ジャズと歴史にまつわる話

不慮の死

ジャズ・ミュージシャンとドラッグの話は、どの本を見ても出てきます。1920年代の禁酒法の時代にアルコールの話です。いやになりますね。

酒を飲んだり、麻薬をやったりして音楽をやると最高の演奏ができるなどというのは「幻想」であります。いずれも人間の神経系統の機能をおかしくするのですから、おかしな演奏しか出来るわけはありません。それが永い間続けられたのです。愚かなことです。

それだけでなく彼らの命を縮めているのです。

ところで、アメリカは世界に先駆けて「車社会」を作りあげました。自動車に事故はついて回ります。自動車事故も有名なミュージシャンの命を奪い去ったのです。


Clifford Brown(1930-1956)

最も有名なのはクリフォード・ブラウンの事故のことです。彼は自動車事故で2度も死んだといってよいでしょう。

1950年、3台の自動車事故に巻き込まれますが、ほとんど虫の息状態だったそうです。1年ほど病院生活を送りますが、その間、ディジー・ガレスピーが何とか演奏活動に連れ戻すことができるようにと、何から何まで世話をし面倒をみ続けました。それで翌年に復帰できたのです。

トランペッターの唇は命より大事なのです。よくぞ、復帰できたものです。20歳という若さがあったからでしょうか。

ところが、1956年6月26日早朝、Richie Powell(Bud Powellの弟、piano)とその妻Nancyの3人が乗った車はペンシルバニア・ターパイクを西に向かって走っていたのですが、ナンシーが運転を誤り道路から飛び出してしまい、3人とも帰らぬ人となりました。クリフォードは25歳、リッチーは24歳、ナンシーは19歳でした。当時、Max Roachと双頭のクインテットと呼ばれたクリフォード・ブラウン=マックス・ローチ・クインテットは短命で終わりました。


Richie Powell(1931-1956)                                  

クリフォードの死を悼んで作曲されたのがBenny Golsonの”I Remember Clifford”ですよ。

クリフォードにはLaRue Brown という奥さんがいました。彼女は”CLIFFORD BROWN JAZZ FOUNDATION”というノンプロフィットの財団を設立し、ジャズのプロモートと若いミュージシャンの育成のために力を尽くしております。

クリフォードのCDが欲しい方は、そこらのレコード屋で買わずに、CBJFのサイトを経由して注文してください。利益金は上記の目的のために使われます。クリフォード・ブラウンが好きならなおさらです。


Scott LaFaro(1936-1961)

ビル・エバンス・トリオは1959年に結成されます。それ以前、エバンスはマイルス・デイビスのバンドにいました。マイルスはエバンスから新鮮なインプロビゼーションのヒントを得ていました。しかし、8ヶ月で辞めて自分のトリオを結成しました。

そのエバンスのトリオのベーシストはScott LaFaroという若者だったのですが、エバンスが次に考えている事を、ラファロは全て読んでいたというのです。「驚くべき奴だ」とエバンスはラファロを生涯最高のパートナーと可愛がっていました。

ところが、1961年6月6日にニューヨーク州のGenevaに程近いFlintというところで自動車の運転を誤って木に激突し、25歳という若さで死んでしまいました。

その2日前には、ニューポート・ジャズ・フェスティバルでスタン・ゲッツの伴奏をしたばかりだったのです。

エバンスは悲しんで翌年まで、数ヶ月は演奏もせず、レコーディングもせず、家に引きこもっていたということです。そのベース奏法は革新的なものと言われ、後の世代のベーシストに影響を与えました。


Four Freshmen and Stan Kenton Band, 1959

フォー・フレッシュメンは1950年にスタン・ケントンに見出されるのですが、この写真はケン・アルバースが加わったNo.3のグループです。

右からボブ・フラニガン、ドン・バーバー、ケン・アルバース、ロス・バーバー、指揮はケントンですが、ドンはソロ歌手でも通用する声を持っていました。ギターを持っているのが兄のドンです。

このコンサートの録音盤は”Road Show”1960というアルバムになっています。

この2年後、ドンはハリウッド・ハイウェイを走っていて事故を起こします。その話がロスに伝えられる話が、ロス・バーバー自身によって書かれた”The Story of Four Freshmen”に詳しく載っています。

この時、爵士樂堂はすでにフォー・フレッシュメンの信奉者になっていましたから、このバッドニュースはいち早く知っておりました。悲しかったです。よく、ドンのソロを真似して朗々と唄うのが得意でしたから。

1961年にはドンはソロ歌手に転向することになり、1960年にビル・コムストックに交代してNo.4となっていました。No.4は1973年まで続きましたが、この20年間がFFの黄金期だったのです。


Lambert, Hendricks & Ross

ランバート・ヘンドリックス&ロスは1957年に結成され、59年に衝撃的にその名を轟かせたヴォーカリーズのコーラスグループですが、そのリーダーのDave Lambert(左)も自動車事故で死んでしまうのです。

1966年の10月、コネチカット・ターンパイクで車が動かなくなって困っている運転手を助けようとして車から降りたところを、後ろから来た車にはねられて即死してしまいました。

