィリピン、カンボジア、ミャンマー、シンガポール、中国、などの各国を訪れました。 さらに「SUEのエッセー」という僕のホームページで、2010年から10年ほどかけて、色々と紹介しておりますので、そちらをお読み頂ければ大変うれしく思います。 以上、最後までお読みいただいて、有難うございました。 (2021/4/23) ■ ■ ■ ■ ■ |
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