しょうちゃんの繰り言


求めるもの

飛行機や新幹線、それにスピードを追求する車等は、それぞれが物理の法則に従ったデザインになり、機能性を重視して出来上がった姿にはそれなりの美しさ(機能美)がある。素材を含め各種のパーツはその目的に叶ったものを選び、より良きものへの改良と開発は常に続けられている。飛行機は音速の壁をとっくに破り、戦闘機に至っては音の速さの3倍で飛ぶ事さえ可能だという。乗り物は上記以外に船を含め今後も改良されるだろうが、究極の到達点は門外漢の私には想像もつかない。建物は高さ1000メートルのビルさえ技術的には可能だという。但し地震や台風等の影響を考慮すれば、この高さの建物は全世界でも建てられる地域は限定されるそうだ。

科学技術の進展は人の利便性とそのもたらす経済的利益のため、いつまでも飽くなき挑戦が続けられるだろう。そしてこの特色は新技術を生みだす背景となる国の仕組みとは何の関係も無い。民主主義国家であろうが独裁国家であろうが新しい発明や発見には何の影響も無い。強いて言えば、国がどの分野を後押しして、そこに人材と予算をつぎ込んだかの違いだけだろう。また、新技術は産業用であれ、軍事用であれ他国にすぐに盗まれる運命にもある。

また、例え技術的に可能だとしても軍事目的以外では経済的な整合性の壁は常に存在する。そして経済的問題を将来クリア出来ても、人の感性という壁や環境保全の壁もいつも存在する。幼児期の子供を持つ親はマンションでも50階や100階にある部屋は普通選ばないだろう。旅先での好奇心に任せた野次馬的体験としてホテルに短期間泊まる時は選択しても、日常生活を送るには50階という高さは小さな子供が居る家族では、やはり敬遠されるのではないだろうか。

人間の感性の原点は己の肉体的な構造とその規模(サイズ)に大いに関連しているようだ。自然に備わった条件からの判断に加え、各個人の経験則から来る判断もそこに加わるだろう。つまり背の高さに関しては男でもせいぜい2メーター以内に収まり、体重も普通では100キロ以下だろう。それに伴う人間の運動能力は最高でもオリンピックで出る記録程度が限界だ。自然に備わった肉体的能力で我々は安全とか危険といった感覚をそれぞれが認識している。飛び降りても安全な高さには危険だと感じる事は無い。自分の肉体的限界が同時に危険度の判断にもなっている。判断力の無い子供を持つ家庭では、危険度のチェックも厳しくなるのは当然だ。子を持つ親としての判断はなされるべきで、物心付く前の子供に高い階での幼児に与える心理的な負の影響も保護者として考慮しなければならないからだ。高所を怖がらない子供には当然のことながら致命的な危険に会う可能性が高いという。

人間の移動手段を考えてみても、科学技術は急速な進歩と発展を我々に示してくれている。

ライト兄弟は有人動力飛行を1903年に人類初めて成功させたが、その僅か66年後の1969年にはジャンボ機が初飛行を行っている。

私が大学を出て船の世界に入ったのが1964年だったが、当時のバルク・キャリアー(梱包しないで原料素材のまま積む船・「海上のダンプカー」が一番認識し易い)の最大船型は50,000トンで、パナマ運河が通れる最大船型だった事からパナマックス(Panamax)と呼ばれていた。その後パナマ運河の拡張工事により80,000トン近くの船でも今では通れるようになり、パナマックスの定義も変わっている。そして主に製鉄用の石炭・鉄鉱石を運ぶバルク・キャリアーは現在300,000トンを超す船も運航されている。これは50年余の間に起きた変化(進化)だ。しかしこれらの進展は人に精神的な負担はあまり与えてない。

いろいろなカテゴリーで、半世紀以上の時間の経過から眺めれば革命的な変貌は随所に見られる。特に科学技術は日々新しい工夫と発見で、あらゆる分野にその進展を見る事が出来る。正に日進月歩の世界がそこでは繰り広げられていて、前述した様にその発展には限界が無い。自然科学の発展は国の形態にも、携わった研究者個人の人格にも一切関係なく飽くまで人類にとって有益、或いは便利という物差しでその成果は評価される。

一方、自然界の産物である人間そのものと、それに属する人の本質や本性は基本的にはあまり変わらないのではないだろうか。時として科学技術の進歩に対する人の戸惑いが生じる場合があるようだ。ものによっては大変な違和感を覚える場合もあるだろう。

