しょうちゃんの繰り言


弁解の限度

人は自分が不都合な事を仕出かした時、取り繕うため何らかの言い訳を普通するものだ。昔、誇りある武士なら黙って切腹したような不祥事でも、現代では知事と雖もありとあらゆる手段を労して自分を守ろうとする。他人からは逆効果にしか見えない弁解なのに、平気で武士道にあるまじき方法で恥を晒している。これが単に金勘定だけで済む個人的な商売の世界での話なら、或いはあり得ると思うが、少なくとも自ら“トップ・リーダー”と称して公の政治を司る都知事が取る手段では断じてない筈だ。

全てが自らの事なのに自分で説明出来ないで「厳正な第三者に調査・判断して貰う」と言うのは、そもそも論理が破綻している。しかも彼は大学で政治学を教え、「国際政治学者」としてマスコミに登場した。従って政治学の専門家と言える筈なのだが、問題になった数々の例を目の当たりにすると、この男は何を学び、何を教えようとしたのか理解不可能だ。これが「頭が良い」と自称している男の実像なのだろう。第三者に判断して貰わなければ結論が出ない様なリーダーを普通世間では「無能」と言うのではなかろうか。

分かり切ったことだが、こんな簡単なことを自分で判断・説明の出来ない人間は彼の言う“リーダー”の座にいつまでも居るべきではない。法的判断が必要な問題なら別途、それこそ専門家に検討して貰えばいいだけの話だ。本人に対する事実確認さえまともに応えようとしないのは逃げているとしか看做されないだろう。これは彼の言う「開かれた政治」でも何でもない。核心の問題から逃げるのは後ろめたい人間の取る常套手段で、これで済むと思っているのなら判断力も無く、頭も相当に悪い。

この問題に関して「ルールに従ってますので」という題で拙文を書いたのは5月8日で、その後13日・20日・27日と連続して開かれた都知事の記者会見の前だったが、前回例の友人が予言(断言)した如く、この知事の会見は単に恥の上塗りにしか過ぎなかった。我が友はこの男の本性をとっくに見抜いていて、この男が知事の器でないことは就任前から公言していた。

自分の著書やテレビ等で、したり顔に語った政治信条や他人に対する鋭い批判が、悉くブーメランのように彼に襲いかかる様は喜劇としか表現の仕様が無い。しかも暴き出された疑惑の数々が如何にも“せこい”のは彼の元妻が証言した通り、彼の持って生まれた性向だった。人としての佇まいに風格の欠片も見る事が出来ないのはその“せこさ”に原因があると思われる。本に書かれたことや自らの発言の内容と、実際の行いとの大きな違いをテレビは幾つか例を挙げて解説していたが、あまりにも分かり易い言行不一致に我が家内は「本は自分で書いたのかしら?」と新たな疑惑を笑いながら口にしていた。そして「自分でも本を読めば良かったのに」と駄目出しをしていた。

彼を簡単に纏めれば受験勉強は頑張った、そしてペーパー・テストには受かった小物の野心家と言えるだろう。とても天下国家を語る器ではないし、日本の首都を任せる政治家としての素質も能力も全く無い。前都知事が金の問題で失脚した時、「一円たりとも」と言って都知事選に出馬したのは2年程前だったが、彼がその言葉を忘れていても都民はしっかり憶えている。いま、暴かれている不祥事の数々は、元々彼が政界に出た時「政治に携わる人はやってはいけない」と主張していた事ばかりだ。都民が納めた公金を海外出張の旅費・ホテル代として湯水のごとく使い、公用車で毎週別荘に通う実態からは、政界浄化を主張して「一円たりとも」と発言した姿勢はどこにも見られない。自分を売り出す為に場当たりの発言で生きて来た人間の典型的な例だろう。

また、今回の騒ぎで知事経験者がそれぞれの県の財政的立場から意見を述べていたが、問題の都知事のホテル・飛行機代の出費が他県と比べ桁外れの額だった事が、さらに浮き彫りになった。笑ったのは、かつて「退職金は要りません」と言って当選した東京近県の知事が、当選後には自分の発言を否定し「私は頂きます」と、ぬけぬけと前言を翻していた。その男までテレビに出て一人前に都知事の不祥事を批判していた。“人の振り”だけを批判し、“わが身”を直さないのが東京にもその隣の県にもいた。こういった例は時折政治家に見られることだが、有権者がちゃんとしていれば国でも地方でもこんな輩はいずれ陶汰されるだろう。

言っていることと、やっていることの乖離がこれだけ酷いと都民は失笑するしかなく“この程度の男を選んだ”という彼に投票した都民の後悔は今や怒りとなって現れているようだ。哀しいことに彼のかつての仲間からは誰一人として彼を擁護する人間が出てこない。むしろ、こと細かく出費をチェックしていた彼が伝票を会計に任せる筈がないと、かつて彼の政党に所属していた事務長は証言していた。元事務長の発言は、知事本人は分かっていて個人的出費を政治活動費として計上したことを示唆していた。

ただ、例外として彼をテレビに抜擢したテレビ評論家が未だに彼には能力があり、政治家の資質はあると言っている。彼も自ら“総理大臣を三人辞めさせた”と先日テレビで豪語していた男だが、日本の総理大臣が彼の意向で辞める訳がないし、彼が辞めさせられる筈もない。テレビで名前を売ると、この男も問題の都知事も天下でも取った気分になっているのだろう。思い違いも甚だしい。しかし現実はこの程度の男達に国民は感化・誘導されている。

