しょうちゃんの繰り言


物(もの)の値段

物の値段はどうして決まるのか、ものによってそれぞれに背景があり事情があるのだろう。普通なら、製造の為のコストプラス利益が加えられ一般消費者に値段が表示されると単純に思っていた。だがものによってはそれだけでは収まらないケースもあるようだ。

テレビや電気製品は大型安売り店が出てくるまで近所の電気屋から定価で買っていたが、そのうち定価が無くなり、電気屋そのものも今となっては随分無くなっている。結果消費者は大型安売り店が出てくるまでかなり高い買い物をしていたことが分かった。そして今やテレビは一過性かも知れないがかつて高級品として手の出なかった大型ハイビジョンの機種が信じられない値段で手に入る。

この傾向は他の商品にも浸透して来ていて、郊外大型店に行けばかなりの安値であらゆる物が手に入るようになった。その代償として駅前商店街に古くからあった店が消えている。

酒は取引が自由化された途端に安くなり、関税の問題もあるが手の届かなかった高級洋酒やワインに手が届くようになった。

携帯電話も瞬く間に安くなり、一時は5円・10円で買えるようになった。実際私の使っているのは数年前かみさんが1円で買ってきた代物である。

市外電話や国際電話の料金も格別に安くなり、今や海外の子供や孫たちとパソコンを使ってただ同然で顔を見ながら話が出来る。

私の専門の海運界では原料を運ぶ船の運賃が最盛期の100分の1に下がったケースもある。そのため倒産した会社や実質倒産に面している会社が出てきている。海運界が未曾有の景気に湧いたのはつい数年前だったことを思うと隔世の感がする。

こういった値段の変遷にはその業界の事情が背景にあり、それぞれ今の値段に落ち着いているのだろうが、消費者にとって安いということは何よりも有難い。安売り競争の犠牲になった例があったとしても消費者はわざわざ高い金を払ってそういう人達を守ろうとはしない。消えた近所の洋品店や電気店などはそのいい例だろう。

地方から出てきた私の年代の人ならよく分かると思うが、1960年代の市外電話(東京‐九州)の料金は大げさに言えば感覚的に今の国際電話より高かったと思っている。これは一社独占の典型的な悪例で企業努力がなされてなかったと切り捨ててもいいと思っている。ついでに言うと国際電話も酷かった。円高になっても安くならなかった国際航空運賃もその例だ。機長やスチューワデスには交通手段として当時ハイヤーが用意されていたと憶えている。

あらゆる業種で競争が激しくなり、お陰で消費者も助かっているが依然として競争に晒されない分野もある。再生産出来ない土地はその最たるものだろう。土地の値段は単純に需要と供給の関係で決まるのだろうが、もともとのコストを考えると腑に落ちないことが多すぎる。

先祖代々の土地だと主張する地主がいるが、こういった例は地主の取得コストはゼロと考えられる。戦後の農地解放で手に入れた土地も取得コストは掛からなかったと考えていいだろう。また、バブルの頃手に入れた土地はとてつもなく高かったと思える。当時4億円以上のゴルフ会員権も出た程だ。しかしこういった例はまともな人達は普通手を出さないからこの際無視するとしよう。

問題は先祖代々の取得コストゼロの土地や、ただ同然で手に入れた土地が戦後の急激な経済成長と共にそれ以上の率で値上がりし、高値で留まっていることだ。地主が互いに協力して道路を整備し、同時に交通機関(鉄道)・上下水道・電気・電話・ガス等々といったインフラ(社会資本)を整備したのであれば当然そのコストも土地を売る際に含めてもいいだろう。ところが農地として所有している土地は税金とは無縁の対象で、むしろ都市近郊農家も補助金を受けていた例さえあるようだ。彼らはインフラ整備のコストは一銭も払っていない。税金や鉄道会社、電話・電気会社の出費で整備されたインフラの恩恵を土地所有者は最大限に利用出来、さらにその土地を手放させる手段として売買時の税金を安くすることもかつて国はやってきた。

今はどうか知らないが30年程前、広さは別として土地を所有、若しくは相続できる人達は全体の50%強という発表を憶えている。国民の半分程は自分達の払った税金で付加価値の上がった土地を高値で買い続けていたことになる。

