SUEのエッセー

ハノイの街角より

二つの廟


「ハノイに来たらここをお参りしよう!」と言われる場所に、「文廟」と「ホーチミン廟」の、二つの廟が有ります。

文 廟
文廟とは、孔子の霊を祭る孔子廟の呼び方で、ベトナムで最も古い大学が置かれていた所です。文廟はハノイにだけあるわけではありませんが、ハノイの文廟は1070年に建立されました。その後、1076年には優秀な人材を育成するために、国内初の大学・国子監が、リニャントン(Ly Nhan Tong)王の手によって設置されました。1946年、抗仏戦争の際に完全に破壊され、今ある建物は、2000年に再建されたものです。左右にある細長い建物は大学の授業が行われていた講堂で、王族・貴族の子弟が、中央の官吏になるための会試(中央試験)に備えて、ここで3年間の猛勉強をしました。この「会試」は、中国の「科挙」と同じ制度です。

因みに日本で一番古い大学は、日蓮宗総本山の身延山久遠寺の私立身延山大学(仏教学科)で、1604年(慶長9年)の建立です。文廟はその500年以上前に設立されていた、と言う事になります。


<文廟の地図>

奎文閣と言う門(これはハノイのシンボルマークになっていて、街のあちこちでこれを模したマークを見かけます)をくぐると、ティエンクアンという名前の池があります。その両側には石碑がずらっと並んでおり、1442年から1779年の間に実施された82回の「会試」の合格者1304人(年に二人か三人)の名前と出身地が刻まれています。この時代以降、ベトナムの国家運営の基本軸は、それまでの仏教から儒教へと転換したと、歴史学者は推測しています。


<奎文閣>


<ティエンクアン池>


<合格者の名前を記した石碑>

大統合門の奥が文廟(孔子廟)で、ここに孔子と孔子の四人の高弟、孟子、曾子、顔子、子思が祀られています。


<拝殿>


<孔子像>


ホーチミン廟
ハノイの中心のバーディン広場に、ホーチミンの遺体を安置しているホーチミン廟が有ります。

廟は兵士によって厳重に警備されていて、一年中冷房の効いた内部の部屋に永久保存処置を施されたホー・チ・ミンの遺体が、まるで眠っているかのように安置されています。廟の中は軍人により警護されており、私語厳禁で立ち止まることは許されませんし、撮影も許されません。


<ホーチミン廟>

よく知られていることですが、この廟の建設はホーチミンの遺志によるものではありません。ホーチミンの遺書には、「負傷兵、殉職した者の家族が飢えに苦しまないように。勝利した暁には、農業税を一年間免除するように。そして自分の遺体を火葬にして遺灰を三つに分けて北部(トンキン)、中部(安南)、南部(コーチシナ)の丘陵に埋めてほしい。丘陵には石碑、銅像は建てず、訪れる人たちが休むことができる建物を建て、記念の植樹ができるようにしてもらいたい。」と記されていました。彼はこのように、自らの偶像化には否定的な思いを託していたのです。

でも、にもかかわらず、このように安置されることになって、また、ハノイのみならず、ベトナムの国中のいたるところに、彼の肖像画と胸像が飾られているようになり、お札にも全てホーチミンの肖像画が印刷されるようになって、彼自身がどう思っているだろうか、と、いつも考えてしまうのです。でも、いつ行っても、ホーチミンの遺体を拝むために老若男女のベトナム人がこの廟の前で長―い行列を作っているのを見ると、「あー、彼は本当にベトナムの人々に敬愛されているのだなあ」と思ってしまいます。

廟内は空調がよく効いているせいか、入るや否やひんやりとして静寂に包まれた雰囲気に驚きます。私語も立ち止まる事も厳禁で、ただ、黙々と階段を上った先の部屋に向かい、四人の軍人に警護されたガラスケースの中のホーチミンをお参りします。

明るさが抑えられた薄暗い部屋の中で、中央の白い光がホーチミンの顔を浮き彫りにするかのように照らしています。参観者は、その透き通ったような穏やかな表情から、幾多の困難に直面する中で信念を貫き、清廉さを失わなかったホーチミンの生涯を感じ取ることができるでしょう。

