SUEのエッセー

ハノイ音楽談義 そのF

チャイコフスキーの「悲愴」を聴く


先週、ハノイのオペラハウスでの、ベトナムシンフォニーの演奏会を聴きました。
曲目は、「タンホイザー」の序曲
メンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲」、そして
チャイコフスキーの「悲愴」でした。

「タンホイザー」は、僕の大好きな曲の一つなので期待して聴き始めました。
指揮者は、いつもの本名徹二ではなく、グエン・カク・ウイェンと言うベトナム人の指揮者で、ノルウェイの国立音楽アカデミーでヴァイオリン学び、室内楽で活動した後、指揮者に転向したとの事です。
さて、曲が始まりましたが、いつものように、ベトナム交響楽団からは、あのワーグナーのドイツ音楽の重厚さがなかなか聞こえてきませんし、何よりもテンポの設定が(僕にしてみれば)速すぎて、残念ながら少々期待はずれでした。

二曲目は、メンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲」でした。
この曲は以前、「8.ハノイ音楽談義」で、Tran Le Quang Tienという13歳(まだ中学生)のヴェトナム人の男の子の演奏をご紹介したばかりですが、今回のソロは、ノルウェー・オペラ・アンド・バレー・オーケストラでコンサートミストレスを務めている、Catharina Chen(名前から見ると、中国系の演奏家と思います)と言う、30歳の女性のヴァイオリンニストでした。
そのソロは流れるように美しく、テンポもしなやかで変幻自在、音色も時には激しく、時には泣きたいほどに美しく、といった具合で、僕はすっかり聞き惚れて(+見惚れて)しまいました。


Catharina Chen

ただ、最終楽章では、オケのテンポが、アグレッシヴな彼女のテンポと合わず、少々ガタガタした印象となったのが心残りでした。これは、オケと指揮の方に、もう一寸ソロと合わせようとする努力が欲しかったなあ、と言う気がしました。
アンコールは、(作曲者が誰かは知りませんが)現代曲の無伴奏ヴァイオリンソナタからの一節で、これも心に沁みいる演奏でした。

三曲目はチャイコフスキーの「悲愴」でした。
その名前の由来となった、冒頭の「おどろおどろしい」演奏が始まりましたが、僕の愛聴LPの、「ムラヴィンスキー/レニングラード」のようなロシアの響きは残念ながらやはり聴こえて来ません。毎度いいますが、これは楽器と、ここベトナムの気候のせいかも知れません。

ところで、「悲愴」と言うのは、「Pathetique」=「悲しく痛ましいこと。また、そのさま」と言う言葉ですが、これはチャイコフスキーの発案ではなく、彼の弟のモデストが初演の翌日に「悲劇的」という表題を提案したけれどもチャイコフスキーはこれが気に入らず、楽譜の出版をしていたピョートル・ユルゲンソンが、後にチャイコフスキーに送った手紙で、「《第6交響曲》よりも《交響曲第6番 悲愴》とするべきだと思います」と書いて、この副題を作曲者自身が命名していたと言う事のようです。

ところで、ベートーヴェンのピアノソナタ第8番ハ短調作品13も、『大ソナタ悲愴』(Klaviersonate Nr. 8 c-Moll "Grande Sonate pathetique" )と言う副題です。 これは珍しくベートーヴェン自身によって命名されたとの事です。

ちなみに、国語辞書を引くと、
「悲愴」=悲しく痛ましいこと。また、そのさま。
「悲壮」=悲しい中にも雄々しくりっぱなところがあること。また、そのさま。
とあり、この二つの言葉の間には、微妙なニュアンスの違いが有るようですが、インターネットなどでは、時に混同されているのを見つけることが有ります。

(さて余談ですが、オペラハウスでは今まで「下手側」の席から聞くことが多かったのですが、今回の席は「上手側」の席でした。で、僕の席からヴァイオリンの演奏者が良く見え、第二ヴァイオリンのトップに、素敵な女性が居るのを見つけました。これからは、何時も「上手」の席を予約するように致しましょう。)

(2015/09/20)


カッパさん、
末続です。

日本は連休ですね。
連休が明けて来月になると、こっちも忙しくなりそうです。

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末続@ハノイ