木彫3題

60年代の中頃、変なものを作った。一寸間違えたら鳥の脚は折れてしまう。一寸間違えたらペンギンの羽は飛んでしまう。彫刻の手順というものを間違えたら完成はしないで破損して一巻の終わりとなる。

一瞬の気も抜けません。刃物を持つ手が震えても壊れてしまいます。一種の修行です。

朴の木の角材から切り出したものである。ほぼ実物大と思ってください。

目は焼け火箸で開けました。

もう一体、くちばしの長い鳥を彫刻した。家には無いという事は誰かが持って行ったのだろう。

50年以上経って、公開することになりました。昨日、建築設計士の高弘君夫婦と話をしたときに、絵の話から彫刻の話になった。それで、これまでキャビネットの中で眠っていた2羽の鳥が目を覚ましたという訳です。(2018/11/19)


「素晴らしい、もっと見せろ」とリクエストエールが来ました。

「もう1羽の鳥を彫ったが誰かが持って行った」というのは本当の話です。誰だったかを懸命に思い出しました。顔も憶えていない人ですが、50何年か前のことと思い出しました。そこで「他に木彫は?」と考えたところ、大作が1つだけありました。

私の趣味の一つは書です。師匠は田上帯雨という書道家でした。日本書道美術院審査員、全日本書芸文化院代表を歴任する大変な書道家だったのです。幼稚舎の4年ころから週に一度の稽古でした。我が家の両親も、父の会社の住み込み社員の若者たちも習わされました。そういう大人たちの中に交じって10歳そこそこの坊ちゃんが本格的に筆を持ちましたが、それ以前から幼稚舎の担任の松原先生は書家でもあったのです。習字の時間は楽しい時間でした。田上先生に弟子入りしてからの進歩は著しいものがありました。それは、書道の本質は字の形ではなく、筆の穂先の動きであることを知ってしまったからです。

わたし以外の大人たちは先生のお手本を左に置いて、その字の形を真似しように書いているのです。つまり、字を書くのではなく紙に墨を塗っているのです。

私は先生の筆の穂先が半紙に食い入るようにして字を書いていく動きを見ていたのです。手本見るのは静的なものの見方であるの対して、筆の先の動きを見ることは動的なものの見方であります。どうやらこんなチビちゃんが書の本質を見て覚えてしまったのです。ですから、私の書く字は動いているのです。帯雨先生は、私が普通部2年の時に「雅号」を授けたのです。かっぱの書いた作品には「邦雨」と書くことになってしまったのです。1950年代の前半の話です。


愛用の筆

唐 筆

左の筆は鼠髭の筆です。筆の逸品です。右は日本ビイキだった郭沫若の筆です。

私が田上先生について書をやっている頃、先生はネズミの髭の小筆を見せてくれました。書かせてくれました。実にすばらしい弾力をもった筆でした。その筆は神田専修大学前の書道道具を扱う「玉川堂(ぎょくせんどう)」で買い求めた筆らしいのです。一般のお店にはそんな筆はありません。何年も後になって判明したのは、楽友会の10期の斉藤 彰のお父様のお店だったのです。

80年代の初め、中国は5人組が失脚しケ小平の時代になり自由化への道を歩き始めました。一時、慶應理工学部で教鞭を取っていた刀根 薫先生が北京土産に大きな端渓の硯をお土産に持ってきてくれました。美しい硯です。


端渓硯

もらった時は、木製のケースに入っていましたが、縦に真2つに割れてしまいました。

それで、相談に行ったのは「玉川堂」でした。斉藤彰の話では、「うん万円かかるよ」でした。バカバカしい。この硯よりケースの方が高いものになってしまいそうです。そこで、東急ハンズに行って、黒檀のように堅木の材料を探して買って来ました。3cm厚くらいの平厚板です。恐ろしく重くて硬い木でした。彫刻刀や鑿(のみ)では歯が立ちません。電動の鑿を買って来ました。

それで彫ったケースをお目にかけましょう。


硯は0.1ミリの隙間もなくピッタリと


一枚の木材を彫り抜いたものとわかるでしょう


蓋も同様です

作ってから30年も経ちますがピカピカです。塗料は何も塗っていません。木地のままです。これが割れたら2度と作れません。

(2018/11/24)