しょうちゃんの繰り言


梅屋庄吉から学ぶもの

「梅屋庄吉記念館設立への提案」という拙文を長崎活性化のため平成23年8月(2011年)に書いたが、以下はその提案を基にして書き足したものである。従って、当時の時系列で記載されている箇所があることを承知して頂きたい。

梅屋庄吉とは?

梅屋庄吉は1868年(明治元年)長崎で生を受け、すぐに親戚の梅屋家の養子となっている。その当時、梅屋家は長崎市西浜町で貿易業と精米所を営んでいた。その後の梅屋庄吉の成長・活躍については曾孫の小坂文乃さんが2009年に上梓した「革命をプロデュースした日本人」(講談社)に詳しく述べられている。(この本からも幾つか引用させて頂いた事実をここに明示しておきたい。)

孫文との出会いは1895年、孫文29歳、庄吉27歳の時だった。香港で実業家の道を歩み始めていた庄吉は、中国の近代化を熱く語る革命家孫文に初対面で意気投合し、彼に対し「君は兵を挙げたまえ。我は財を挙げて支援す」と、その決意を述べている。この言葉は孫文が死ぬまで守られ、二人の友情も終生続いた。その間に庄吉がつぎ込んだ革命への援助資金は現在の貨幣価値に直すと一兆円とも二兆円とも言われている。

民主化への革命運動を指導して、2000年からの歴史を持つ専制君主制(当時は清朝)を打倒し、中国近代化への基礎作りを成功に導いた孫文は後に「革命の父」と呼ばれることになる。庄吉と出会った1895年が正に辛亥革命への決起の年と成り、1911年に革命は一応成し遂げられる。

今年2011年は辛亥革命100周年の記念の年にあたるが、これだけの貢献に関わらず梅屋庄吉の名前は殆ど世間に知られていなかった。それには理由があって、庄吉自身が「ワレ中国革命ニ関シテ成セルハ 孫文トノ盟約ニテ成セルナリ。コレニ関スル日記、手紙ナド一切口外シテハナラズ」と書き残していたからだ。

庄吉は生きている時に資財の殆どを、孫文を始めとして人のために惜しげもなく遣い、晩年、孫文逝去の際、自分の娘のために夫人の配慮で別に残してあった預金から借りて孫文の銅像を4体作り中国に寄贈している。文化大革命で紅衛兵が暴れまわっていた頃、時の首相周恩来がその4体の銅像が破壊されることを危惧し、「その銅像は日本の大切な友人である梅屋庄吉から贈られたもの。決して壊してはならない」と指示し匿っている。2010年上海万博の折、日本館の中に「孫文と梅屋庄吉資料展」のコーナーが用意され、先述の小坂文乃さんが庄吉に関する資料の数々を自身で解説されていた。個人のコーナーを万博の時に設けるということは、如何に中国が梅屋庄吉に未だに敬意を払っているか推測出来よう。それ以前、2008年には国家主席・胡錦涛が来日した際、日比谷の松本楼に特別展示された「孫文と梅屋資料室」を訪ねている。

長崎出身のこれだけ偉大な人物を我々はあまりにも知らな過ぎた。今からでも梅屋庄吉の業績を良く理解し、彼が残した足跡を長崎市民は元より日本国民が知るべきであろう。ちなみに、現在、東京国立博物館で特別展「孫文と梅屋庄吉」(100年前の中国と日本)を開催している。(期間:2011年7月26日〜9月4日。長崎県と長崎大学付属図書館が展示会の特別協力者として名を連ねている)

梅屋庄吉が残したもの

東京国立博物館で現在開催されている特別展「孫文と梅屋庄吉」は長崎でも今年10月に開催されると聞いている。孫文と庄吉の関係で特筆すべき点は、庄吉が決して見返りを求めなかったことであろう。日本映画産業の黎明期に莫大な利益を得た庄吉は、実業家として時代を見る先見性と、その事業展開に対する類稀な手腕を兼ね備えていた。そんな彼が一国の革命が成功した時の国家規模の利権が、どれだけのものであるか気が付かない筈がない。それでも彼は孫文を援助するだけで何も求めていない。

歴史上、現在も含め成功した政商と言われる人達を我々は数多く知っているが、庄吉の姿勢は彼らと一線を画している。言ってみれば無償の行為であり、孫文に対価を求めることはなかった。時を経てもその輝きが曇らないのは庄吉の精神性の高さにある。日本の国民のみならず、中国の国民にも今でも受け入れられるのは正にこの点であろう。国家間の歴史には当然波もあり風も吹くが、この二人の人間としての絆は永遠に壊れることはない。目先の個人的、国家的利益に拘る時、我々が思い出さねばならないのはこの庄吉の生き方ではないだろうか。

長崎に生まれ育った我々には幸いにも範とすべき梅屋庄吉という先人が居た。これからの日本と中国を考える時、両国民とも孫文と梅屋庄吉を常に頭に置いておくべきだろう。過去のどんな政治家よりも庄吉は偉大な足跡を両国の間に遺してくれている。人間として理解し合い、互いに尊敬の気持ちを持つことが、強い絆を築いてくれることに日本も中国も留意すべきであろう。

時代が変わったとは言え、普遍的な価値を持つものは存在し得る。正に現代の我々が無くしたものを庄吉は我々に示してくれている。損得でしか動かない、損得でしか判断しない今の我々に庄吉は警告を与えてくれているのかもしれない。「もっと大事なものが君の人生にはあるだろう」と教えてくれているような気がする。

