例の口の悪い友人から「風邪が治ったので今から行くぞ」と午前中に電話があり、奥さん連れで久し振りに元気な姿を我が家に現したのは丁度昼時だった。焼酎と大量の蕎麦を持参してくれたが、貧乏している時の食べ物の差し入れは有り難い。渡す時、「貰い物のお裾分けだよ」と笑っていた。彼には未だにサポーターが居て、時折酒以外にも米や麺類の贈り物があるらしい。「俺のとこの蕎麦も旨いぞ」と自慢しているのは、前に家内が持たせた頂き物の山形蕎麦をいたく気に入った彼のお返しらしい。
友人持参の信州蕎麦を家内が工夫した大人風味の汁(つゆ)で、かけそばにして騒がしく食べる四人は、とても古稀を過ぎた年寄りの集団とは思えないほど饒舌だった。辛辣な毒舌家で健啖家の友人は何故だか我が家のかみさんの作る味と相性が良いようだ。今日も汁の味付けを「プロ並みだ」と誉めてかみさんを喜ばせていた。
昼食後のお茶で一段落して談笑している時、家内が突然政治の話題を持ち出してきた。
「女性だという親近感もあり最初は都知事を応援していたのだけど、最近少し違和感を持つようになってきたの」
一呼吸置くと彼女は一気に私たちに問いかけて来た。
「何千億円も掛けて造った豊洲市場の安全性に疑問が出て、都議会は百条委員会設置を2月23日に決定し石原元知事と腹心だった副知事の出席を要請したと報道されていた。豊洲市場の安全性そのものと百条委員会はどういう関係があるのだろう。それに市場の安全は食品を取引している建物の中での問題だと、私など理解しているのは間違いかしら。この安全問題を現在の築地との比較で理論的に説明した新聞記事やテレビ解説が無かったと思っているのは私だけなの。どなたか解説して下さらない」
友人が直ぐに応えた。
「知事・都議・都民が奥さんのような視点を持てば東京も大改革が出来るだろうが、現状は相変らずの劇場型のパフォーマンス政治に知事は終始している。それに悪乗りしている判断力の無いマスコミや無責任な都民という観客が事態を混迷化している。一番肝心な事は現在出来上がっている豊洲市場で食品を売買する屋内(建物内)の安全性が確保されていることだ。コンクリートと硝子で閉鎖された市場内の食品取引に安全上の問題が無ければ何も騒ぎ立てることはない。もし有害なガスや汚染水がそれでも市場内(屋内)に入り込み、そこで健康に害を与える程検出されたのなら移転を含めた根本的な対応が必要だろうが、俺には奥さんが指摘したように現在の築地の方がよっぽど危険に見えるがね」
彼は問題点を明快に指摘して、さらに続けた。
「安全の問題をゼロ・リスクの視点で捉えれば、反対意見は幾らでも出せる。豊洲市場の地下水に何故水道水並みの規準が必用なのかがまず理解出来ない。それに曖昧な“安心”という訳の分からん情緒的な事まで言い出す始末だ。塩素が混入された水道水で金魚が死ぬのは大人なら誰でも知っているだろう。その水を、乳児を含めた我々国民の飲料もしくは調理に何の疑いもなく日常的に使用している。塩素は大腸菌を含めた細菌の殺菌に利用されているのだが、金魚なら確実に死ぬ量だ。つまり生き物には有害だということだよ。パイプで家庭に送られている水道水にはペットボトル詰めの水、いわゆるミネラルウォーター以上の安全規準が適用されている。水道水は毒を持って毒を制している典型的な例だが、もしそこでゼロ・リスクの理論を展開したら塩素殺菌は出来なくなる」
一息入れてさらに続けた。
「東京に限らず各地の埋立地には産業廃棄物も含まれている筈だ。そこに出来たマンションに人は平気で住んでいるし、幼い子供をその埋立地の公園で遊ばせている。幹線道路で出される車の排気ガスは人体に影響はないのだろうか。都内の幹線道路沿いには隙間なくマンションが乱立しているが、今の豊洲の規準では排気ガスまみれの大気の安全性はクリア出来るのかね。豊洲市場の安全性を神学論争の場でやり始めると現実的な対応が難しくなる。行政トップの責任としては常に現実的な解決策を求められていることを自覚するべきだね。豊洲問題の結論に対して指導者の責任逃れとも言える住民投票が知事から示唆されていたが、こういった手段は断じて取るべきではない。住民は判断するに充分な情報を持ってないし、残念ながら事の本質を的確に見抜くほど関心も持ってない。皮相的な支持率という虚構で飾られた指導者の意向に流されるのが落ちだろう。指導者なら適切な判断をして、その判断に責任を持つべきだ」
