ジャズと歴史にまつわる話
History of Jazz

大正末期に学生ジャズバンド
日本で最古の学生ジャズバンドは法政大学の「ラッカンサン・ジャズバンド(Luck and Sun Jazz Band)」だと言われている。法政大学には「軍艦マーチ」の作曲家・瀬戸口藤吉の指導による法政シンフォニー・オーケストラがあり、このメンバーの中から目新しいものをやりたい若者たちがブラスバンドからジャズへと興味を広げ、作間 毅をリーダーに「サンセット・ランド」というコンボバンドが作られ、間もなく「ラッカンサン・ジャズバンド」が結成された。
  


作間 毅(1904-1987)

 


菊地滋弥(1903-1976)


瀬戸口藤吉(1868-1941)

作間 毅はドラムス・ボーカル兼アレンジャーというマルチで、1925年(大正14年)、1926年と日本橋三越ホールでコンサートを行い、そのサウンドは1928年(昭和3年)から1929年にかけて、日本Victorで9曲のレコーディングが行われ、ラジオで放送されたのだという。後に、マスクをかぶり鉄仮面という別名でレコードがある。

同じく大正末期、1925年ごろ、慶應大学には菊地滋弥(pf)の6人編成のグループがあり、実業家で名高い益田太郎男爵の息子たちがジャズの研究をしていたという。日系2世のジャズメン堂本誉次(tp)が帰国して、益田家と親しかった関係から、ジャズバンドを作るように益田兄弟に促し、集まったのが古賀郁夫(sax)、紙 恭輔(sax)、福井孝太郎(vln)、高橋宣光(dr)らであった。彼らは「カレッジアンズ・ジャズバンド」と名乗った。
 

1927年頃、高橋宣光が「本格的なジャズバンドを作ろう」と菊地滋弥に提案し「レッド・エンド・ブルー・ジャズバンド(Red and Blue Jazz Band)」が始まった。高橋がマネージャー格となった。堂本は家業の貿易商が多忙となり、菊地滋弥を中心に活動するようになった。1928年に三越ホールで第1回のコンサートを開き大成功を収めた。「レッド・エンド・ブルー・ジャズバンド」は1928年から1929年にかけて、ニッポノホンとコロムビアに18面のレコード録音を行った。

ラッカンサンとレッド・エンド・ブルーは親しく交流していて、菊地滋弥はラッカンサンのコンサートやレコード録音には応援メンバーとして演奏したのだという。

法政、慶應の2校が人気でも技量の面でも傑出していたのだが、日本大学には「チェリー・ジャズバンド」、立教大学には「セントポール・ジャズバンド」「ハッピー・ナイン・ジャズバンド」があった。


法政大学ラッカンサン・ジャズバンド 大正13年 丸ビル

■    

2人の生まれた1903年(明治36)、1904年(明治37)というのは、ビング・クロスビー(1903年生まれ)、ファッツ・ワラー(1904年生まれ)と同じなのです。驚きませんか?シナトラは1915年(大正4年)生まれ。

大正時代の日本に、明治生まれの学生によるジャズバンドがあったという話は本当に感動的である。

 

さらに驚いたのは、ラッカンサンのレコードで作間 毅が英語の歌も歌っているのだが、素人の歌ながら個性のあるジャズ向きの声でフェイクしているような歌を聴かせる。凄いことです。

更に、さらに、レコードの中でデュエットでコーラスを付けているのが赤羽武夫という慈恵会医科大学の学生だった。赤羽さんは慈恵医大の男声合唱団創設者で、後に同大学名誉教授、私の20年来のジャズ仲間の赤羽紀武さん(慈恵医大出身の外科医)のお父さまだった。(2015/10/26)

参照 ⇒ 1930年代日本の爵士楽士(クリックして飛ぶ)


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