昭和22年 ブルーコーツ結成 |
牧 田 清 志 |
牧田 | 戦争が終わって日本人みんながなにをしていいのかサッパリわからないところに小島君が復員してきたわけだ。 |
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小原 | みんな職場に戻ったんだけど例の封鎖でお金がない、そこでアルバイトにバンドを始めたわけだよ。 |
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吉川 | 主に横浜で演奏していたね。 |
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笈田 | その頃、僕がオーディションを受けに行ったんだけど、小島正雄っていう人が出て来てテストしたわけだ。確か「ヒート・ウェーブ」と「ブルー・ムーン」を歌ったんだけど、彼が言うには「器用にやっているけど音がダメだ」っていうんだ。まあ、その場はそれで帰ったんだけど後で聞いたら、探していたのは女性歌手だっていうんだね。それならそうだって言えばいいのにと思ってね、ヨシ、いつかブルー・コーツを伴奏に使ってやろうと決心したね。 |
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牧田 | その頃、彼は何番吹いていたんだ? | |
笈田 | 2番だったね。 | |
吉川 | いや、座っていたのは2番だけど吹いていたのは3番よ。 | |
小原 | その頃から先生だったから、一番よい場所に座ってニラミをきかせてたわけだ。 | |
笈田 | 時々コルネットも吹いてたね。 | |
牧田 | そう、彼は一応何でもさわってたよ。ピアノ、ギター、ベース・・・・・ | |
吉川 | ヴァイオリンもやるし・・・・・ | |
小原 | 彼は不思議な人間でね、何やっても一応は鳴るんだよ。 | |
吉川 | そうそう、ラッパだってパッと口にあてると音が出るんだ。だけど、普通はやっているうちに段々うまくなるんだけれど彼はまったく変わらなかったね。 |
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牧田 | いつでも音は出るけど、いつも同じわけだ。 | |
笈田 | でチャーちゃんが本格的に司会者として登場したのが「ミュージック・レストラン」だ。 |
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吉川 | 最初のうちは有島一郎さんが司会をしてたんだよ。 | |
牧田 | 笈田敏夫、ナンシー梅木という大スターが生まれたのもあの番組だったね。 | |
笈田 | あの番組でチャーちゃんは自分のスタイルというものを作りあげたと言えるでしょうね。 |
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小原 | いわゆるMCという型ね。 | |
吉川 | マスター・オブ・セレモニー、つまり俺はマスターなんだっていう感じ・・・・・ |
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笈田 | それまで僕たち歌い手は司会者から相当ほめそやされてステージに上がってたんだけど、どういうわけかあの番組では呼びすてにされたね。 |
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牧田 | そうだ、笈田敏夫が歌います、ナンシー梅木が歌いますって具合にね。 |
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小原 | あれはどうしてだろう? | |
牧田 | あれは彼のふるいとこで、やっぱり小島商店なんだよ、手前どもは本日お売りいたしますものは・・・・・っていう感覚なんだよ。だからコチラは身内、アチラはお客ということなんだよ。 |
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吉川 | つまり、彼は江戸前の職人が、どういうわけか仏文を出てタキシードを着ちゃったという感じなんだ、外観はダンディーで流行児的だけど、内部はまったくの江戸前の火消しトビなんだよ。 |
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牧田 | まず名前を名乗るのもそうだね「手前は当小島商店の主人、小島正雄でございます」ということなんだ。 |
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笈田 | なるほどね。それとあの番組で一生懸命ジョーク言ってたね。 | |
小原 | そうそう。だけど余りお客に通じなかったみたいだったね。 | |
笈田 | そうなんだ。何回やっても笑わなかったね。そうなるとムキになってね。 | |
吉川 | それから飛び上がる指揮というのも彼が始めたんだ。 | |
牧田 | そうそう、あれはレス・ブラウンのマネを早速やってみたんだ。 | |
小原 | まあいろいろな意味で彼の基礎が出来た時代だったね。 | |
笈田 | だけど小島さんみたいな人というのはもう出ないんじゃない? | |
牧田 | 出ないだろうね、とにかく政治から世間話まで雑学の大家だったし、それも、ちゃんとしたウラづけをもった雑学だったからね。 |
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吉川 | 一つ一つに金をかけてたよ。 |
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笈田 | オシャレにしても、別にどうってことないんだけどキチッとしてたなあ。 | |
小原 | ノーネクタイでもキチンとノーネクタイだったね。 | |
牧田 | 江戸前を愛し、江戸前の叱事をたれ、人情にもろく、まあすべて和風だな。 | |
笈田 | イビられてコンチクショウと思うけど、何か憎めないんだな。 | |
牧田 | 一生懸命だからよ。とにかく一生懸命になる男だった。 | |