ホーチミンの遺体は、エンバーミングと呼ばれる、遺体の変化を薬液の注入により停止させる手法で保たれていますが、この手法は、1924年にレーニンが死去した際、その遺体に保存処理を行って、石造の廟に安置したのと同じ手法です。

実は、1953年にスターリンが死去した時も、その遺体も保存処理が施されレーニンと並んで安置されたのですが、1961年の「第二次スターリン批判」にともなって撤去されて、彼は今、クレムリンの壁とレーニン廟の間にある英雄墓域に埋葬されています。やれやれ、死んだのちにも、落ち着いてはいられなかった訳ですねえ。

さて、米国が北ベトナムに爆撃を開始したとき、ホーチミンは、「戦争は10年20年、あるいはそれ以上長く続くかもしれません。ハノイ、ハイフォン、その他の都市や企業も破壊されるでしょう。しかしベトナム人は断じて恐れません。独立と自由ほど尊いものはないのです。勝利の日が来たら、我が人民は我が国土をもっと素晴らしいものにするでしょう」と演説しました。

勝利を見ずに亡くなったホーチミンですが、その言葉は語り継がれ、死後もなお人々の心の中に生き続けています。

ホーチミン廟の近くの左手に、黄色く塗られたいくつかの建物が見えますが、この建物の一部が、ホーチミンが実際に住んでいた住居兼執務室で、彼は1954年から1958年までこの建物で暮らしました。ホーチミンは、後方にあった大統領府(当時は迎賓館でした)に住むのを断り、職員の住居であったこの場所を選んで住み始めたと言われています。寝室は、ベッドにゴザが敷いてあるだけの簡素なもので、ほかに洋服ダンスがひとつと小さなデスクがあるだけです。その隣の部屋は食堂で、小さなダイニングテーブルに食器が陳列されていますが、これらはホーチミンが実際に使ったものです。その隣は執務室で、デスクの上にはタイプライターが、壁の上にはレーニンとマルクスの肖像画が飾ってあります。その横には本箱があり、当時のまま残されています。

1階は壁がなく、広いスペースに大きなテーブルセットが置いてある会議室になっています。どの部屋も極めて質素なもので、「ホーチミンは本当に清貧の人だったのだなあ」と思います。


<ホーチミンの家>


<ホーチミンの執務室>


<1階の会議室>

ただ、彼が身をもって示したその「清貧さ」が、今のベトナムに引き継がれたかと言うと、極めて残念なことですが、決してそうとは言えません。2014年の春には、ベトナム国内における、日本の政府開発援助(ODA)によるプロジェクトに関しての、8,000万円にも上る贈収賄事件が報じられましたし、そうでなくても、この国で仕事又は生活をしようとしますと、常に「汚職と賄賂とコネとごまかし」が顔を出します。「〇〇〇と言う雑誌に広告を出してくれ」とか、「この件については、XXXと言うコンサルタントを通してくれ」とか「タクシーがわざわざ遠回りして稼ごうとする」と言った事もこの類(たぐい)です。 今工場を建設している日系の工業団地では、省の工業団地局と力を併せて「汚職と賄賂の撲滅運動」を展開してかなり効果を上げていますが、そうでもしないとなかなか収まらない事が有るのが、大変悔しくて悲しいことですけれども、この国の現実です。多くのベトナム人はまじめで勤勉なのですが。

なお、このホーチミン廟とホーチミンの家の近くに「ホーチミン博物館」が有り、ベトナムの独立を成し遂げた彼の功績が多く展示されていて、その足跡を辿ることが出来ます。

(2016/8/15)


カッパさん、
久しぶりでもないのに、久しぶりのような気がします。
28.ハノイの街角より=二つの廟 をお送りしますので、宜しくお願いします。

日本は暑いらしいですね。
ハノイは6月が一番暑く、8月になると少しましになります。今日あたりは気温は30度ですが、風が吹けば、何となく涼しいか。

8/20-9/4まで、半年に一回の休暇で、帰国します。「任期」について社長とネゴになりそうだけど、余り「勝算」はなさそう。
どうなりますやら。

合宿があって今帰った。
差し替えた。チェックせよ。
かっぱ

カッパさん、
合宿ってなあに?

爺のコーラス合宿、夏の軽井沢で3日間やってきた。
く・た・び・れ・た。