しょうちゃんの繰り言


どこの国とは言わないが

石川五右衛門ではないが“世に争いの種は尽きまじ”という至言(?)は、国際間に於いても垣間見える。どこの国とは言わないが、昔の話を持ち出し何度も謝罪を要求し、金も島も取ろうとする国がある。

そもそも戦争が終わり和平条約を結んだ時、戦争時における諸々の問題点を清算したことにするのが国際間の常識らしいが、そうはいかない国々が現実には我が国の周辺に存在する。

私は5歳の時、長崎で爆心地から1,400米の自宅に居て.被爆しているが、私を含めた長崎の被爆者たちは8月9日に原爆を落とした国の国旗を焼いたり大使館、領事館を襲ったりした事は無い。私達は戦争反対・原爆反対というスローガンでデモや平和運動をすることはあるが、原爆を落とした国を口汚く罵り、ハンバーガー店やフライドチキンの店を壊したり商品を略奪したりしたこともかつて無い。多分日本国民がこういったことをやらないのは国の教育に力が入ってないからだろう。彼の国では和平締結40周年にもなるのに反日教育は徹底していて、その成果か10・20代の若者たちが先頭に店舗を荒し、略奪を行っていた。聞くところに拠ると、愛国心に立脚したデモでの少々の破壊行為は「愛国無罪」と言って彼の国では許されているらしい。まして日本の国旗を破り、それを焼いて踏みにじる程度では何のお咎めも無いらしい。

俺の島だと主張はするが国際司法裁判所に出ようともしない国でも日本の国旗は同じ仕打ちを受けていた。

そういった国と戦争や諍いがあった事実を否定するものではないが、敗戦国であるが故にいつまでも相手の言いなりになって事を荒立てないのが真の平和への道だろうか。

明治時代に実業家として成功した郷土の先人で梅屋庄吉という人がいる。彼は中国では革命の父として名を残す孫文と若い頃から親交を結び、生涯革命の為の資金を提供している。孫文は1925年「革命未だ成らず」という言葉を残して肝臓がんのため亡くなったが、その際庄吉は4体の孫文銅像を贈っている。惜しげもなく他人のことに金を浪費する庄吉を見て梅屋夫人が娘名義で貯めていた預金から借り、庄吉は銅像を造ったのだ。

文化大革命の際、紅衛兵からの襲撃を危惧した時の首相周恩来は「大事な日本の友人から贈られた」銅像の保護を指示し破壊から免れた。梅屋庄吉は政治的背景も無く、商売上の利権も無く、ただ純粋に孫文との男の約束を守った。1895年「君は兵を挙げよ。われは財を挙げて支援す」、と初対面の時意気投合して孫文に投げ掛けた言葉を何の見返りも期待せず終生守った。辛亥革命100周年を記念して中国政府から梅屋庄吉夫妻の銅像が昨年贈られ、今長崎に飾られている。無償の行為に対する中国政府からの感謝の印である。

長い間圧制に苦しんでいた中国の国民が、自由と平等を求めて革命を起こしたことに庄吉は賛同し孫文に終生援助を続けたのである。

こういった例があってもやはり彼の国では反日教育をしなければいけないのだろうか。

跳ね上がり者はいずこの国にも居るし、むしろ良識ある人の方が互いに多数を占めていると思いたいが、政権が危なくなる毎に反日を唱え国民の目を逸らすのはそろそろ止めて貰いたいものだ。

賠償も払い、その後も経済的援助を続けている日本にいつでも当然の如くたかるのは見苦しい。彼の国の国民は代表的な国際空港が日本の援助で造られた事実さえ知らないだろう。技術援助の延長で日本経営の生産工場を彼の国に建設し、また商店を全土に展開しているが、彼の国の国民はそこで職を得て生計を立てている例が数多くある。そんな工場や商店に今回は火が点けられた。

一方、無法なコピーはし放題で新幹線さえ自国独自の技術だと声高に主張し諸外国に売り込んでいる。挙句の果てには致命的な人身事故まで起こしている。

我が国が大人の対応をしている間のやりたい放題とも言えよう。これまで毅然と対応してこなかった付けを我々は今払わされている。

領土問題があるのか無いのか一般国民には判断が難しい。それぞれの国の専門家が検証し、もし当事者同士で合意に至らなければ国際司法裁判所に委ねるのが最上の解決法だろう。今まで相手の立場を斟酌し過ぎてきたのが問題の本質を曇らせるもとになっている。

我々は21世紀に生きている。19世紀や20世紀初頭の価値観は現在では通用しないが、当時の出来事は戦争を含め時代の必然があったとも言える。80年、100年前の出来事を蒸し返し糾弾されても当時の人間は誰も居ない。私達の父親、祖父の時代のあったかも知れない過ちを私達やその子供の世代に責任を取れと言っても、どこまでどう取れば日本経営の工場や商店に火を放ち、国旗を燃やすあの人達を納得させられるのだろうか。

隣国同士でありながら未だに反日教育を続け、事ある毎に非難の矢面に立たされる日本は安心して叩ける相手だと彼らが認識しているからだろう。

安心して叩ける立場の理論は子供のいじめにも通用するし、老人・女性を狙った引ったくりにも通用する。商売(ビジネス)をやっている時も似たような現象がしばしば見られることがある。共通点は品が無く下劣なことだ。安心して叩ける立場になったことから近隣の国々は牙を剥き、それを内政のガス抜きに利用している節もある。これは今まで毅然とした態度を取れなかった我が国の指導者達にも充分責任がある。

国の内側にもどこの国の人間か分からないような発言をする政治家も居るし、どこの国の新聞か分からない主張を載せるところもある。国旗も国歌も気に入らない人達が子供を教育し、その際「日本は悪い」と植え付けていたのでは隣国の主張も尤もだという国民に育たないとも限らない。

21世紀に生きる我々が目指すべきは漠然とした過去の亡霊をいつまでも引きずることではなく、問題になっている点の検証を互いに納得いくまでやり、実証出来ないものは毅然として撥ねつける事だ。

過ちがあったら認めよう。しかしそれはその事実に拠って際限も無く日本国が相手に今後も頭を下げ続けることではない。まして根拠の無いこと、国際慣習に無いことまで背負い込むことは無い。このあたりのけじめはどこかで付けないと我々は永久に誇りを失くした民として卑屈な生き方を子孫代々に背負わせる事になる。

ユーゴスラヴィアのチトー大統領は小国の社会主義国でありながら当時のソビエト連邦と是々非々の立場で対等にやりあい、その存在感は世界中が認めていた。民族の誇りと人間の尊厳を守る姿勢が政治・社会体制の違いを超えて評価されていたのである。軍事力の背景が弱い為に卑屈になる理由はない。指導者の素質が問われる所以である。彼の死には世界中の指導者たちが政治的立場を超えて哀悼の意を表している。

目先の辻褄あわせでは物事は解決しない。曖昧な態度が相手を助長させることは個人単位でも嫌と言うほど経験している。弱みに付け込むことも同様に幾らでも経験している。残念ながら国単位でも同じであろう。

父親・祖父の時代に過ちが有ったのなら認めよう。しかしその子供だ、孫だという事実でいつまでも隣国から非難され続ける理由は無い。まして相手に軍事力が背景にあるからといって卑屈になる理由も無い。政治家も新聞を始めとしたマスコミも本当にしっかりして貰いたいものだ。同時に国民も腹を決めて貰いたい。

いわれなき事にはいつも毅然として相手につけ込む隙を与えないことだ。
その相手がどこの国とは言わないが。

平成24年9月

草野章二