しょうちゃんの繰り言
無関心の背景 |
“人は何故(なにゆえ)、大事なことなのに自分の利害と直接関係ない場合は無関心なのか?”という問題には、正直言ってあまり真剣に考えたことはなかった。例の口の悪い友人から、かつて指摘されたのは“それは能力が無いからだよ”という単純明快な本質をえぐるポイントだった。 ■ 多くの場合、人は自分の身の回りの事で忙しく他を慮る余裕は無い。まして会社組織に属し、自分の仕事を任された時、平社員が会社全体を考えて判断する事はあまり無い。つまり細分化された役目の中で無難に自分の役目を果すのが大多数の普通のサラリーマンだろう。 従って平社員・管理職・役員(経営陣)というヒエラルキーが確立された役割分担で成り立つ組織は、基本的にそれぞれの立場でのオーヴァー・コミット(権限外の判断)を戒めている。仕事を遂行する上でこういった制度は実は大事な決まり事で、平社員が会社の浮沈に関わるような判断をするべきではないし、その機会も権限も与えられていない。ましてトップになれるのは何百・何千・何万人の中の一人だ。組織としての仕事に対する姿勢はこれで充分だが、実はこの約束事が本来個人のあるべき判断力に自ずと規制をかける事にもなっている。 ■ 「俺なんか営業で働いた経験から始業時間に関し、一律全社9時出勤に異論を唱えていたが、それが世間に認められたのはそれから20年以上も経ってからだった。業務によっては9時厳守が必要だが、顧客の都合で夜遅くまで働く営業は朝9時だろうが10時だろうが始業時間に関係ない部署もある。要は規則優先ではなく働く人間の立場を優先させれば良いだけの話で、合理性があれば採用すればいいことだ。それで朝の通勤ラッシュが緩和されれば一石二鳥だと思っていた。しかし、この単純な理屈も時差出勤として会社と社会が受け入れるまでには長い年月を必要とした」 これは例の友人の発言だ。 確かに理屈では彼の言うとおりだろう。しかし50年前の日本で堂々と若手が持論を主張する雰囲気は世間にも会社にも全くなかった。 ■ 遅刻をものともせず自由奔放に暮らした学生が、社会に出て学ぶべきことはたくさんあり、彼らがその後属する組織にはそれぞれの規律が存在する。また、規律にはそれなりの意味と背景がある。仕事に取り組む姿勢から学ばなければならない新入社員は社会に出て早々、全ての面で正に鍛え直される事になる。会社のルールに、例えそれが建設的であっても、異論を唱えることなど当時許されることではなかった。今でも基本はそうだろう。 ■ すべての約束事にはそれなりの理由があったとしても、それによって必ず副作用が生まれるのが世の常だ。自分の役割を理解し、その役割を遂行するだけに終われば自ずと考えは限定され、その範囲でしか物を考えなくなる。役所のたらい回しはその典型的な例だろう。彼らは自分の役割を規定に沿って忠実に遂行しているわけだが、少しでもはみ出せばもう自分の仕事ではなくなる。これは細分化された役割で機能している組織が、多かれ少なかれ抱えている問題だ。多くの場合働いている人間もこの問題に気が付かないで終わることさえあるようだ。 ■ 彼は続けた。 「学生時代面白かった奴が、会社勤めで変わった例を多く見てきた。独自の見解や個性がなくなり、服も顔も同じ様になっていった。それを“成長した”とか“大人になった”と世間では言うのだろうが、俺から見れば大学で生産された金太郎飴の原型が社会ではさらに凹凸をなくした“一山幾ら”として扱われる既製の平凡な金太郎飴に完成されたように見えるね」 ■ 彼の指摘は分かるような気がする。生計を得る為の仕事は大事な生活の基盤となるが、そこで必ずしも自分の生き方に叶う原則が守られている訳ではない。会社は究極の言葉で表せば“儲ける事を目的とした人の集合体”と定義出来るだろう。 ■ 「“人はどうあるべきか?”