私も口を挟んだ。
「論争するには問題点を明らかにするべきだろう。だが、女性知事が取り続けている手法は悪玉という対立軸を作っての政争に終始しているようだ。根拠のない決めつけで“ブラック・ボックス”や“頭の黒いネズミ”といった分かり易いレッテルは、物を考えない人達には受けて彼等からサポートを貰っても問題の解決には何の役にも立たない。まして元知事に対して“晩節を汚すな”、“逃げるな”という悪者と決めつけた物言いは相手に対して大変失礼な事だという大人の礼儀(常識)さえわきまえていない。“年増の厚化粧”という元知事の発言に対する彼女の個人的な恨みだろうが政治家なら、それも都知事なら、もっと大局観に立った判断が必要だ。私には個人的恨みで豊洲問題を混乱させているように見える。そこに掛かった今迄のコストと、今も発生し続けている無駄な出費は税金から補填され結局都民の負担になる。都知事として“都民ファースト”を唱えるなら、都民の負担を増やさない方法を選ぶべきだ。それに今は市場で取り扱う商品に直接安全上の問題が無い場合、豊洲にすぐにでも引っ越すのが最善の解決策だと思う。
豊洲の土地を買収する際に何か法的問題が存在し、石原元知事が不正に関わっていた事実でもあれば別途法的手段で摘発すればいい。知事の一存で巨額の都の予算が動かせる訳ではない。むしろ豊洲開発に関わりあった都の職員や都民の代表である議員の意向に反して都知事が強権で方向性を変更したのだったら、その方が問題だ。私が見る限り石原元知事は正当な手続きに則り東京都を代表して東京ガスとの契約書にサインしただけの話しだ。形式上の責任で首長が後に糾弾されるのなら、今後契約書に都の代表としてサインするのを知事は避けるようになるだろう」
友人が後を引き取って語り始めた。
「ドイツでは国民参加の選挙という民主的手法で、ヒットラー率いるナチスを政権与党に選んだ。第一次大戦敗戦で生じた天文学的な賠償金支払の拒否と、ヨーロッパ全土にどす黒く流れているユダヤ人に対する歴史的人種偏見を利用したユダヤ人撲滅政策を基本に置き、アーリア人(ドイツ民族)の人種的優秀性で国民を鼓舞した。ユダヤ人に対するホロコースト(大量虐殺)は金融等で成功を収めていた彼等に対するドイツ国民のいわれなき報復だった。ヒットラーはドイツ国民の持つ、異人種(ユダヤ人)に対する潜在的敵愾心を利用したのだ。
明確な対立軸を示し、国民の不満を煽ったヒットラーは熱狂的な国民の支持を得たが、政治的評価となればリーダーとしての正常な判断力は皆無だったとしか言いようがない。それでも彼を選んだ手法は民主的な手続きで国民の支持が基本になっている。その反省からドイツでは首相という権力を持った国の代表を国民が直接選挙で選ぶ制度をやめている。これは日本でも適用しているルールだ。選挙民が常に冷静で正常な判断をするという保証はない。おかしな代表を選ぶのは選んだ人達のレヴェルを物語っている。これが言うとこの“民主主義のコスト”だ」
老人の議論として、いつもは男同士の意見交換だったが、今日は家内の特別参戦で少し雰囲気が違った。
彼の奥さんも政治論争に加わった。
「私も女性知事に期待して彼女に投票した一人だけど途中で何かが違うと強く思うようになったの。決して夫の影響じゃなく、節目ふしめでの彼女の言動に奥さんと同様違和感を覚えるようになっていったというが本音ね。特に“小池の森退治”という新聞の見出しをわざとカメラ側に向けて都庁を退出する姿を見て彼女の限界を感じてしまった。劇場型とマスコミは伝えていたが、あまりにもあざとい手法の連続に最近では嫌気がさしてきたのよ。殿方と視点は違うかもしれないけど、豊洲の新市場では海外を含めた観光客の受け入れ施設(レストラン等)を充実させれば東京の新観光名所になると思っていた。後ろ向きの議論ばかりではなく、新市場で未来に向けてどういう展開が出来るのかを考えるのが政治家じゃないのかしら」