日本の家屋が“ウサギ小屋”と海外から揶揄されたのを憶えている人もいると思うが、喜んで“ウサギ小屋”に住む人は何処にもいない。退職金まで組み入れて買った家屋が結果として“ウサギ小屋”程度のものだったというのが日本の現実だ。土地さえ安く手に入れば欧米並みの家も可能だし、家に飾る絵も買える。家族で外食も出来る。それに旅行の数も増えるだろう。コンサートに行く回数も増える。家に払うコストがあまりにも高い為、普通のサラリーマンは他のことへ手が廻らず、男一生掛けた成果が“ウサギ小屋”という悲しい結末が用意されている。それでも通勤に片道1時間掛かるのは当たり前で、毎朝通勤地獄という試練の場も用意されている。

何か笑えないブラック・ジョークの漫画を見ているようで、この国の住宅政策はあるのだろうかという疑問さえ湧いてくる。また持ち主の二度と買えないのではないかという心理が不動産の流通を妨げているのも事実だ。家族構成に応じて家のサイズを変えるアメリカとは文化の違いがあったとしても、高止まりの土地代がネックとなり、合理的でない住まいを続けている老夫婦は沢山いるものと思われる。

土地は国のもので、それを最大限有効に国民のために利用するのが互いにいいことだという結論と社会の仕組みにならないところに問題がある。少なくとも国民が実際住む住宅は市場の原理に任せるのは問題がありすぎる。別荘や投資用の住宅に関しては好きなようにすればいいが、生活の基盤となる住宅には国として何らかの手を加えるべきだろう。個々の取引で線引きするのが難しければ税金で調整すればことは済む。今まで与党も野党も土地問題に手を出さなかったのは単純に自分達の票を考えてのことだと断罪されても仕様がない。

ドイツは第二次大戦後住宅政策を復興の三本柱に掲げて、自宅を購入する人には30%の援助を出した。根底には住宅は国が最終的には面倒を見るもので、それを個人がやってくれるのなら援助しようという発想だ。フランスにも同じ様な基本理念がある。但しドイツの場合条件として100年もつ家を建てることが義務付けらていた。今もこの制度が生きているのかは知らない。ちなみに住宅に関しては親子三代ローンというのも彼の国にはある。

再生産出来ないものが不労所得の極めて有利な源泉だと分かれば、誰もがなかなか手放さないだろう。人間は人を慮ったり、国を思ったりは普通しないものだ。自分の利益をとことん追求しそれを守ることが最優先されるだろう。そんな人達も“ウサギ小屋”に住んでテレビや自動車を作り続けている人達の恩恵は当たり前のように受けられる。自動車が今の値段になるためには鉱山を開発し、それに大型船で原料を運んで鉄を作る人達が背景にいて、そして車の生産工場も合理化の極を求めて努力している。テレビでも他の電気製品でも同じ様な背景がある。こういった有機的に結び付いた社会システムが全体の豊かさに貢献している。そこで働いている人達がわずか30坪・50坪の宅地のためにどんな犠牲を払っているか地主も含めて皆で考えてもいいのではないだろうか。

住み易い都市を作るには時代に合った絵が必要だろうが、土地の問題があるため何にも変らないのが現状だ。都市部では道路を作るのに90%以上が用地買収費として必要とされるケースもあるそうだ。これでは理想的な都市なんて既存のところでは無理だろう。

またドイツの話だが新しい道路・鉄道を建設する場合、発表された日の1年前の値段で土地は買い取ると決めてあって、日本流のごね得は一切認められていないそうだ。街づくりにも工夫がされていて、空き地が出れば公共機関に第一優先権があり、民間が買い取った場合その街の景観を守ることが条件となっている。概して街並みが綺麗なのは国民に社会の一員としての意識を高く持つ教育がなされているからだろう。それは既に伝統となっている。羨ましい限りと言わざるを得ない。

そんな国での政治家は日本よりはるかにやり易いと思うが、これだけ高等教育が普及した我が国でも変えようと思えば変える事は可能だと思う。合理性のないものを排除するだけでもだいぶ変るだろう。不労所得に対する課税も有効な手段だと思われる。既得権を持った一部の人達が富を吸い上げる構図は決していい事ではない。伝統芸能やお茶・活け花・踊りの世界なら許されても、民主国家の国で身分制度にも匹敵するものが温存されていることに問題がある。重箱の隅をつつくような税金の仕組みと取り立てより、大局観に立った制度を再構築した方が国家・国民のためにもなる。

西郷隆盛の“子孫に美田を残さず”という言葉に共感する人は少なくないと思うのだが、建前と本音は別なのが日本人の特性かもしれない。

平成25年2月8日

草野章二