歌と歌手にまつわる話

(128) ジョー・ウィリアムスとHere's To Life

Joe Williams(1918-1999)

ジョー・ウィリアムスがラスベガスの病院から抜け出して路上で死んでいるのが見つかってから11年が過ぎました。99年3月でした。早いものですね。

2003年に、この歌のための1ページを書きました。

ジョーとHere's To Life(人生に乾杯!)には因縁めいた話がありました。2005年にその話を聞いて、そのページに追記しました。

さらに、昨年、You Tubeにジョーがライブかテレビ番組で歌った映像がアップされているのを見つけました。そこで、この映像も付け加えました。

さらに新しい事実も判明したこともあり、項を改め「ジョー・ウィリアムスとHere's To Life」というタイトルで紹介いたします。(2010/12/5)

2005年6月のことです。爵士樂堂の顧問、志保沢さんから一通のメールが来ました。暫くぶりのメールです。Here's To Lifeにはこんな裏話があったのだそうです。

初め作曲家のArtie Butlerはこの曲の最初にレコーディングする権利をMr. Sinatraに進呈した。しかし、何年も彼はレコーディングすると約束し続けていたが、どういう訳かレコーディングには至らなかった。Joe Williamsがその曲を欲しいと言った時、ButlerはSinatraに譲渡してくれるよう依頼し、曲はJoe Williamsのものとなった。

Joeはライヴで頻繁にその曲を歌ったが、当時のVerveの愚かなプロデューサーはその曲のレコーディングを許さなかった。イライラしたJoeは自身の啓発の為プライヴェート・レコーディングを行ったのだが、Joeのマネージャーで以前Shirley HornのマネージャでもあったJohn Levyが彼女にそのテープのコピーを渡してしまい、結局彼女が正規のレコーディングをする事となり、しかもGrammy賞等を取るなど大成功を収める事となった。

Joe WilliamsはLevyとShirley双方を“彼の曲”を盗んだ事で怒り、復讐の意味で(と思うが)、後に、彼の最後のアルバムの一つとなっ た、Shirley Hornのと同名のタイトル、“Here's To Life”のCDを、しかも“2つ”のヴァージョンを入れ込んだ形でTelarcレーベルから発売した。アレンジャーは有名なRobert Farnonだったが、時すでに遅く、衆目にはその曲は、Johnny MandelアレンジのShirley Hornの曲となってしまっていた。ShirleyはJoe Williamsの歌を聴いて触発されたと言っている。

(Joel E. Siegelの書いた記事より)

これを書いたJoel Siegel(1940.6.25-2004.3.11)はGeorgetown Universityで教授で、80年代〜90年代にかけてShirly Hornのマネージャー・プロデューサーをやっていたのだそうです。上記の記事を書く人間とシャーリーのHere's To Life の吹き込みに立ち会うマネージャーとしての像が同一人物に思えますか?白々しいこと甚だしい。


Mandel  Shirley  Siegel

さて、このような心揺さぶる歌をシナトラはなぜ歌わなかったのでしょうか不思議に思いませんか。Joel E. Siegelの話が真実だとすると、いやー、止めとこう。

「衆目はシャーリーの歌とした」とありますが、わたしにはそういう思いはさらさらありません。なぜなら、ジョーはシャーリー・ホーンのCDや自分自身のCDが出るずっと以前から歌っていたのです。そんなこと、アメリカのテレビを見ることの無い日本人には知りえないことです。


Here's To Life by Joe Williams

このビデオは2009年に偶然にYou Tubeで見つけました。このビデオはライブです。それがたまらないのです。これは、ジョーがいくつの時の映像なのでしょうか、結構若く見えます。70歳を越していないように思います。1980年代後半だと思います。

私はこのビデオを見て涙が出ました。言葉になりません。すごい歌です。

歌詞を見ながら聴いてください。上のビデオをスタートしてから歌詞をクリックです。

画面には出てきませんが、最後にジョーが”He's Artie Butler”と紹介しています。おそらく、ピアノをバトラーが弾いていたのではないかと思います。オーケストラの指揮もしていたのでしょう。

1991年にTVショーで歌っています。その映像は途中からしかありませんが見てください。偶然にテレビを見たら歌っていたというので、録画したというものです。

上でお見せしたビデオとまったく同じアレンジで歌っています。キーはFmです。このアレンジは作者のArtie Butler自身によるものだと思います。画面に1991年と出ています。コーダ前の間奏ではArtie Butlerのコンダクター姿が映っています。