時代の変化はその変化をもたらした主役の人間にも影響を与える事になり、また現代に生きるという事は常に科学技術の新たな洗礼や、その時代に生まれた価値観の影響を我々は受けている。その恩恵と同時に、人によっては或いは年代によっては拒否反応が生じる事も充分あり得る。若い世代が新進の気性に富み、旧い世代が自分の経験則に拘り保守的になるのは、むしろ当たり前の事で、そのギャップは常に親子の世代間軋轢の基になる事もある。

我々は「自由と平等」という旗印の下に戦後、民主的な社会を目指して国を再建してきたが、副産物として伝統的家族制度の変化(崩壊)は、特に現在の高齢者の社会問題となって影響が現れているとも言える。自己完結出来なくなった家族は高齢者の面倒を社会に委ねるしかない。そこには新たな公費での清算が必要になる。これは正しく我々が現在直面している問題であり、かつそれは我々が選択した結果なのだ。従って社会的経費の増大は我々が等しく負担せざるを得ない。親の面倒を見る覚悟も無く、社会的経費の負担も否定していたのでは国が成り立つ筈がない。これは国の責任ではなく、等しく国民の責任だという認識を各人が持つ必要がある。世の中にはただ(無料)で済まされるものは何もない。何かを追求する時、必ず別の何かが生まれる。この分野では科学技術に見られる整然とした法則性や整合性は無い。

戦後の民主教育で強調された「自由」という概念に、私達は深く考える事も無く自分だけの判断でそれを主張してきた風潮があるような気がする。極論すれば国や公共の利益より個人の利益を優先させ、過去法外な補償金を手にした例は鉄道建設・道路建設・空港建設の度に目にしてきた。正当な補償か、ごね得かの線引きは難しいものがあるが、日本では個人の土地所有権を必要以上に認め、公共目的の建造さえ支障をきたした例は成田空港を始め幾らでもある。前にドイツのケースを紹介したが、彼らは鉄道や道路新建設の場合、計画が発表された日から一年前の地価で必要な土地を買い取る事が決まっていて、彼の国ではごね得は制度上絶対あり得ないという。公共目的の建造物は個人の都合に優先する原則が徹底しているからだ。社会とは自分の都合を互いが無限に主張すれば本来成り立たないのが分かっているからだろう。

親子の関係においても自分の利害で判断するケースが増えているのではないだろうか。確かに核家族主義では子供から見た場合、自分の事情を最優先するのは当たり前だろう。親の老後の面倒は世間の掟からも今では心理的に強制される事はない。しかし目の前の直接の負担は無くなっても、結果として等しく他人の親の面倒も見る事になる。外食と同じで、人の手を経る程コストが掛る事を自覚しておかなければならない。老人養護ホームや介護サービスは無料(ただ)で運営さえている訳ではなく、本人が負担出来ない部分は公費(税金)で賄われている。主張するものが核家族主義でも何でも構わないが、この因果関係は互いに良く認識しておくべきだろう。

我々が求めているものは自分の目先の負担を軽くする事だけでいいのだろうか。日本にあった伝統的な家族主義は未だに幾らか残っているとは言え、現在はやりの風潮に私は馴染む事が出来ない。目先の問題を逃れた付けは必ずどこかに残っている。

自然科学における追求は多少の違和感があっても、人に受け入れられるものだけ選択すれば事足りるだろう。若しくは時間を掛けて人との調和を図ればいい。人に受け入れられず、かつ人との調和も図れないものは消えるだけの話だ。

ところが国の安全や平和を求める時の意見は個人の数だけ違った見解があるとも言える。それ以前に人のあり方や国や社会の仕組みそのものにも多種多様な意見がある。物理の法則に則った自然科学と違い、人の生き方には正解という絶対価値は存在しない。それでも人は「最大多数の最大幸福」を求め今の社会を築き上げてきた。実利的なものから形而上学的のものを含め、微調整を繰り返しながら現在に至っていて、修正すべきものは今後幾らでもまだ出て来るだろう。誰かが一方的に押し付けた価値観に人が従う筈がない。民主主義とは例え効率が悪くても、各個人に自由という最大の権利が保障されているところに価値がある。長い時間掛けて人類が求めた結果である事を忘れてはいけない。その権利は本来自分個人の、或いは自分達の都合で安易に振りかざすものではない筈だ。