したがって、このグループは再結成されることなく途絶えてしまいました。後継ぎはマンハッタン・トランスファーです。


Tommy Dorsey(1905-1956)

さて、トミー・ドーシーは自動車事故ではありませんが、不慮の事故で死んでいます。

1956年11月26日に自宅で就寝中に食べ物が喉に詰まって窒息死してしまいました。51歳でした。

寝ていて窒息死ということは、寝ている間に食べたものを戻して喉につまらせたと言うことなのでしょう。

昔、私の親友の親父がエビフライを食べていて喉につまらせて亡くなりました。お年寄りには固まりを食べさせるのは危険です。


Juddy Garland
(1922-1969)

あのジュディ・ガーランドも変死をしています。

よくある話ですが、彼女も麻薬中毒だったのです。1969年6月22日のことですが、彼女の最後の夫であるMickey Deansが自宅のバスタブの中で死んでいるジュディを発見しました。

血液中にセコバルビタールが発見されました。この薬物は鎮静剤、催眠薬、全身麻酔薬として使われます。どうやら、それが死因になっているようです。こんなものを打って風呂に入ったら死にますよ。当時、ジュディ夫婦はロンドンのチェルシーのマンションに住んでいました。

私も点滴にセコバルビタールを入れられ、心肺停止になりました。殺人未遂事件でした。でも、生き返りました。


Dinah Washington
(1924-1963)

ダイナ・ワシントンは1963年12月14日、酒を飲んだ上にダイエットの薬を飲み過ぎて39歳で死んでしまったのです。飛び切りのおばかさんです。

アルバム”What A Diff'rence A Day Makes!がグラミー賞をとったのは1959年のことです。これは生涯の大ヒットとなりました。

彼女は7回の結婚歴があります。その中には、年下で若かったアレンジャー、Quincy Jonesも含まれています。

彼女の歌には多くのファンがいましたが、私生活は我侭のし放題で欲も深かったと言います。


Chet Baker(1929-1988)

これまた、自動車事故ではありませんが、クール・トランペッターのチェット・ベーカーも不慮の死を遂げたことで有名です。1988年5月13日、オランダのアムステルダムのホテルの窓から飛び降り自殺て死亡したのですが、誰かに突き落とされたのではないかという話を信じている人が多いのです。

というのは、チェットは薬物を買うための金欲しさの仕事やレコーディングが多くめちゃくちゃだったと言われています。1968年には、サンフランシスコの街頭で襲われて前歯を何本もへし折られたことがあります。襲ったのは麻薬の売人と言われています。チェットの生活はこんな調子ですから、また、殺し屋にやられたと思う人がいても不思議ではありません。

日本人トランペッターで、チェットを師匠とあがめるHiro川島は、チェットからトランペットをもらった逸話があります。

チェットがトランペットを送るという約束を川島としたのでですが、回りの者は誰もが「お前はだまされる」と言っていたということです。川島とチェットは互いに信頼し合っていたのです。やがてトランペットは日本に送られてきたのです。このトランペットを川島に吹いて聴かせてもらったことが何度もあります。

チェットが死ぬ前に”Love Notes”というユニットを作りたいと言っていたのですが、その遺志を川島が継いで”Love Notes”を翌年立ち上げて現在に至っています。

われわれはHiro川島のことを「チョッとベーカー」と呼んでいます。ラッパも歌もチェットそのものです。(1998/10)


Joe Williams(1918-1999)

ベイシー楽団のスターだったジョー・ウィリアムスがラスベガスの病院に入院中、1999年3月29日(日本では30日)のこと、病院を一人で抜け出して歩いて3マイル程の自宅まで帰ろうとしました。自宅目前の道路上で倒れ死んでいるのが発見されました。80歳と3ヶ月の生涯でした。

その訃報が日本に伝わったのは31日でした。ジョーは沢田靖司にいろいろなことを教えました。沢田は私の親友であり師匠です。

余程、我が家に帰りたかったものと思われます。誰しも病院で死にたくないものなのです。我が家に帰りたいのです。私の父親も、若くして逝ってしまった家内も死ぬ前に「さあ、うちへ帰ろう」と言ったものでした。(1999/4)


Tom Baker(1952-2001)

Tom Bakerといっても知っている方は少なかろうと思います。カリフォルニア生まれのアメリカ人ですが、両親に連れられてオーストラリアに移住しました。トロンボーン、サクス、ボーカルと万能選手です。神戸ジャズストリートに来たことがあります。

日本でも有名になったジャネット・サイデルという弾き語り歌手のパートナーだったのですが、2001年10月23日、オランダのBredaでツアー中に自動車事故で死亡しました。

ジャネットはその前から何度も来日していて、メールも交換するくらい親しくなっていました。事故の直後にも来日していましたが、ジャネットにトム・ベーカーの話は出来ませんでした。素晴らしいデュエットがありますが、そんな話も出来なかったのです。

オランダはBakerという姓の人は行ってはいけません。鬼門です。

Dolly Bakerがオランダに行くと言ったら「駄目だ!」って止めようと思っていました。(2001/10)


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