ハノイへ観光にいらっしゃった方々には、お時間がありましたら、ホアンキエム湖北側に広がるハノイ「旧市街」を散策されることをお勧めしています。
<ハノイの旧市街地図>
旧市街は、1010年にハノイに都が置かれてからタンロン城と紅河の間に発達した街で、朝廷に献上する品物を作るための職人達が集められたのが始まりです。同じ職業をもつ人々によって「坊」が作られ、それぞれの通りにそこで扱う商品の名が付けられました。時代と共に坊の数は変わり、後黎朝(1428〜1789)時代に36の坊と通りがあったことから「ハノイ36通り(Ba
sau pho phuong)」と呼ばれるようになりました。
Quan chuong(クアン・チョン)ゲートが、その旧市街の昔の入り口です。
<クアンチョン ゲート>
一方、15世紀頃から旧市街には華僑が住み始め、19世紀には同郷の人々の会館(中国人の集会所兼神社)を建て商売を発展させていきました。
現在立ち並ぶ商店のほとんどは、仏領時代19世紀後半以降に建てられたものですが、15世紀の頃からの通りや、坊ごとに建てられた亭(ベトナム人の集会所兼神社)、華僑が建てた会館、神社などの古い歴史を持つ建物も残されています。
今の旧市街36通り地区内には、現在合計42本の「ハン」(Hang)で始まる通りがあります。
「ハン」(Hang)は「商品、品物」という意味で、それに具体的な商品カテゴリーを指す語を続けて、何を売っている通りなのか、一目で分かるようになっています。
ハンタン(Hang
Than)通り
「タン」(Than)は【炭】の訛り音で、かつてこの通りで木炭(Than Hoa)や石炭(Than
Da)が売られていたことに由来しています。炭(タン)は日本語と同じです。現在ではバインコム(banh com)=外側は青いお米のもちもちで、中は緑豆のあんが入っているお菓子、の店が軒を並べています。
チャンニャットズアット(Tran Nhat
Duat)通りからハンタン(Hang Than)通り入口付近の円柱形の生活用水供給塔に伸びるのがハングダウ(Hang
Dau)通り。今は衣料品や雑貨店が並んでいますが、豆を意味するダウ(Dau)の呼び名はかつてこの通りで豆類が売られていたことに由来しています。
<ハングダウ>
ハンコット(Hang
Cot)通りはハンマー坊(phuong Hang Ma)に属する通りで、北はヴァンスアン(Van
Xuan)公園から南北に約400メートルにわたって走っています。コット(Cot)とは主に竹を原材料とした簾(す)やすだれを指し、20世紀初頭にここに住む住人がそれらの製造販売を生業としていたことに由来しています。
ハンダウ(Hang Dau)通りからハンコアイ(Hang
Khoai)通りにかけて約200メートルにわたるのがハンザイ(Hang
Giay)通り。ザイ(Giay)は紙類の総称で、かつてこの通りで各種の用紙が販売されていました。フランス植民地時代には遊女屋が軒を並べる遊廓街が形成され、働く女性たちは「ハンザイの芸妓」と呼ばれていました。当時はフランス語で「紙の通り」を意味する”Rue
du Papier”と呼ばれましたが、1945年の革命後に現在の呼び名となりました。
「砂糖」を意味するドゥオン(Duong)の名を持つハンドゥオン(Hang
Duong)通りでは、昔から文字通り砂糖をはじめ、各種甘味を取り扱う店が軒を連ねています。特にベトナム版干し梅(o
mai)やフルーツの砂糖漬け(mut keo)を扱う有名店は今も健在で、遠方よりわざわざ買いに来る人もいるほどです。ベトナム版干し梅はとても甘く、種類も豊富で美味ですので、日本への御土産にも最適です。テトや中秋の時期には多くの人が甘味を買い求めて賑わいます。
<ハンドゥオン>
「帆」の意味を持つブオム(Buom)という名のハンブオム(Hang