友人が嘆くのは、この手の目立ちたがり屋がテレビという媒体を舞台に大勢の国民に影響を与え続けている現実だ。当然その判断は視聴者に任せられているが、人は世間の出来上がった尺度で物を見る傾向を持っている。特に知名度という武器は現代では最強のようだ。選挙が往々にして人気投票になるのはこういった背景があるからだろう。学歴・履歴が一流として揃っていれば、彼らがテレビで“聞いたようなこと”を解説すると視聴者はすぐに信じる傾向がある。そのため、中には履歴を詐称してまでテレビに出て来る人間もいた。名前を売るにはテレビが一番効果的であることに気が付いている人達は、それを自分のために最大限に利用するだろう。視聴者は常に判断力を問われていると心得た方が良さそうだ。そうでないと「首相にしたい男ナンバー1」にこんな男を選んでしまう事にもなる。

今回の不祥事は心ある人達には、あまりにも次元が低く話題にさえしたくないと言うのが本音ではなかろうか。多弁を弄して取り繕う様は哀れにさえ思えてくる。ただ、心すべきはこの程度の男でさえ政治家になり、かつ首都の知事になれた事実で、それまでの一連の流れを考えれば民主主義の怖さを感じる出来事だった。

友人といつも嘆いているように、教育が形骸化しペーパー・テストで若者の仕分けが進んだ結果、こんな人物が評価される世の中になっていた。学歴を重んじるのは典型的な後進国の特徴で、本来評価されるべきなのは当人の生き方であり、社会に対する貢献であるべきだ。学歴や資格は試験に受かりさえすれば手にすることが出来る。皮相的な試験勉強だけで関門は潜れても選んだ分野で役に立つかどうかは判らない。資格を取ったため勘違いする人間が居るのも事実だ。理由なき上から目線は彼等に多く見られる。

個人が自分の歴史に誇りを持つのは大事なことで、運動でも勉強でも活躍したことはいつまでも記憶に残るだろう。ただ、そういった個人的な話題は人が集まった時自分から自慢げに披露することではない。自慢話は誰もがやりたいが大人としての常識がそれにブレーキを掛けている。だから他人の無遠慮な自慢話には敏感に反応する。常識を心得ない人間は同窓会や何かの集まりの時必ず何人かはいる。また、その気は無くても人より活躍している人間も色眼鏡でみられることがある。自から誇大に自分を売り込む人間に碌なのが居たためしがない。評価は他人がするものである。

人の持つ性向を否定する訳にはいかないが、判断力があり、教養があればこういったあざとい自己宣伝はしなくなる。教育とは本来動物としての備わったエゴを社会に順応するため訓練して修正することではないだろうか。猿の社会では力がある猿が食べものもメス猿も独占する。残念ながら人間にもこの本能的欲求は残っている。

我々はエゴイズム(Egoism)のことを通常エゴと言っているが、これは動物が持つ自己防御の本能として認めざるをえない。広辞林には「利己主義」、「自己中心主義」、「自分の存在を中心において、ものを考えること」と定義してある。他にも動物として必要な本能とされているものに食慾や性欲もある。金銭欲や名誉欲はどこに入れればいいのだろう。

人間は時間を掛けて教育や訓練を受けないと、こういったプレミティヴな欲望を制御することが出来ない。この教育はむしろ子供の頃から家でも学校でも常になされるべきで、ただ学科試験(ペーパー・テスト)の結果が良かったというだけで子供を優秀と思い込むのも間違っている。優秀な人材を育てるには、自分のエゴを抑え友人が言うように自己犠牲を厭わない性格を勉強と同時に子供の頃から訓練するべきだろう。人間としてこの基礎訓練が無いと単なるエゴむき出しの自分勝手な学歴エリートを作るだけだ。単に学科として教わった範囲から出された問題を沢山解くだけでは眞のリーダーにはなれない。

クラスで一番、学年で一番という勲章は本人には有難いかもしれないが、そんな勲章は日本中に幾らでもある。学級の数・学校の数だけ毎年一番は生まれている。よしんばそれが一流大学での順位だとしても、一番は学部ごと、学年ごとに毎年量産されている。本人が誇りに思う事に異を唱える気はないが、ものの判った大人から見れば大したことではない。むしろ当人が拘ることに人としての未熟さを感じる。そんな序列が温存されている組織では能吏は育っても、有能な指導者は育たない。

今回有能と思われていた都知事から露見した不祥事の数々は、未熟な人間の単なるエゴの発露だったことが判った。判断力のある大人なら決してしないだろうことが次々と暴露されている。不思議に、お勉強が出来たと自他共に認める人達にこういった未熟さが付き纏う事がある。彼らは受験戦争を勝ち抜いた勝者とでも言えるのだろうが、人としてのバランスの悪さが背景に隠れている。何度も言うが、教えられたことの再現が日本式教育の王道で、沢山正解を書けた生徒が優秀だと未だに看做されていることに根本原因があるようだ。

皮相的な手段で量産された優等生は、物の役に立たないことが多い。友人が言うように教育の基本を直さないと碌な人間は育たないのだろう。

「学ぶとは何だろう」という事を考えさせられた知事の不祥事だった。決め付けた言い方をすれば全てが「弁解の限度」を越えている。それが分からない男を知事に選んだ都民にも責任がある。

全く鬱陶しく迷惑な話だ。

平成28年5月29日

草野章二