しょうちゃんの繰り言


予期せぬ出来事
(人も歩けば)

人の人生では思いがけない時に、思いがけないことが起きるものだ。順調だと思っていた大手の会社が突然倒産し、困った友人も居た。私の場合でも、貢献度から考えれば当然守られるべき商権もあっさり取り上げられた。井戸を掘った人のことを忘れないのはどうも昔あった風習で、現在は流行らないらしい。自然災害は予期せぬ時突然人間を襲い、不条理にも個人の生活を破壊してしまう。家財のみならず、家族を亡くした例さえ出てくることがある。幸い私の場合家族は亡くさなくて済んだが、人為的不条理としか思えない理由で経済的基盤は失くしてしまった。

そんな時期に書き溜めたエッセーの出版話が持ち上がり、無謀にも後先を考えず挑戦した。

自費で本を出版するという人間の判断には、他人から見れば常に自己顕示欲という著者の姿が見え隠れすることだろう。内容の如何に関わらず付き合わされる知人・友人からみれば、浮世の義理として何がしかの書籍代かお祝い金を出すことになる。無料で進呈した場合でも、興味を持って読んで貰える数は当人が思うほどには居ないかもしれない。まして、自分の周囲300メーター程度の出来事を書いても当人が思うほど他人は関心を示さないだろう。本音で言えば、はた迷惑なことが多いと思われる。これが素人作家の自費出版に対する一般的な世間の反応ではなかろうか。だから、顰蹙を買わないためには自費で出版した場合は知人には無料で配るのが正解だ。私の経験から言えば、間違っても私のような貧乏人が手を出すことではないと今では思っている。

そういうことが少しは分かっていたつもりで、昨年(2014年)5月「ミネルヴァのフクロウ」という題のエッセー集を長崎新聞社の協力で自費出版した。有難いことに、「良かった」という反応も多く寄せられたが、黙っている人達は別の感想を持っていることと思われる。そういった、購読してくれたサイレント・マジョリティーの知人には、改めて「迷惑掛けてすみませんでした」と謝るしかない。

また、物には必ず両面があり、浅はかな判断から始まった暴挙から色々と新しい発見や人間社会の繋がりの面白さを知ることにもなった。
「犬も歩けば、棒に当たる」という言葉がいろはカルタにあるが、「出版すれば、人に当たる」ことが今度の出版で実感させられた。そして、「事実は小説より奇なり」を体験することにもなった。

長い間音信不通だった人達との再会(主に電話での会話だったが)では高校・大学は言うに及ばず、小学・中学時代の仲間の懐かしい声を感慨深く聞くことも出来た。互いに古稀を過ぎた歳ではあるが、特に女性で学生時代の面影しか残ってない人は当時の若さの儘で甦ってくる。卒業後、数十年という年月をそれぞれに歩みなながら、互いに思い出話に浸る時には春秋に富んだ時代のレモンの味も残っていた。正に老境における至福の時だろう。

自費出版に対して、自己顕示欲・自己満足という批判はあっても、一歩踏み出した以上めげてばかりでは何にもならない。投げた石の波紋は私にとって悪いことばかりではなかった。

故郷長崎の県庁通りで「ぶどうの樹」という喫茶店の、聡明で魅力的な女性経営者大野圭子さんが私の本を店に置いてくれていたが、飛び込みで来たお客さんがすぐに本を買ってくれ、その方との新しい人間関係が出版を契機に始まった。私の本をいたく気に入ってくれた方は母校長崎西高の7年先輩である事が分かり、その後物心ともに大変お世話になった。私の英文蔵書(革張りの世界名作100選の内55作品)を買って高校に寄付して頂き、学校でも大変喜んで貰った。他にも彼から個人的に援助して貰ったし、さらなる出版のスポンサーの申し出も受けた。

又、たまたま彼の主治医が、学生時代東京に出た私の部屋に下宿した長崎大学の医学生だったことも偶然分かり、その持永という医師とも約50年振りの電話での再会となった。生きているとこういった僥倖があるものだといたく実感し、人の不思議な縁を噛みしめることになった。人は働きかければ、どこかで繋がりを持っているものだということも確信した。

渡辺秀久さんというその先輩は残念ながら最近脳梗塞を発症されたが、いま元気でリハビリに励んでおられ、電話での話し声からは病気を感じさせるものは今や何にも無い。現在握力も強いということから素人判断ながら回復は早いものと思っている。私の父や私自身も握力の回復は脳梗塞発症後極めて早い時間で見られた。私の友人にも同じ現象が見られ、彼の場合も私達親子同様大した後遺症が無く社会復帰出来た。

渡辺さんは奥様が養護ホームに入居されていて実質独り住まいだったが、脳梗塞を発症した時不自由になった身体で使い慣れないスマートフォンが偶然繋いだのは遠方(佐世保在住)の友人だったらしい。要領を得ない不明瞭な電話だったが、それが結果として連想ゲームみたいな働きで最後に電話連絡を受けた旧知の女性が気を利かして渡辺さんの実家を訪ね、そこで倒れていた彼を発見した。倒れてから、それでも数時間は経っていたらしい。一人でも連想ゲームの輪が切れていたら、彼の生還は或いは叶わなかったかもしれない。日頃培った渡辺さんの人の輪の力が大いに役立った良い例だろう。彼を心配している人達の気遣いと協力が見事に結集した結果だとしか思えない。

