しょうちゃんの繰り言
相手の立場で |
もう20年以上も昔のことだったと思うが、さる有名総合病院の院長が身分を明かさないで一患者として他の病院を訪ね、診察を受けた体験を雑誌で語っていた。これは勿論院長が意図して試したことで、彼の真意は病院の患者に対する一般的対応を自分自身でチェックするのが目的だった。身分を明かせばVIP待遇が予期され、彼自身は満足出来ても病院経営の参考にはならない。その結果、当たり前のことだが特別扱いは一切無く、患者の立場から如何に病院が遅れたサービスを当時提供していたか自ら体験出来た。具体的なことは忘れたが、印象に残っているのはその院長の試みだ。反対の立場に立つことで、その院長は患者に対して何をすればいいのかを自分の体験から学び、その後の病院経営に生かしたと述べていた。 前にも触れたが、松下幸之助は「お客さんに誉められたことは忘れていいが、お客さんのクレームは大事にしなさい」と社員に教えている。「お客さんは金を払った上でその製品のモニター役もただでやってくれている」というのが彼の客のクレームに対する対応だった。客のクレームがより良き製品への改善・開発に役に立つことを彼は知っていたからだろう。 この二つの例でも分かる通り、このお二人は特別なことを試みたのではなく、相手の立場で物を見ただけのことだ。言われれば分かることだが、この簡単なことがなかなか出来ないのが人間でもある。 私がこういった事柄に他人(ひと)より敏感になったと思われるのは、私の携わった仕事の種類(性質)によるものと思われる。簡単に説明すれば私の仕事は船の仲介で、英国でこそ確立された専門職だが、日本での仲介業(ブローカ)の社会的地位は残念ながら低かった。全ての顧客と言うつもりはないが、素直にごく普通のことを主張する私に「ブローカが何言うか」とか「出入り禁止」と真顔でよく言われたものだ。日本を代表するような商社の課長に、私には何の非も無かったが、話の途中で電話を切られたことがある。そういえば船会社にも同じことをやられた。原因は私の人間性に問題があった可能性もある。しかし、私達立場の弱いブローカに対して横柄な対応をした彼等も自分の客筋には決してそういった顔は見せないだろう。顧客はブローカを腹の底では決して対等とは考えていなかった。 前にも触れたことがあるが、ある船会社は手数料を基準の半分に値切り、もっとひどい場合は基準の7分の1だった。いずれも他でカバーするとか、会社の状態が良くなったら払うという約束だったが全て反故にされ、その会社は念の入ったことに二度も倒産した。学校を出て以来の付き合いだった別の船会社も、株主会社から来た天下りの社長と役員は私が掘った井戸を取り上げ、挙句の果てには井戸も枯らしてしまい現在は実質倒産状態になっている。この歳になると「ザマ見ろ」とは思わないが、彼等の狭い料簡が倒産という最悪の結果を招き、むしろ哀れに思う。これらの会社に書き出しに出てくるような院長がいれば少なくとも倒産は防げただろう。 私の職業的経験によれば、自分より下位にあると認識すれば安心して上から目線で接するのが日本社会の常識のようだ。幸いにして、それでも理解ある人に恵まれて現役を退いた後でも続いている人間関係があり、それが今や私の財産となっている。 下から物を見る立場が続くと、人間がよく見えることがある。職業には断じて貴賎があり、大手に従う弱小下請けの悲哀は良く理解出来る。「人の振り見て我が振り直せ」という言葉が日本にはあるが、この言葉も痛みを伴って経験しないとなかなか身に付かないものだ。また、人に頭を下げなくて済む職業が時として横柄な人間を創る事例は誰でも体験したことがあるだろう。 日本でのバブル全盛期の頃、証券会社は一般投資家を「ゴミ」と呼び、銀行では住宅ローンを窓口に借りに来るような客は「ドブ」と呼んでいたと物の本に書いてあった。「ゴミあさり」や「ドブさらい」をしなくても当時の金融機関は儲かっていたため、内部では一般の客に対してそういう符牒を付けていたのだと思える。件の院長や松下幸之助の精神はそこには全く見られない。 一方、日本を代表するような証券会社が一流企業や有力政治家に対しては株での損失補填をやっていた事実もその当時明るみに出た。彼等は大事な客には特別なサービスをするという、商売人(こあきんど)としてはごく当たり前のことをやっていただけだが、「ゴミ」と呼ばれた一般国民の感情は許さないだろう。銀行も税金で助けて貰ったのなら、自分達の給料を上げる前に預金金利を上げるべきだ。金の恨みは怖いことから、彼等は金融の社会的使命を常に心がけていないと、いつまでも口の悪い友人から「金貸し」として軽蔑され、社会から信頼を得ることは出来ないだろう。取り敢えず銀行は住宅ローン等個人の借り入れに対する連帯保証人制度は根本から見直すことだ。また、特に銀行は「ドブ」から集めた金も自分達が融資する金の中に含まれているのを知るべきだ。銀行員が自分達の持ち寄った資金だけで銀行を経営しているのであれば、「ドブ」を見限っても誰も文句は言わない。 社会の仕組みは幾ら合理性のある指摘でもすぐには変わらない。