父親が残した幾らかの財産を子供たちが奪い合う争いは、身近にいくらでも見ることがある。残した財産や事業の規模さえ違え、金や権力を巡る争いに敏感になるのが人間の性とも言える。それを越えられるのは志の高さしかない。

我々長崎の人間はかくも偉大な先人を持ったことを誇りに思うと同時に、その意志を継ぐことに少しは努力すべきであろう。生きている間に信頼出来る友を持つことは生きている喜びに成り得るし、金銭に代えられない宝を持つことになる。そういった考えが少しでも我々に浸透すればもう少しまともな社会を築けるのではないだろうか。

現代に生きる我々の永遠のテーマへの答えを庄吉は与えてくれている。それは同時に中国にも言えよう。時代・政治形態・イデオロギーを越えて光を失わないものが確実に存在し、今でも色褪せてない。両国民がそれに気付いた時、両国はもっと別の道を選ぶ可能性がある。

梅屋庄吉記念館の設立

我々はともすれば経済的尺度で物を測りがちだが、それが全てではない。国の盛衰も時代によって変わり、それを評価する視点さえ国力、つまり経済力を基準にした総合力で判断される。人が、或いは国が存続する限りこの基準を無視することは出来ない。発展は個人の欲望の充足が前提にあり、この原則は国単位でも同じである。しかし、無節操な個人・国家の欲望の充足は必ず軋轢を生み、最終的には国家間の争いにまで発展する。もし互いに人間的な信頼関係があれば、個人間でも国家間でも何らかの解決の方法を見出すことが、若しかしたら可能になるかもしれない。

教育が、与えたことの再現能力だけを目的とし、歴史教育が、断片的な知識の習得だけを目的とすれば、予定調和に慣れた凡庸な秀才を創れても、確とした信念の元に新たなものへの挑戦を試みる若者を生み出すことは出来ない。今の日本の閉塞感は正にそこに原因があるように思える。我々が辻褄合わせだけで人生を終わるとすれば、誠にもったいないと思わずにはいられない。ものの本質やあるべき姿への知的探求は、受験のための塾や補習授業ではなかなか習得出来ない。歴史に学ぶという事は、枝葉末節の出来事を含めて過去の事実を多く諳んじる事ではなく、人間の為した判断や犯した間違いから今後のための教訓を得ることではないだろうか。

感謝される友人を持つことや、感謝される隣国を持つことの大事さは目先の利益より遥かに大きな利益をもたらすことが出来る。経済成長著しい中国から今後日本にも数多くの旅行者が尋ねて来る事だろう。彼らに梅屋庄吉を知って貰うのは単なる観光の対象としてではなく、両国の今後のあり方を共に考える上で非常に重要かつ意味ある事だと思う。

戦争を体験している世代の我々が、この程度の社会や国しか創れなかったという贖罪の意味を込めて、梅屋庄吉記念館の設立を市民・県民の皆様に理解して頂くと同時に強く行政に進言する。この記念館は単に観光の目玉としてではなく、今後の日本・中国の進む道を示唆してくれるモニュメントとなるだろう。それと同時に人間が生きることの意味と価値を私達に示してくれることにもなるだろう。

(なお、中国政府は2011年に辛亥革命100周年を祈念して長崎市に梅屋庄吉夫妻の像を寄付している。)

今、我々がやれること

以上のような提案を平成23年にしたが、これは単に日本の一地方の活性化に終わらせるには惜しい気がする。政治判断は時の政権によって、どの国でも自国の都合のいいように歪曲される可能性があり、事実そういう例は多く見てきている。個人間でも相手に対し見境なく攻撃を加えた時、その正当性は別として最後に残るのは憎しみしかない。原因が二代も三代も前の世代にあるのなら、その事実関係と是非の判断は安倍首相が言うように歴史家にまかせ、我々がやるべきは今後の有意義かつ友好な関係の構築ではないだろうか。

上に述べたように、100年以上前に梅屋庄吉という人物が孫文という革命家と意気投合し、利害の絡まない人間関係を築いた立派な先例が残っている。時代が変わっても人間の感性に大きな変化がある訳ではない。また、1895年日本の統治下に置かれた台湾に八田與一という日本人・土木技師が派遣され、農業強化政策のため当時東洋一と言われたダムをそこで建設している。不毛だった台湾・嘉南平野への灌漑を可能にし、農作物を育てる為の大改造事業だった。彼の国では彼の名は教科書にも台湾の恩人として載っていて、誰でも知っている日本人だという。

その国と国民の為尽力した日本人はこの二人だけではないだろう。だが、戦後教育を受けた私達はこの二人のエピソードさえ知らなかったし、誰も積極的に教えようとはしなかった。アジア諸国が日本に対してどういう考えを持っているか、今一度落ち着いて学び、考えてみる時ではないだろうか。立派な先例があることに我々は気が付くだろう。自分達の正当性を語る為ではなく、負の遺産も直視する姿勢で臨めば近隣諸国も理解を示してくれるかもしれない。

この二人の足跡を見る限り私の欲目か、父や祖父たちが悪いことばかりやっていたとはどうしても思えない。真実を知って誇りを持つことは決して近隣を侮辱することにはならないだろう。残り少なくなった私達世代が孫子のためにやれる、せめてもの役目ではないだろうか。

幸いにして年金生活者は学ぼうと思えば時間は幾らでもある。

平成23年8月
平成26年1月加筆

草野章二