しょうちゃんの繰り言


時の流れ
(そして残るもの)

 時の流れに係わらず長く人の記憶に残り、存在し続けるものがある。富士山は今の姿で日本人に親しんで何年経つのだろう。人工のものではエジプトのピラミッドは過去何人の人の目を驚かせたことだろう。自然の物であれ、人工物であれ、存在感があって目に付き易いものは永く多くの人の記憶に刻まれる。一方、子供の頃の記憶にはそれ自体に大した価値が無くても残るものもある。戦前、生まれ育った家の近くにあった鳥居の傍の大きな石は、表面がなだらかで幼い子供達は滑り台にして遊んでいた。終戦後別の住所に越し、しばらくの時間が経った後(数年単位)偶然通りかかって見た幼い頃大きかった石は、とても小学生高学年が滑り台に使えるような大きさではなかった。同じ様に、昔子供の頃住んでいた街の道幅は驚くほど狭かった事実を大人になって知らされることがある。

 原爆被災後、疎開でしばらく住んだ田舎の村は、10年程前に60年振りで訪れた時には見渡す限りの畑は無くなり、小奇麗な洒落た住宅で埋め尽くされていた。自分達が住んでいた方向は駅と鉄道の位置から推測出来たが、昔の面影は全く消えていて、かつて住んだ家がどこに在ったのかさえ特定出来なかった。私はそこを訪れた日から遡る事60年前には確かに家族と住んでいた。家の横を流れる小川の水に炊飯・洗面は頼り、近所で親しくしていた農家には小さな水車小屋まであった。その農家では薩摩芋で飴を作って貰った記憶もある。当時その村で水道を見た覚えはない。そして近所の住人はその農家だけだった。

 道に沿って流れるせせらぎには山からの清水(せいすい)が流れていて、それは汚れた生活用水用の溝ではなかった。そこに生息する背中が真っ黒なイモリは子供には不気味に思え、対照的に真赤な腹が子供の無慈悲な攻撃心を刺激した。竹の先を尖らせ、田舎の子供がイモリを突き刺すのを見て、何の躊躇も無く同じ事を怖がりながらもやっていた幼い自分が60年前にはそこに居た。蓮華草で覆われた田圃は、子供の身長から見ると一面花の絨毯のように思え、その花の上に寝ると気持ちがいいだろうと夢想していた。田圃で捕れるタニシは食用になったし、雨が降れば溢れた小川から泥鰌が家の前の冠水した小道に流れて来る事もあった。駅までの道路も含め、道はどこも舗装されてなかった。

 これらの記憶は終戦後の、まだ小学校に入学する丁度1年位前の事だ。かつての、のんびりした田畑や山並みは宅地開発で風景が変わり、60年という歳月は場所によっては人を浦島太郎にしてしまうことが実感された。その村は今では市内から車で走れば20分くらいで行ける典型的な住宅地に変貌している。

 各人、それぞれの自分史の中に幼き日の思い出が残っている事だろう。歳を取れば思い出す事全てが懐かしい。昔ながらに残っているものがあれば、すぐにその時代に戻る事が出来る。それと同時に流れ去った歳月はその思い出の場所に想像も出来ない変化をもたらしている事もある。また、よしんば建物を含め昔の面影が偲ばれても、私達が吸った空気は今では存在しない。数十年振りで訪れた故郷の小学校は、偶然か放課後の校庭には子供の姿は見えず閑散としていたし、路地でも子供の遊ぶ姿を見る事はなかった。半世紀以上の月日の流れは、故郷にも大きな変化をもたらしていて、昔ながらに残っていた店には、当然ながらいつも居た人の良さそうなおじさんの姿は見えず、跡取りと思われる子息が忙しく働いていた。時代と共に人が変われば周りの空気が変わるのも当たり前で、昔を偲べるものは個人的な記憶の中か、旧友との語らいの中にしか存在してなかった。

 残った建物・逞しく育った木・時の経過を感じさせない墓石等々、個人の思いはそれぞれに残っていても、共有出来る相手は居ない。時の経過は残酷にも老いた身を孤独にする。

それでも思い出に拘る何かが人の心にはありそうだ。

 若い頃、身の回りの必要な事に動かされ、その中で見付け出した人生への挑戦は、考えてみればより良い安泰な生活への準備とそれを得た後の守りだった。恙無くやり終えても充実感を感じないのは、自分でなければ出来なかったものが何も無かったせいだろう。

英語に“Indispensable”という言葉があるが、この場合”かけがえの無い・余人をもって代えがたい“と訳すれば分かり易い。どんな偉大な存在の人でも、前回ブラウニングの詩で述べたように、その存在が消滅しても“全て世は事もなし”と神や自然からは見られている。だから人の選択や生き方はどうでもいいという短絡した考えではなく、だから自分が納得する生き方を選ぼうと本来は解釈するべきだろう。

 差しさわりがあると思うが、人を常に疑わなければならない職業に携わる人はある意味人間社会に必要だとしても不運である。それが分かっていても中には素敵に生きた人も居る。現役時代、警察で麻薬の取り締まり専門に従事していた知人は、引退後故郷で幼稚園の園長を務め、毎日が子供相手で充実している旨の感想を述べていた。