Buom)通りは、かつてホン川がニハー川(song Nhj Ha)と呼ばれていた頃、その河岸に位置していました。その立地から住民は帆をはじめイ草製の袋やござ、すだれの生産など、船舶や河川流通に関連する手工業を生業としました。現在ではビアホイ(
=ベトナム版ビアガーデン)が軒を並べ、テトや中秋の時期には一層の賑わいを見せています。
ハンドゥオン(Hang Durong)通りとハンダオ(Hang Dao)通りを南北に結ぶハンガン(Hang
Ngang)通り。他のハンストリートが分かりやすい意味を持っているのに対し、ガン(Ngang)という語には品物を表すような明確な意味はなく、その名の由来は現在も謎に包まれたままです。
全長約300メートルのハンムオイ(Hang
Muoi)通りは、かつてホン川沿いのロケーションにありました。家々は川を臨む形で建てられ、多くの住民が材木業に従事していました。「塩」を意味するムオイ(Muoi)の呼び名がついていますが、この通りで塩の生産や販売が行われていた記録は残っていません(塩は各市場内で売られていましたので)。
ハンマム(Hang
Mam )通りはかつて、卵(trung)が盛んに売られていたハンチュン(Hang
Trung)通りとハンマム通りとの2本の通りに分かれていましたが、マムにまとめられました。マム(Mam )が意味するとおり、ヌックマムやマムトムなどの海産物の発酵調味料が生産販売され、それらは周辺の各省にも運ばれるほど有名だったようです。
「籠(かご)」を意味するボー(Bo)の名を持つハンボー(Hang
Bo)通りでは、かつてより米もみを入れるための竹製の籠を編む伝統的な手工業が栄えました。現在では様々なカテゴリーの商店が軒を連ね、特にテトの時期には大いに賑わいを見せます。
「銀」を意味するバック(Bac)の名で呼ばれるハンバック(Hang
Bac)通りでの金属加工の伝統的手工業は、15世紀のレータイントン(Le Thanh Tong)帝の時代、チャウケー(Chau
Khe)村の人々が貨幣の鋳造を担ったことに端を発しています。19世紀、阮(Nguyen)朝成立に伴いフエに遷都した際も、彼らの技術が持ち込まれました。現在でも彼らは金属加工の同業者コミュニティーを形成し、通りはさながらひとつの「村」のような連帯意識を持っているとされます。
<ハンバック>
旧市街一のメインストリートであるハンダオ(Hang
Dao)通りでは、陳(Tran)朝の時代より絹製品の染物を生業とするダンロアン(Dan Loan)村の人々が多く居住していました。彼らの製品の多くは赤やピンクで染め抜かれていたことから、「桃色」を意味するダオ(Dao)が通りの名になったとされています。2006年には人民委員会の許可によりハンダオ-ドンスアン夜市(Cho
dem Hang Dao - Dong Xuan)が開かれるようになり、金土日の夜には歩行者天国となって伝統的手工芸品やハノイ土産がならび、観光客で賑わいを見せています。
かつてホン川河岸が現在より近かったころ、「筏(いかだ)」を意味するベー(Be)と呼ばれるハンベー(Hang
Be)通りには堤防が築かれていました。水位が堤防の足元まで達すると、川からは筏(いかだ)が、通り沿いの家々からは人々があつまり、「筏市」(cho
Hang Be)が開かれ様々な品物が売り買いされました。 なお、この通りには、一寸洒落たフレンチ・ベトナミーズのレストランが有り、ハノイへ遊びにいらっしゃった方とは、そこでランチをご一緒するのを常としています。
「麻」を意味するガイ(Gai)の名を持つハンガイ(Hang
Gai)通り。この地ではかつてより麻製の糸やロープ、網などの製造販売を生業とする人々が暮らしていました。のちに印刷出版業の進出を契機に、彼らはバットダン(Bat
