歌をつくる人にまつわる話
Story of Songwriters

(72) 冨田  勲 84歳で死去


Isao Tomita(1932-2016)

 

シンセサイザー音楽の冨田 勲が2016年5月5日に慢性心不全のため死去された。84歳だった。

昭和23年に新設された新制慶應義塾高校2期生(1年生)に編入学し文学部に進学した。高校時代の同期生には小林亜星、小森昭宏、林 光、峰岸壮一といった音楽家がいる。

亜星さんが「同じ学年にはなぁ、冨田 勲もいた」とよく話してくれた。
 

私が慶應高校1、2年の時(昭和31,2年)、冨田さんの一番下の弟さんと同じクラスだった。彼は学校に兄さんのオートバイ(昔の陸王1200cc)を借りて乗ってきたものだ。「後ろに乗せてやる」といって綱島の方までドドドドッと走った。陸王は当時の警視庁白バイに使われていた大型自動2輪車だった。後に白バイはホンダになる。

同級生の冨田は「本間千代子ってかわいい。本間千代子って・・」て毎日大変でした。何故だかわかります?

3年でクラス替えになって、彼とは音信がないままとなってしまった。

そう、冨田さんは笹舟会のメンバーでした。もう数年前に笹周は廃業という話。こんなこと書いても何人かの人しか通じません。日本酒の銘酒を出してくれるのですが、笹舟会のメンバーには加賀の「菊姫」が出ます。普通のお客様にはこのお酒を飲ませません。

菊姫酒造のの農口杜氏は、「菊姫」の醸造を止めた時がありました。原料の山田錦が手に入らなくなったからです。山田錦は兵庫県のお米です。当時、兵庫県副知事の小笠原暁先生が「日本の文化が滅びてはいけない」と山田錦を菊姫酒造に回すように指導されました。それでまた「菊姫」がよみがえりました。「菊姫」の命の恩人です。そんな小笠原先生が東京に来る時に「笹周」に立ち寄ると恩人ですから「菊姫」が振る舞われます。料理も特別です。わたしは暁先生の腰ぎんちゃくで付いて行くのです。

いつごろの話でしょう。80年代中頃でしょうか。当時の笹周のオヤジさんがお酒の講釈をしてくれます。東の横綱が加賀の「菊姫」だと。西の横綱は熊本の「菊の城」と言って両横綱を飲ませてくれるのです。西の横綱もなかなかのものでした。さらりとした酒です。

もっとすごい話がありますが、ここでは書くのを憚ります。私に会いに来たら話してあげます。

冨田さんはそんなお酒が日常のお酒だったのです。(2016/5/8)


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