このようにTVではJoe Williamsの独壇場です。Joeの歌です。それでいながらShirley Hornは臆することなく先にCDに吹き込んで売り出してしまったのです。私はこの図太い神経には呆れてものが言えません。しかし、その当時のシャーリーは、乳がんと糖尿病と関節炎と闘い、脚も切断し満身創痍の日々を送っていました。そんな時にこの歌と出会って最後と思って歌ったのでしょう。

シャーリー・ホーンのCDが出された翌1993年、ジョーの吹き込んだアルバム”Here's To Life”の冒頭とラストに2曲の”Here's To Life”が入っています。1曲目はRobert Farnonアレンジのオーケストラの伴奏、特に最後の”Here's To Life”はジョージ・シアリングの伴奏によるデュオです。

ところがのロバート・ファーノンのアレンジではBbmという超高いキーで歌っています。シャーリー・ホーンと同じ女声キーです。Joeはそのキーで歌っているのです。可哀相なもんです。ファルセットで歌っています。どういう意図だったか、私にはまったく分かりません。何故、こんなキーで歌わされたのでしょうか?

私の想像では、ロバート・ファーノンにはシャーリー・ホーンのCDか90年に出版されたSheet Musicを渡してアレンジを依頼したのだと思います。Joeが歌うことを伝えていないのです。だからBbmなんですよ。しかも、オーケストラの録音が先に出来て、後からジョーは無理やり歌わされたものでしょう。アホらしくてものが言えません。

ジョーも仕方なしに歌っています。まるで拷問ですな。また、CDのラストはGeorge Shearingのピアノで歌います。こちらはF#mです。なんとも不思議ですね。それまで歌いなれた伴奏やキーをなぜ変える必要があったのでしょう。半音の違いですが落ち着きません。まぁ、私には分からんことだらけなのです。

私(アーティ・バトラー)が少年時代、父親にカウントベイシー楽団を聴きにBirdlandに連れて行かれ、そこでジョー・ウィリアムスの歌をはじめて聴き、そのセンスとパワーの強烈な印象が後の私の音楽に大きな影響をもたらした。

1984年頃、ラスベガスに仕事で行きジョーと会った。「どうしても聴いてもらいたい歌がある」と出来上がったばかりの”Here's To Life”をピアノ弾き語りで聴かせた。ジョーは立ったままぼろぼろと泣いた。「もう一度やってくれ」といわれて、もう一度歌った。

その後、ジョーはプライベート・レコーディングし、自分のショーでは必ず歌うようになった。最後に会ったのはサンタモニカでの彼自身の表彰式の晩餐会だった。ジョーは”Here's To Life”を歌い、私がピアノ伴奏をした。その2週間後にジョーは亡くなった。


Artie Butler(1942- ) and Joe Williams

(Artie Butlerの思い出より)

これはバトラー本人の書いた文章です。これで”Here's To Life”の生まれた時期が明らかになりました。出版されている”Here's To Life”の譜面は1990年となっています。キーは女声キーですからシャーリー・ホーンのために書いた元の譜面に違いありません。譜面が出版される6年前に出来ていた歌だったのです。レコーディングではマンデルの編曲ですからバトラーの原譜とは違います。

Joel E. Siegelの書いた記事と話が合わないところがあります。本当にシナトラに歌わせようとしたのか怪しいと思いませんか?Joe Williamsが「この歌を欲しい」と言ったとありますが、Butler本人がJoeに聞かせているのです。私にはSiegelの書いたことを丸呑みに出来ません。いや、嘘っぱちの作り話です。

作り話も結構ですが、活字にしないでください。下々は信じてしまいます。ライナーノーツにもよく嘘を発見します。そう新聞もです。私が発見する間違いは単にライターが無知のためで、Siegelのようなおとぼけ悪意とは異なりますが・・・アメリカってーところは酷い国ですね。初めに可哀想なのはネイティブのインデアン達、続いて気の毒なのがアフリカンアメリカンの黒人たちです。何しろ白人は未だに彼らを人間扱いをしない国です。

私が妹同然にしているSalena Jonesは、アメリカでは歌って暮らせないと60年代半ばにアメリカを捨て、現在ではロンドン郊外に住んでいます。彼女にはスー族と黒人の血が流れています。Mills Brothersの4男Donaldの息子、Johnは黒人であるが故の差別に悲しみ苦しみ何度もメールしてきました。一度は「もう、止めるよ」と言って活動停止の宣言をしましたが、諭されてMills Brothersを細々と続けています。そのメールが来たとき「John、ミルスは90年以上続いたのだ。もう、充分だよ」でした。


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