ジャズと歴史にまつわる話 |
ビ・バップ胎動の兆し in English |
1940年になると、スイングは頂点に達していました。社会情勢は徐々にビッグ・バンドを雇うには経済的に苦しくなって来たのです。そこで、小編成のバンドがもてはやされるようになり、ディキシーランド・ジャズがリバイバルしてきます。
また、チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピー、チャーリー・クリスチャンらが期せずしてオフビート(2,4拍目を強拍に)を始めるようになりました。これがビ・バップの兆しであります。しばらくすると単にバップ(Bop)と呼ばれます。 一つのことが熟成すると、新しい動きが出てくるものなのですね。 |
||||
|
Dizzy Gillespie (1917-1993) |
Charlie Christian (1916-1942) |
バップのミュージシャンは、それまでのミュージシャンと違ってビジネスマンのような服装をするようになりました。ジャズといえば”Hot”に決まっていたのですが、”Cool”がナウい言葉になりました。パフォーマンスのあとには”Cool”にお辞儀などするのです。やくざ風態度はやめ、むしろよそよそしい態度が格好よしとされたのです。 いやー、じつにクールですなぁ。 Bopのレコードがはじめてレコーディングされたのは1944年です。Coleman Hawkins(t. sax), Dizzy Gillespie(tp), Max Roach(dr) , Leo Parker(a. sax)他によるものです。 チャーリー・クリスチャンは、1939年ベニー・グッドマン楽団に雇われました。グッドマン6重奏団が出来ました。それまでギターはリズムを刻むだけだったのですが、チャーリー・クリスチャンが初めてソロ・アドリブをやるようになったのです。昼間はグッドマン楽団で仕事をして、夜はジャムセッションで遊んで、マリファナにまみれ、25歳の若さで死にました。1940年に結核を患っていたのです。ビバップの先駆けの1人でした。 ディジー・ガレスピーは1940年頃、チャーリー・クリスチャンやセロニアス・モンクらと共に、リズムを重視し、より自由なアドリブを追求した新しいスタイルのジャズを探求するようになり、これこそがモダン・ジャズの礎となるビバップの萌芽だったのです。 更に1940年前半、ガレスピーはチャーリー・パーカーと共にEarl Hines楽団のメンバーでした。 チャーリー・パーカーは1955年、34歳でパーカーのパトロンの部屋である五番街のStanhope Hotnaでテレビを見ながら死んで行きます。その 1週前には最後の演奏をゆかりのBirdlandでしています。テレビの番組はトミー・ドーシー楽団でした。最後の言葉です。 ”Dorsey sounded great.” 肺炎と出血潰瘍が直接の死因とされていますが、麻薬とアルコールが命を縮めたと言われています。検死官はあまりにやつれたパーカーを見て50歳から60歳と思ったそうです。 |
Billy Eksteine(1914-1993) |
初のBopの歌手といえば、BopをやりたくてEarl Hines楽団から1944年に独立し、自分の楽団を編成したBilly Eckstineです。すぐに、サラ・ボーンはビリーの楽団の専属歌手となります。サラは10代のころ、教会でピアノを弾いていました。それを見つけたのがビリー・エクスタインです。サラはバップの歌手として成長しました。また、後のジャズメッセンジャースのArt Brakeyもビリーのバンドにいました。 ビリーのバンドがセントルイスに行った時、マイルス・デイビスに会いました。マイルスはビリーのバンドに入りたくてガレスピーに働きかけました。このときビリーは「マイルスは"terrible"な奴だ」と思ったそうです。 スイングの時代からバップ時代への移行は、ピカソが20世紀はじめにフランスで"Cubism"を起こしたやり方によく似ていると言われます。(1998/10) |
この写真はビリーと娘のジーナです。最近、John Mills IIが紹介してくれてメールが来るようになりました。(2013/10) |