特に利権が絡んだり組合が絡んでいたりすれば、変えることは非常に厄介だ。官僚社会の仕組みや天下りに改革の為の合理的な提言をしても、官僚は既得権を簡単には手放さないだろう。官僚や役人を指揮する立場にある国会議員を含めた各種議員も、その政治活動費や所謂公的箱モノ建設に際しては、いつまでも問題(利権)が付き纏う。共産主義を国是とするお隣の国ほどではないが、指導的立場にある人達の品の無い事件はわが国で今でも続いているし、今後も無くならないだろう。 私利・私欲を捨て永続性のある価値判断が出来るのは、学んだ人間の特権だと思っていたが、現実は逆のケースが多いようだ。自分達の利権確保のためなら、彼等はどんな理屈でも付ける。形而上的理念の無い主張は空しく響くが、己の利益の為なら何の躊躇いも無く目をつぶることが出来る。残念ながら学習の効果はどこにも見られない。高等教育が単に資格獲得の為に存在し、本来の役目を果たしていない。もしかしたら、これが利益を前にした人間の本音で限界なのかもしれない。 底の浅いとしか表現の仕様が無い経済理論、経済が全てを支配しているような社会の仕組み、社会的使命を忘れたような大企業等々、社会を動かしている彼等の最終目的が経済的成功にあるとすれば、今のままでもいいのだろう。 厄介なことに、人はパンのみで生きているのではない。小銭を稼いだ連中の品の無い生き方は、時として目に余ることがある。全体を考えず、自分だけの利益を追求する経営者ならアメリカにいくらでも居るし、日本でも小型ながら真似する人間も出て来た。こういった私利私欲の無制限な拡大の上に経済の活性化がある訳ではない。40歳代のインド人に150億円近くの報酬を払うIT企業の経営者も日本に出て来た。連中から見ればこれが「グローバル・スタンダード」と言うのだろうが、何を考えているのか理解に苦しむ。そんな金を払えるのなら、自分の会社で仕切っている携帯電話の料金を安くしろと言いたい。東日本大震災の際、一番繋がりの悪かったのがこの会社の携帯電話だったと言われている。 私は残念ながら何かを専門に学んだことも研究したことも無い。怠惰な学生時代を送り、典型的なその日暮らしのノンポリだった。経済・金融・哲学・政治・歴史・語学と言った分野で何一つ物になったものはない。従って私の拙文は「床屋談義」の枠を一歩も出てないことは自分でも良く承知している。専門的な分野での論争になれば負けることは分かっている。 市井の一老人の戯言と言うのが私の書いたものに対する一番適した評価だろうが、もし私の言い分に幾らかでも理があれば、専門に携わっている人達には考えて欲しい。あなた方が見ようとしなかった反対の立場でいつも物を見る習慣が、この浅学の老人に何かを言わせているという事実を。 何かがおかしいという収まりの悪さに、老人は無学ながら余計なことを言っているのだ。「インド人もびっくり」という耳慣れた言葉があるが、インド人への150億円近い報酬には「日本人もびっくり」という言葉で返したい。この歳では「お好きなように」というのが精一杯で、電話代が高いという非難にも今後この会社は注意しておいた方がいいだろう。 歴史を見ると、時代を動かしていたのは経済力だという事が良く分かる。それでも日本では支配階級であった武士はその価値判断には損得の基準を置いていない。当時哲学と言う日本語は無かったが、彼等は指導者の役目を良く心得ていたし、形而上的価値判断を優先していた。「士農工商」という当時のランクは彼等の精神性の高さゆえに与えられた序列なのだろう。歴史の無いアメリカを見本にする必要はない。経済の優位性で出来た今のアメリカを見ると、とてもお手本にする気にはならないだろう。極論すればあの国は既に人心が荒廃している様に私には見える。富の偏りと格差は社会の安定を壊していることを早く知るべきだ。その風潮が日本にも見えることが気に掛る。 現在日本はそれでも世界の評価は高い。その評価を高めているのは一部の富裕層や指導者のお陰ではない。各分野で拘り続けた人達が成した偉業に対する称賛だ。各種のもの造りやサービスの分野で経済的には恵まれていなくとも自分の仕事を天職として彼等は取り組んできた。金融でのボロ儲けとは全く縁の無い世界だが、実業に勤しむ堅実な世界がそこにはある。人生を支えるのは「遣り甲斐」という個人の満足感ではないだろうか。人様から喜んで貰うという素朴な感性が彼等を支えている。「相手の立場」という基本的な観点を失くしたとこには何も価値あるものは生まれてこない。 品の無いマネーゲームは無視する位の見識を持てば、世の中は幾らか変わるだろう。教育を受け、社会のリーダーの役目を担っている方々に相手の立場に立って考えることを是非実践して貰いたい。いくら過去最高の利益を出しても、一部とはいえ相手の赤字を前提に材料を提供させていたのでは「名古屋の田舎侍」の蔑称はいつまでも付き纏うだろう。 相手が無ければ自分も無い事実を一度よく考えてみよう。 いつもの老人の戯言になった。 平成27年8月6日
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