という課題に取り組む民間会社を見たことはない。言ってみれば、時代を読んだにせよ潜在的な需要を先取りして製造・販売して利益を上げる事が最優先される。資本主義が発達すれば、物を作ったり、売ったりするより金そのものを動かした方がもっと儲かることに人は気が付いた。限度も節度もわきまえないで金儲けに邁進すれば、庶民には手に入らない“大間の鮪”を愛犬(ペット)に食べさせる馬鹿も出てくる。それでも本場のアメリカに比べればまだ可愛いものだ。こういった人間の性向は利益の前に制御が利かなくなるから先人は会社経営の理念を掲げていた」 ■ 彼の言うことが全てではないにしろ、言っていることは良く理解出来る。日本でも名のある創業者や経営者は、会社のあり方に関して明確な方向性と経営哲学を持っていたように思える。いつ角を曲がったのか気が付かなかったが、“会社は株主のもの”という“正論(?)”に誰も疑いを持たなくなった。こういった考えは資本主義の先進国アメリカからもたらされたもので、内容の如何にかかわらず日本も素直に従っている。むしろ金融界に於ける指針は、最先端の発想としてアメリカ流を売り物にする学者や経済評論家と称する人達が我々無知な人間に教えてくれる。会社が投資した株主のものであれば、社員は社会の為でなく株主を儲からせるために働くことになる。資本の理論としては完結しているのだろうが、人の理論としては未熟で不完全なものだ。 ■ 「人が感じる何故(なぜ)という疑問は、実は大変大事なものを含んでいることがある。だが、通常問題があっても人は反論出来るほどの理論武装をしてないし、大抵の場合少々の疑問にも関わらず従うことの方が多い。“会社とはそういうものだ”とか、“社会とはそういうものだ”とか自分なりに納得して済ませ、疑問に対し事を構え反発する奴はまず居ない。こうやって若者は牙を抜かれ、当初意に染まなくてもやがてその社会に同化していく」 ■ 言われてみればその通りだ。現実社会では国際問題を含め不条理なことや理不尽なことは幾らでもある。黙っていると、やがてそれが世論となり国際評価となれば、日本は“従軍慰安婦”問題に関して、やった事は他の国とさほど変わってなくても世界で唯一非難される国となった。また、その都市に住んでいた人数以上の人間を虐殺した国として歴史に永遠に残るだろう。この典型的な二例はその歴史的事実関係について、根本の部分は捏造の疑いが強い。 ■ 「立場を鮮明にしなかった付けは誰かが払うことになり、結果として長い目で見れば決して互いの為にならない事を認識するべきだね。前にも言ったことがあるがナチス・ドイツ全盛期の折、“我々は無関心の代償を今払わされている”というインテリの呟きを俺たちも身に沁みることになるだろう」 ■ 彼が言うように、徐々に変わっていくものには普通人間は鋭敏な反応をしないものだ。互いに何の悪意もなく個人として対処してきたのに、気が付くとあらゆる分野で閉塞感が漂うようになった。“生きる為”という大義名分が個人に疑問を持たせなかったから、我々は選択そのものをいつの間にか“儲かるか、儲からないか”という尺度で計るようになり、結果として、せっかくの人生を味気ないものにしていることが多い。 ■ 「若者に“青雲の志”だけを教えるのであれば何も長いこと学校で学ばせる必要はない。立身出世には大した教養も哲学も要らない。我々があまり気にしないで通り過ぎ、黙認したことが取り返しのつかない過ちを犯していたことに、やがて思い知らされる時が来るだろう。それぞれが“自分の事ではないから”とか、“俺の管轄ではないから”という生き方をしていたのでは,どんないい提案も無意味になってくる。これだけ教育が普及し、学ぶ時間が増えても決して上等な人間を育ててこなかったことに早く気がついて欲しい。