それなのに、問題なのは自分達のイデオロギーを押し付け、それが絶対正しいと信じている集団がある事だ。彼らの共通点は国や時の政府に反対し、時として隣国に告げ口をしてまで我が国の至らなさを強調している例さえある。あらゆる方法で既存の国家を攻撃し、論理的整合性には拘らず自分達の正当性を主張するのに手段を選ばない。インテリだと自称しているだけに質が悪い。これらの権利も自由という名の下に等しく誰にでも与えられていて、ばかばかしくても彼らの表現の自由も民主主義は保証している。その目的に建設的な理念が根底にあれば共感も得られるだろうが、多くの場合単に現在の体制を否定するだけに留まっている様に見える。ただ独りよがりの論法に表現の自由が与えられていても、自分達の意見を手段を選ばず正当化する様は異常と言うしかない。

過去や現在から学び、将来に対して的確な判断が出来る人はそんなにはいないが、利口ぶることや、頭が良さそうに振る舞うことは難しくない。まして出た学校や選んだ職場・職種でランクが決められている社会では、取り敢えずそのグループに入っている事でエリート面することは可能だ。しかし問題なのは世間が信じ込んでいるこの物差しが当てにならないことだ。大いに譲って「概ねその通り」と妥協しても、普通の頭なら間違えた記事を32年間も訂正しない事はあり得ない。社長名で出された言い訳や、特集記事(弁解)でもこの人達の論旨を論理的に理解する事は不可能だ。事を起こした人間が、なぜ間違えたかを説明しているのだが、本当に頭が良ければこんなバカな言い訳は子供でさえしないだろう。

品悪く決め付けるのは本意ではないが、国際的に彼らが与えた悪影響を考えればこの程度の罵倒では済まされる事ではない。ジャーナリズムとして全てが破綻した事を彼らは認識するべきだろう。OBと称する人達が事後したり顔で出てきて良識風な発言をしているが、その前に何故30年以上の沈黙が彼らにもあったか説明してからにして欲しい。「自分は違っていた」という発言がどんなに見苦しいものかが彼らには分かっていない。言論で生きる人間なら、そして多くの人に向かって見解を述べるのなら、それなりの知性と覚悟が必要だ。半端な頭で辻褄合わせをやろうとするからこれも見苦しい事になる。

物理科学の世界にはその性質上明確な法則があり、理論上の破綻は許されない。先人の業績がいつも基礎となり、次の発明や発見に繋がる。この世界では極論すれば携わる人の人格は前述した様に関係ない。

しかし社会のあり方に影響を与える言論の世界では、そしてその影響力が大きい場合は事情が違う。少なくとも事実関係に間違いがあれば潔く訂正し、何故間違えたかもすぐに読者に説明するべきだろう。それがやれなかったのは普通に考えれば意図したものが背景にあり、世間に対して高を括っていたとしか思えない。32年の沈黙はいかにも長過ぎるし他の問題とすり替えるのにも無理がある。言論機関は、どういう理念と見識があるのか常に問われている事を忘れてはいけない。

過日ネット上で「赤が書き ヤクザが売って 馬鹿が読む」という戯歌が紹介してあったが江戸時代の川柳を連想して思わず笑ってしまった。庶民は冷静で諧謔の精神に溢れている。常日頃頭のよさそうな振りをしている彼らもインテリ読者は騙せても一般庶民は騙せなかったようだ。

求めるものに絶対正解がない分野では、特に影響力のある立場の人達はもっと真摯に物事に立向かって欲しい。与えられた肩書や立場だけでは多くの人を説得するのは難しい。学ぶ方法と方向を間違えると同じ様な事例はいつでもどこでも起きるだろう。

少なくとも彼らに「求めるものを間違えると取り返しがつかなくなる」事を学んで欲しい。自分達でエリートだと思うのは勝手だが、今の儘ではお里はとっくに知れている。

自由をはき違えた人間ならどこでも見られるし、無責任な所業も新聞社の占有特権でもない。問題は、いつも言っているが、その程度しか育てられなかった教育の在り方と選別方にあるようだ。「何を求めるか」の哲学が無いと結果はこの程度でしかないのだろう。

この意見、インテリの彼らに理解出来るかな?

平成26年10月5日

草野章二


Webmaster注 2014年現在世界最高のビルは中東ドバイにあるブルジュ・ハリファで828.0 mである。

高さが1,000mを超えるビルは、ハイパービルディング(超々高層ビル、超々高層建築物)と呼ばれ、サウジアラビアのジェッダで建設中(キングダムタワー)である。167階建て高さ約1,007m(尖塔高)、2019年の完成予定で、完成すれば世界初のハイパービルディングとなる見込み。(2014/10/5)