私の家内も彼女の意見に深くうなずき言葉を足した。
「女は論理的ではないと夫に良く言われるけど、女の直感でも今の知事の判断には疑問が湧く。色々問題は提起したけど見事に解決した例はまだ一つもない。協力するべき相手を頭の黒いネズミと呼んだのでは東京オリンピックの成功はおぼつかないでしょう。一部で言われ始めているように“都民ファースト”ではなく“自分ファースト”の印象が最近は強くなったように思える。キャッチ・フレーズだけでは古稀の女は騙されないし、大人しくついて行かないわよ」
友人が皮肉な笑い顔で纏めた。
「民主主義の原則である多数決での決裁判断は、必ずしも最良の結論を導くものではない。各種の議員を見ても市民・県民・都民・国民の代表として相応しくない人物は幾らでもいる。だが、結果として日本国民はそういう選択をしたとしか言いようがないだろう。アメリカではトランプ氏を国民は選挙で大統領に選んだが、就任直後にも関わらず国民の支持率は40%台に低迷し各地で反トランプ運動が起きている。アメリカの大統領選挙制度の特異性と選択後の国民の心変りが無ければ少なくとも支持率50%以下では多数決の原理さえ働いてない。
一方日本では、総理にしたいナンバー・ワンの男を知事に選んだ東京都民は就任後約2年で後悔することになり、彼が任期途中で辞任した後女性知事を選択した。俺も都民だがこの歳では正直なとこ、もう何も知事に期待するものは無い。やれることはせいぜい憎まれ口を叩いて嫌がられるだけだろう。先の見えている老人でも良かれと思って今迄苦言を呈してきたが、最近では全てのことに関心が薄れてきている。
分かり切ったことに反応しないマスコミや国民に少々愛想が尽きたというのが本音だね。“セコイ”男の後に“アザトイ”女が来れば見事に“都民ファースト”の劇場は湧くだろう。皆で渡れば何も怖いものはないのが国民の多数ではないのか。都民の税金が無駄に遣われることに真剣に取り組む政治家は日本に果たして居るのかね。自分が当選すればいいだけの議員や首長が居る限り、そしてそんな人間を選挙民が選ぶ限り何も変わらんし、大改革など出来る筈がない」
いつも“悪魔の予言”と言って闊達に切り捲った彼の目が心なしか今日は寂しく見えた。同年代の私には彼の心境が良く分かる。彼は決して世を捨てたわけではないだろう。ただ、思い付きのような口先での政敵への攻撃や揶揄は選挙民を喜ばせても大都市の改革には何にも貢献出来ない。それに彼女の言う大改革が何なのかもはっきり見えない。ポピュリズム(大衆迎合)の政治が危ういことを知っている大人は世間では少数派だ。彼も私も現知事の全てを否定するものではないが、しっかりした土台が無ければ家は建たない。土台が見えないための古稀の苦言だと取って貰えば彼の表情も明るくなるだろう。
怪我の功名でもいいから何か意味のあることを一つでも早くやって欲しいものだ。
それにしても古稀を過ぎた女性二人は、政治からすぐにテニスの話題に移り盛り上がっていた。錦織選手をまるで我が子のような口調で語り合っている。彼女らが長生きする理由が分かったような午後だった。
草野章二
平成29年2月25日
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若山教授
ことが思っていたように進まず、精神的に落ち込んで
いました。体調も悪く、このところ腹痛が止まりません。
多分これが最後になるかと思いますが、一応書きました。
お眼鏡に叶ったら掲載お願いします。
草野章二 (2017/2/26)
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