20歳過ぎまで学べば、ひとかどの人格は形成されなければおかしいし、それが出来てないのであれば教育を見直せばいいだけだ。大学は決して単なる職業紹介所ではない。俺は実用的な事を排除しているのではなく、学ぶことの意義をもう一度考えて欲しいから言っているのだ」 ■ 彼の話を聞いていると、自称三流大学の落ちこぼれが今日も哲学者に見えてきた。個人は巨大な仕組みの中では歯車の一つにしか過ぎない。しかし人生の主役はその個人そのものだ。それぞれの考えがあり、生き方があるに違いない。鰯は全体で鰯としか表しようがないが、人間にはそれぞれに名前があり、各個人は自分で生き方の選択が出来る。我々は鰯のように決して集団で括れるような存在ではあり得ない。 ■ 彼が言うように、自分と直接利害関係のないものに人が無関心なのは能力がないからとも言えるだろう。時として人生の達人としか例え様のない存在感のある人に巡り合うと、友人の言った意味が良く理解出来る。直接の仕事のみならず、あらゆる分野に卓越した見識を持つ人に出会った時、いつも我が身の至らなさを痛感する。口の悪い友人も、品はないがその一人と認めざるを得ない。 ■ 「何のために学んだのか考えてもみろよ。安定した生活が欲しいのなら何も長い期間月謝を払って学校に通う必要はない。我々が学ぶのはその先にあるものを常に考えるからだよ。大学が実利的なことのみ教えるのなら、看板は専門学校でいい。実利的なものの裏に常に普遍的な価値が存在する時、我々は学問と位置付けて学んでいる。経済が単に金勘定や、儲けることのみに終始するのなら大学で学問として採り上げる必要はない」 ■ 言われてみれば納得することが多い。何のために学ぶのかという基本的スタンスが定まっていないから学生は優の数を増やし、少しでも有利な会社に勤めようとする。正に私達の時代がそうだったが、今でも基本は変わってないだろう。友人が否定したのは単に優の数を増やすだけで、知的好奇心や極めることへの関心の無い大学や学生の風潮だった。彼は、本当は落ちこぼれではなく問題意識を持った極めて優秀な若者だったのだ。 ■ 「時流に乗って儲かる奴はいつの時代にも出現する。試験に受かるのは面倒なことを厭わなければ難しいことでもない。志を持たないで成績上位に入る者を優秀としたことに、社会全体から考えれば問題がありそうだ。極論すれば能力がなくてもどんな試験にも受かることが出来る。学術論文に共著として名を出せば、幾ら弁を弄してもその共同責任は存在する。それさえ分からなくても優秀とする風潮にはそろそろ幕を下ろすべきだろう。かつての原子力安全委員長を含め、日本では優秀とされたトップにいる人たちに、このところ例外なく失望させられている。問題さえ起きなければ彼らの名誉も守られたのだろうが、問題があって明るみに出るとその能力が歴然として晒される。彼らは世間の評価はいざ知らず、俺から見れば無能としか言いようがない」 ■ 彼の厳しい目では、なかなか有能だと認めて貰えそうにないが、言っている事には間違いはない。各界における自浄作用や閉塞感への挑戦がないため、友人は指摘しているのだが、それは正にぬるま湯に漬かる我々への警句なのだろう。 現代に生きる我々に絶対的に欠如しているのは彼の言う“他への関心”であり、“学ぶことの意義”であろう。「問題意識の希薄な人達に求めても詮無いことかもしれないが」と、彼はよく嘆いていた。 ■ 「人間はもっと可能性があるのだよ」と主張する彼が、私にはどうしても落ちこぼれには思えなくなった。三流大学で何を学んできたのだろう。成功者のゆとりや奢りは見えないが、知性の輝きは安物の衣装に身を包んでいても光を失わないでいる。 友よもう少し生きていてくれ、まだ君が必要だから。 平成26年4月21日 草野章二
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