梅原 敦君の思い出


梅原と何十年ぶりの再会を果たしたのは、若山が親しいジャズの師匠沢田靖司の
ジャズボーカル教室のコンサートの日だった。10数年前のことである。会場に一歩入ると大きなお祝いの生花が飾ってあり、札には「梅原 敦」の名前があった。

沢田師匠の奥様に「あの梅原っていうのはどういう関係?」と尋ねた。

この日の出演者の1人の弟子の応援者という関係だという。

普通部の2年か3年の頃から、顔を合わせる機会がなくなって久しい。それが奇遇としか言いようがない出会いだった。その後、梅原はこの出演者だった斉藤敬子という女性と結婚した。梅原は敬子ちゃんにはめっぽう優しかった。

大森の蓬莱坂の上に新築をして転居し、夫婦水入らずの生活が続いたが、2011年暮にがん告知、2012年3月25日に東芝病院ホスピスで帰らぬ人となった。

密葬で送り出し、人を集めての葬儀がなかったので、28Kの皆さんには訃報を出していなかった。5月頃、私は蓬莱坂の自宅で行われた「お別れ会」に行ってお線香を上げてきた。

幼稚舎の名簿では日本放送に勤めていたことは知っていたが、その後、企業のデータをデジタルファイルにして保管するというITを応用した新しい会社「日本データファイリング」を起こした。晩年は、「俺、引退した」と言って地中海クルーズに出かけたりして悠々自適の日々を送っていた。

沢田靖司のステージを見に行ったり、家族ぐるみで会食も度々だった。食道楽の男だった。

亡くなる前はすっかり痩せてしまって、私にその様子を見られたくなかったようで、病気のことは内緒にしていた。

 


料理が得意なシェフ梅原


四ツ谷の広島お好み焼き「凡」


一番奥にいるのは若山の教え子で北陸の人間

2013年5月12日に島田辰雄君の告別式があった。

その訃報をみんなに回し、28Kで葬儀に参列した級友のことなどを島田のページに記録しておいた。

1年前の梅原の他界については一部の人しか知らない。そこで、梅原のページを書いて残しておくことにした。(2013/5/14わかやま)