しょうちゃんの繰り言


思考の範囲

現代に生きる我々は多くの問題を抱えている事は承知していても、その問題の根が実は自分にはね返る事を自覚している人はあまり居ないのではないだろうか。食べて美味しいマグロは簡単に獲れる魚ではなかった。獲れても食卓に上るまでには大変な手間が掛かる。だが、科学技術の進歩のお陰で今日では日本の隅々でマグロを食べる事が可能になった。また、鮨の人気は日本以外の国でも鮨愛好者を増やし、その結果マグロは資源の枯渇を恐れ漁獲制限が設けられるようになった。栽培したり、養殖したり出来るものはある程度消費人口が増えても対応は可能だ。一方、養殖・栽培が出来ないもの、或いは困難なものには資源を守る姿勢が当然必要になる。これは他の食料資源にも言える。バランスの崩れた需要と供給はいずれ行き詰まる事を知るべきだろう。

人間が工夫し、不便さを解消させた例や困難なものを手に入れた例は過去数多(あまた)ある。我々はそういった人類の知恵を賞賛し、それを進歩と呼んでいる。私達が子供の頃、自家用車というのは普通の家庭では考えられないことだった。今では田舎に行くと一家に何台もあるのは珍しくない。地方では家族の必需品としての地位を確保し、特に農家では農作業用や出荷用の軽自動車やトラックを含め複数台あるのが当たり前になっている。国民が豊かになったのが一番の要因だが、同時に車が手に入れ易い価格になったのもその背景にある。この法則は全ての分野に通じている。今日、日本の次には多くの発展途上国が我々と同じ様な道筋を辿っている。

テレビ・クーラー・洗濯機といった家庭電気製品、それにパソコン、スマート・フォンといった情報機器もそれぞれの黎明期の価格と比べれば格段に安くなり、かつ性能は格段に向上している。一度利便性の高いものを手に入れると人間はそれを今度は手放せなくなる。今日の日本では、クーラー・水洗洋式トイレを生活する為の絶対条件に挙げる人は多いはずだ。驚くのはこれだけの大変化が短い時間で成されたことだ。そしてその背景には有限な天然資源を侵食した歴史があることも忘れてはいけない。

「霧のロンドン・ブリッジ(1956年)」という歌が高校時代はやっていて、何となくロマンチックな風情を想像していた。だが、現実は石炭燃料による煙が演出した光景だったと後で知る事になる。今で言えば隣国の大気汚染と同じ現象だったが当時は誰も騒がなかった。スモッグという言葉も煙と霧の合成語として出来たという。

利便性を求めての人類の探求は、その成果にはいつも代償が伴われている。進歩や発展が経済と結び付き、その結果の利益という果実の前には代償を払っていても誰も異論を唱えてこなかった。歩いたり泳いだりして目的へ向かった我々の先祖はやがて船や汽車・車という移動手段を生み出した。空はもっぱら鳥たちの独占場だったが、人類はやがて空をも征服した。今では重力圏を飛び出し宇宙にも行く事が出来る。月まで飛べる鳥はいないが、人類は既に到達している。

捉え方によれば、これらの移動手段の進歩は人類の偉大な業績だが、同時に厄介な問題を新たに抱えこんだのも事実だ。大気汚染・騒音・人身事故といった代償である。

18世紀の半ば過ぎ、イギリスで始まった産業革命は労働と資本を効率的に結びつけ、工場での大量生産を可能にしたことが成功の鍵だった。水を利用した動力で機械を動かし、当初織物工業がその最先端のモデルとなった。やがて動力は蒸気機関の発明で水力に取って代わり、工場立地条件の緩和が大幅に成された(水のある場所での必然性が無くなった)。その後の蒸気機関の出現はやがて工場の動力源のみならず船の動力や蒸気機関車への応用がなされ、大量運搬手段にも革命的な変化をもたらした。高出力の動力源が工場での大量生産を容易にし、この方式はその後のあらゆる工業製品加工に応用された。正に近代産業の原型がここで創られたと言っていいだろう。電気がエネルギー源となってからはその発展のスピードは一段と加速された。同時に地球に対する負荷も等比級数的に拡大した。天然資源の枯渇と著しい二酸化炭素排出量の増加である。

木造の帆船による交易・通商が富の源泉だった時代から大きな変化が生まれた。そして今ではものを創るより資本を動かした方がはるかに利益を生む時代となっている。この事実は我々人類が経験している産業革命以来350年程の歴史の流れだが、この流れは経済の原則から見ればもう変える事は出来ないだろう。人類の行動範囲は個人が決める事ではなく、時代を共にした社会が決めている。そこに実は閉塞感が生まれる要素がある。

産業革命の特質は大量生産に着目したところにあると思うが、生産・加工産業として見た場合はこれ以上の効率的モデルは無い。大規模動力装置・労働力・資本といったものが巧みに組み合わされ、大工場に於ける大量生産で利益を上げている。さらに、金儲けなら生産しなくても金融資本でコントロールする方法があり、現在全てのビジネスに於いて金融資本が君臨している。