 我々普通の人間には、人は信じたいし誰にも親切に振る舞いたい願望はある。だが現実は人の「親切という弱み」は他人から利用される事が多いのも事実なのだ。権利意識が高まると些細なことにも法律の無機質な約束事が支配するようになる。古の中国で君子間の最高の契約は口約束とされた文化は本家にも我が国にも今は残っていない。約束したことは書いたもので残しておかないと反故にされても反論の仕様がない。

 紛争になった時、判断する立場の人間も人の言っている事の真実を見極められないから今の裁判制度のルールに従って決着を付けるしか方法はない。人は自分の利益の為に嘘をつくし、その利益の為に他人を裏切る事もある。国際間の争いでは、その裁判さえも否定する国もある。

 善意だけで生きられると思っていた子供時代は人を疑う事はあまりしなかった。子供の世界はそれで済んでも、やがて自分を含めた人間の持つ薄汚さに嫌応でも直面し、子供時代の単純な規律を修正する時がくる。皮肉な見方をすれば、それを我々は大人になったと言っているのだろうが、例え実社会で大成しても、そして法律に違反していなくても受け入れたくない人達は幾らでもいる。社員を安い給料で働かせていて自分だけは格段の報酬を取ったり、豪邸を建てたりする経営者や創業者などその典型的な例だ。

 子供の頃が懐かしいのは、大人の知恵を学ぶ前の無垢な自分が懐かしいのだろう。純粋な好奇の目は何事にも興味を示し、損得の感情抜きに毎日を過ごしていた。あの日には絶対戻れない自分が居る事に気が付かないで、ただ昔を懐かしんでいるだけかもしれない。もし子供の頃から“オレオレ詐欺”や万引きの常習だったら、やはり子供の頃のそんな自分を懐かしむだろうか。大人の悪知恵を学ぶ前のひと時は、神が与えた永遠に残る安息の日々なのかもしれない。そういった時に見たものや経験したものは、友達との交遊を含め人生の宝物としていつまでも残るのだろう。

 郷愁は、或いは本格的な悪党にもなれなかった中途半端な人間の懺悔の気持ちかもしれない。あの頃の自分なら受け入れて貰えるだろうという心理がどこかで働いているようだ。これは私の感想なので、等しく他の人に当てはまるとは思っていない。

 この歳で考えれば、もっと大事にすれば良かったと思う事が沢山ある。配慮が足りなかったのは自分に余裕が無かったせいだろう。他人の自分に対する理不尽な対応には、今更拘りたくないが、凡人の浅ましさで時として怒りと共に思い出す事もある。ただ、今騒いでも修正出来ない事であれば黙って受け入れているのが現状だ。言い訳も弁解もせず泰然と晩年を送る度量は私には無いが、この歳でも憧れる生き方だ。

 経済活動という人としての営みを通じて分かった事は、利益が絡むとその人の本性が丸見えになる事実だ。行儀のいい人ばかりではなかった。学歴や会社の社会的格付けも人物を保証するものではなかった。それでもぶれないで毅然として対応した人も居た。数は少なくてもこういう人が組織の中核になるのだと納得する事もあった。

 だが、残念な事に最近では相応しくない人間が相応しくない立場で育んだ伝統や文化を壊しているのも事実だ。背景にあるのは「資本関係での支配」という馬鹿げた底の浅い単純な掟だ。こんな環境で人がまともに働き続ける筈がない。日本人の感性に馴染まないものは受け入れる必要はない。よしんば目先の辻褄を合せ、利益が上がったとしても、永続性のある理念が中核に無ければ働く者の人心が纏まる筈はない。経営上多少の困難はあっても、一億総中流という意識を国民が取り戻せれば、この国の未来は明るくなるだろう。誰しも惨めなだけの過去を懐かしむ事はない。

 幸いにして私達の子供時代にはグローバル・スタンダードという基準は日本には無かった。文房具店のおじさんは成績が優秀だとノート-や鉛筆を御褒美だと言って無料(ただ)で子供達に呉れていた。戦後の貧乏な時代にはノートも鉛筆も子供にとっては貴重品だった。田舎の小さな町でも本屋は何軒かあった。今では渋谷に住んでいても本屋も文房具店も大規模にはなったが数は極めて少なくなり、一寸歩いて行けるとこには両方とも無くなっている。

 我が故郷でも街角から遊ぶ子供の姿が消え、小学校の校庭には放課後には生徒を見る事が無かった。今の子供達にはどんな故郷の思い出が残るのだろうか。

 インターネットには馬鹿げた所業を得意げに載せる若者が後を絶たないが、もう少し知性の陰りでも彼らにも見たいものだ。単なる悪ふざけは未熟な本人の自己満足で、成人式に騒ぐ幼稚な振る舞いと同じだ。論評の価値も無い。

 若き日の思い出は、老境に達してからのいいアルバムになる。次世代の子供達が豊かな夢を持って過ごせる社会を私達は用意してあげなければならない。父や母が私達にやってくれた事を引き継ぐだけだ。昔は良かったと思うのは必ずしも孤独な老人の独りよがりではなく、本当に良かった事を分かって欲しい。子供には近くに文房具店も本屋も必要なのだ。そして子供同士遊ぶ広場や路地はそれ以上必要なのだ。

 このままでは子供達にいい思い出も作ってあげられそうにない。

古稀の取り越し苦労であればいいが。


平成27年1月22日

草野章二