渡辺さんの窮地を救ったのは深堀さんという80代の女性とその娘さんで、渡辺さんから「貴女達は私の命の恩人だ」と感謝されたという。命の恩人だと人から感謝される人生は滅多にあるものではない。互いの絆の深さが為し得た事だろう。そんな渡辺さんの早い回復を、私も彼の仲間の皆さんと同じように心から願っている。

経済的に余裕が無い時にも関わらず、無謀にも出版に踏み切った私に多くの方が協力してくれたのは何と言って感謝していいのか分からない。皮肉な見方をすればこれも勝手に出して勝手に感謝している典型的な自己満足だということになるのだろう。そういった批判を含め、やはり犬は歩いたから棒に当たり、本を出版したから人に当たったと思っている。この際、少々の批判は是としなければなるまい。動かなければ、何にも起きてなかった。

ただ、有難かったのは「何冊でも良いよ」と快く売り捌くことを引き受けてくれた友人が何人も居たことだ。中には献身的に協力してくれた仲間も居た。生きている喜びを感じられるのはこういった時だろう。特に経済的に余裕が無い時の人の助けは身にしみるものだ。

人は生きていて自分の意志ではどうにもならないことが時として起きることがある。特に経済に関する不慮の出来事は人生の設計さえ狂わせることにもなる。結果として身内や友人達に迷惑を掛けることになるが、これもすべて自分が招いたことだと達観するしかない。借りは必ず返すという気概さえ忘れなければ生きる意欲は出てくる。不義理している人には「ちゃんと落とし前は付けるから待っていてくれ」と今は言うしかない。

生活基盤の激変で家賃の安い長崎を老後の生活の場と決めていたが、「東京に残れ」という友人の勧めに従い急遽立川に引っ越してきた。特に家内の友人の声は無視出来なかった。東京都住宅供給公社の建物で、築50年を過ぎた団地だ。家賃の安さと環境は申し分ない。少々の使い勝手の悪さは文句言う立場にない。

若い時と違い、老境の身では流れに身を任せるしかないことが多い。少々のことでは驚かない鈍感さも自然と身についていて、フラストレーションは殆ど感じない。実質仕事を離れて3年近く経ち、収入は無くなったにも関わらず不思議なことに精神状態は今の方が良いように思える。本当は、精神が純化されているような錯覚に陥っているだけなのかもしれない。

富にも、名誉にも、恋にも縁が無くなった時、人間は或いは純粋になれるのだろう。若しくはこれも究極の負け惜しみかもしれない。

人は何を求めて生き、何を残そうとしているのだろうか。子供が三人出来たが、一般的な国民としての義務は果たしたと思っている。彼等が社会にどういう貢献出来るかは私の判断することではなさそうだ。墓は長崎にあり、今から買い求める必要もない。(その金も無いが)
友人の「俺の生き方が財産だ」と言い切れるほどの自負は無いが、少なくとも彼の気持ちは良く分かるようになった。

人生を総括するにはまだ早いと思っても、残り時間が少なくなっていることには間違いない。いつか来る運命の時を思いながら、身辺の整理をするのも先の短い老人の役目だろう。
「虎は死んでも皮を残す」という表現があるが、虎の皮は人間世界で珍重される故の言葉だろう。翻って自分のことを考えれば、私の皮なぞ欲しがる人は身内にも居ない。つまり人(遺族)が期待しているのは、何がしかの経済的価値を持った遺産だ。自分の身内のみを対象に遺産を考えるから限られた結論しか出てこない。

人の営みは他との繋がりの中でしか機能しないことを考えてみれば、残す物の無い高齢者はもっと精神的なものの中に意義を見出すしかない。我々の本来の役目は生きていく中で何が大事かを次の世代に伝えることではなかろうか。

脳梗塞で倒れられた渡辺さんを救ったのは、正に彼が培った人の輪の力だった。知人といえど、他人には違いない。何人の高齢者が同じ様な人の連携で救われるだろうか。常日頃の生き方に今回の結果が結びついていると思える。

高齢とは有難いことに物欲からの解放を容易にしてくれるようだ。欲しがらなければ何の不自由もない。むしろ無いことの強みさえ感じることが出来る。人が己の利益のみを追求していたのでは、精神的に満足出来るものが残る筈がない。

他人の評価はともかく、何も欲しがらなくてすむ解放感が今の私にはかけがえのないものとなっている。こんなことを考えるのも今回の出版が契機になっている。

西郷隆盛が言えば至言になるが、何も無い者が言えば同じことでも負け惜しみに聞こえるだろう。その通りだが、「人に当たった」から出た言葉には間違いない。

平成27年7月8日

草野章二