Dan)通りに移ったとも、フランス植民地政策を受けて故郷へ帰ったとも言われています。今はこのハンガイ通りには、絹製品を取り扱う素敵なお店が並んでいて、ネクタイやブラウスなどのシルク製品、パジャマなどの御土産を買い求める観光客で賑わっています。
<ハンガイ>
ハンボン(Hang
Bong)通りは全長1キロメートル弱に及ぶ長い通りで、他の多数の通りに接続しています。加えて他の通りより高地にあるため、市街が洪水に見舞われる際にはいち早く水が引くことで有名です。通り名のボン(Bong)は「綿」の意で、かつてこの通りが複数の相違する通りであった時、それぞれで多種多様な綿製品が売られていたことに由来しています。
ハンクアット(Hang
Quat)通りのクアットとは扇子のことですが、現在は様々な仏具を売る通りです。多くの仏具店が軒を連ねる様子は、先祖を祀る祭壇や、商店に必ずといっていいほど置かれている土地神・財神の祭壇がベトナム人にとって大変大切なものだということが感じられます。この通りの一部分は、昔はベトナム伝統楽器を売るハンダン通りと呼ばれました。現在、楽器屋は、近くのハンノン通りなどに数軒見られます。
<ハンクアット>
ハンガン (Hang
Ngang)通りは、かつて多くの華僑が住んでいた通りです。15世紀、ハノイではハンガン通りのみが華僑の居住区とされていました。一旦フンイエン省へ移住させられますが、17世紀頃ハノイに戻り、この通りのほか周辺の通りにも出身地別にまとまって住むようになりました。そしてハンガン通りは主に広東人が住む所となったのです。
裕福な彼らは防犯のためハンガン通りの両端に門を作り、夜間は閉じていました。屋根のある大きく美しい門だったようです。通り名の由来については、Ngangが「遮断する」という意味を持つからという説がありますが、確かではありません。
現在も、週末の夜には露店が並ぶ歩行者天国になるなど、旧市街で最も賑やかな通りのひとつです。 48番地には、ホーチミンが独立宣言を執筆した家が記念館として残されています。
余談ですが、ハノイには、世界中どこにでもある「中華街」が有りません。これはベトナムは「基本的に中国人が大嫌い」だからです。聞くところでは、ホーチミン市には「中華街」が有るそうですが、これはむしろ「中国人を、一か所に閉じ込めておく」為に作られたものだという話を聞きました。
もう一つ余談ですが、ベトナムには「結社の自由」が有りません。従って、「日本人会」もハノイやホーチミンにはなく、「日本人会」の代りに「日越商工会」がその代りを勤めています。「日本人学校」も、普通は現地の「日本人会」が作るものなのですが、ハノイでは、「日本人会」が無いために、「外務省」が設置した日本人学校となっているのです。
ハンチョン(pho
Hang Trong)通り
ハンガイ(Hang Gai)通りからホアンキエム湖南西へ約400メートルの長さのハンチョン(Hang Trong)通り。ハンチョンの「チョン」は太鼓のことで、リェウトゥォン村(現在のフンイエン省ミーヴァン県リェウサー社)からここに移り住んだ人たちが、大小いろいろな種類の太鼓を作っていました。ダオサー村(現在のハータイ省のトゥオンティン県)からここに来た人たちは、役人の行列や宗教の儀式に使われる日傘を作っていました。
また、このあたりでは「ハンチョン版画」と呼ばれる木版画が作られ、バクニン省のドンホー版画と共に有名でした。
<ハンチョン>
Ma
May(=マー・マイ)通りは、もともと2つの通りに分かれていました。籐製品の販売店が集まるHang
May(=ハン・マイ)通りと、お葬式や各祭礼に使用される紙製の冥器の販売店が集まるHang Ma(=ハン・マー)通り。この2つの通りが1945年に1つの道に統合されたのが、現在のマー・マイ通りです。
<マーマイ>
皆様も、以上のガイドと地図をお持ちになって、ぜひぜひハノイへお出でなされませ。
(2017/9/13)
|