人が素朴に働き、対価を得た時代は350年程前に終わっている。今の基本的な経済の流れは正に18世紀に革命的変化を遂げたが、それが資本と結び付かなければ上手く機能しないのも特徴だ。従って、個人レヴェルで対抗しようにも方法は無い。腕のいい最高の日本料理の職人も社用族の存在無しには成り立たないだろう。ゴルフも日本では個人の財布でプレイする人は未だに少数派ではなかろうか。現役の頃は常連として通っていた銀座の鮨屋も仕事を引退したら年金でかみさん同伴で年に何度も行ける場所ではない。巨大な仕組みの中で己の役割を果そうとすれば、自ずと結果は知れている。個人の自由な選択は望むべくも無い。

残念な事に、例え組織のトップに君臨していても、所詮巨大な仕組みの中に取り込まれた歯車にしか過ぎない。社会の仕組みが特に生産効率を求めれば今の形に成らざるを得ないし、その中で個人の役割は極めて限定されている。頂点に存在するか、下端で甘んじるかの議論はあっても、人間としての生き方の議論にはなってない。まず組織ありきの前提は変えようがない。それを否定すれば単独でやれる芸術の世界もある。ただ、多くの場合、小規模農家や漁師、若しくは小さな商いしか残っていない。少し才能があればものを書いたり絵を描いたりするのも選択肢だろうが、生活の安定は望めない。それでもその選択をする人は居る。彼らが若しかしたら一番人間らしい生き方をしているのかもしれない。

人は誰でも自由に生きていると思っているだろう。子供には無限の可能性を説くが、現実は巨大な産業構造の中に組み込まれていて、とても個人で対応出来る代物ではない。先人が創り上げたものを否定する気は無いが、そこでの個人の役目は全体の一部でしかない。我々に満足感が生まれにくいのはその為ではないだろうか。日本式の画一的教育も皮肉な見方をすれば役に立っているとも言えるだろう。文句を言わないで従う事がある意味一番の美徳で、考える事を教えるとすぐに不協和音が出てくることになる。

人が生産効率や経済効率だけを目指すと見事に今の世界が出来上がる。強者と弱者、成功者と落ちこぼれという単純な仕分けがなされ、流れに乗らないと住宅ローンさえ金融機関は認めようとしない。人間らしさの追及は何処にも見られず、生きる事の意味さえ放棄しているように見える。

ただ、昔と比べれば生活の平均レヴェルは上がり、冒頭に述べたように日本中でマグロが食べられるようになった。従って、経済的には豊かになった事実は紛れも無いがその事実の裏では多くの負荷を地球環境に掛けている。そして個人は巨大な社会の仕組みの中での一歯車にしか過ぎず、生き方の追求は諦めているように見える。それは専門職においても同じである。全体をみて判断する事は滅多に無く、細分化された役目の中で硬直的に役目を果しているかのように思えて仕様がない。食べられるだけで満足するべきなのだろうかという疑問が常に付き纏う。

大量生産工場のエネルギー源である電気、また、車・船・飛行機の動力源は大部分が化石燃料に頼っている。発展途上国が近代化され、先進国の仲間に入ろうとする時、彼らも先進国と同じ方式で発展するだろう。この図式は明るい地球の未来を示しているのではなく、どう考えてもギリシャ神話の「イカロスの翼」を思い出してしまう。蝋で固められたイカロスの翼は忠告にも関わらず太陽に近づき過ぎたため熔けて海に落ちてしまった。

我々は生きた時代の、社会の仕組みの中でしか普通自分の生活を選択出来ない。政治・経済の仕組みが個人にも大きな影響を与えていて、ソクラテスの時代とは社会環境が全く違う。人の本質は変わらないと思うが、多くの場合周りに多大な影響を受けているのも事実だ。巨大な仕組みの歯車という位置はどんな社会構造でも同じかもしれない。ただ、個人を否定するような組織であってはならない筈だ。たかだか70年程度しか生きてなくても社会の大きな変化は実感出来る。

自分自身と周囲500メーター位の範囲で生きるなら現状への追随で済まされても、もし学んだ人間としての自負があれば「思考の範囲」は少し広げるべきではないだろうか。当然だが“学んだ”とは高学歴や偏差値大学出を意味しているものではない。
 
人は普通出来上がった仕組みの中で生き、そこで確保した自分の位置によって満足度が違うようだ。その基準はあくまで経済の物差しに依る。一流大学と一流会社に若者が殺到するのはそのためだろう。

漱石の「三四郎」に出てくる“熊本より東京は広い。東京より日本は広い。”そして“日本より頭の中が広いでしょう”という表現がある。世のリーダーと自負している人達に僭越ながら是非この漱石の言葉を思い出して貰いたい。特に目先の利益しか追わない金融関係者に人類にとって本当の利益は何かという事を考えて欲しい。
自分と自分の属する企業の利益だけを追求する姿勢が世の閉塞感を生み出している事に早く気が付いて欲しい。これは全ての分野に共通する問題だ。何度も言うが、経済学の理論だけでは社会は安定しない。

社会心理学者や哲学者の出番はとっくに来ている。彼らの方が思考の範囲が経済学者より幾らか広いだろう。

平成26年6月30日

草野章二