しょうちゃんの繰り言


組織論についての雑感

組織論を検証する時その国の持つ伝統・習慣・風習を無視することは出来ません。また、構成員全員が納得する組織はあり得ませんし、構成員の数だけ意見があると思った方がいいでしょう。集合体である組織は個人を疎外する性質を持ち、従って本来組織と個人はその規模が大きくなるほど対立するものです。それでも個人との折り合いを如何に上手く付けるかが、その組織を活性化する大きな要因となります。目的達成の為その組織を効率よく運用しようと試みるのは当然のことで、国もその例外ではありませんが、この原則はどこでも通用します。

知恵・知識・判断力を持った人間がそれぞれの分野のリーダーになり、リーダーの中から選ばれた最も適性のある人間がその組織のトップで采配を振るのが自然で、多くの組織体は建前上そうなっています。政治の世界でも同様のことが言えるでしょう。

日本では古くから系統だったものとして武家社会の組織がありましたが、当然そこの求心力は藩主であり彼に忠誠を誓うことが自分の生きる手段でもありました。「君は君足らずとも臣は臣たれ」という言葉に残された心構えは、その組織に生きる人間の立場を良く表しています。君主の権威と世襲がその組織体の根幹をなし、組織構成員には絶対的服従と忠誠心が求められました。また、基本的には武士は商売には手を出しませんでした。つまり、事の良し悪しは別として、武士の判断には損する、儲かるという基準は無かったのです。イギリスの貴族・日本の武家社会は精神性の高い形而上的な価値で自己規制をしていました。そこに我々は現代でも普遍的な価値を認めざるを得ません。

近代的な組織は明治維新時に西洋の軍隊組織を導入した頃から始まります。戦うという目的を持った組織の中では下部構成員の個人の判断は極論すれば許されません。上意下達は徹底していて、上官への口答えや反抗は許されません。同じような組織に警察や、運動部も入るでしょう。もしかしたら、ワンマン会社にもそんな組織が残っているかもしれません。

現在でも軍隊に入隊するとまず徹底的に行進の訓練が行われます。すべて時間単位で管理され、ひたすら上司の命令に従うことを叩き込まれます。序列が全ての組織ですが、命懸けで戦う組織には必要な訓練とも言えます。私を主張していたのでは機能しないことが分かっているので、反射的に上司の命令に従う訓練を行っているのです。国を守るという崇高な目的があるため許された方法なのでしょう。

一方、民間ではほとんどの組織が経済活動を目的としています。そこでは簡単に言えば儲かるかどうかが一番重要な判断基準で、より分かり易いとも言えます。また、それ故に色々な問題の根が存在することも事実です

物を作るのか・組み立てるのか・運ぶのか・サービスを提供するのか・仲介するのか・資金を調達するのか・等々それぞれの役目の違いはありますが、共通の目的は利潤の獲得です。利潤獲得のために、あらゆる部署で経済効率を上げる努力がなされ組織の強化を目指しています。武家社会との一番の違いは、その組織に参加するかどうかはあくまで個人の判断で選択し、絶対的服従や忠誠心は基本的に求められていません。個人にとって不都合な場合は「一身上の都合」で組織からの離脱も自由に選択出来ます。

ヒットラーという怪物を国民の民主的投票で創り上げたドイツでは、その教訓として第二次大戦後、国のトップを直接選挙で選ばない仕組みにしました。これも組織のあり方に対する一つの見識です。

組織のリーダー
(リーダーの資質)

日本の軍隊組織で特筆すべきは、幹部を養成し少数のエリートにその運営を任せようとした時、士官候補をペーパーテストのみで選別しました。しかしその方法では必ずしも望む人材は得られませんでした。第二次大戦の推移と結果を見れば明らかですが、指導的立場に居た軍出身の秀才達は数々の過ちを犯しています。戦争はあらゆる選択肢の中で不可避なものだったのかどうか。原爆を二個も落とされるまで戦争終結の方法は無かったのか。こういった疑問は誰しも思うものですが、一般国民と違い圧倒的情報量を持った軍及び政府の上層部にはそれでも的確な判断が出来ませんでした。はっきり言って極めて無能な判断をした訳です。さらに前線の士官の中には敗戦を予期して現地の部下を見捨て、敵前逃亡に等しい行為に出た者さえ居ました。つまり敗戦直前、我先にと帰国した事実が生き残った兵隊の証言で数多く出されています。士官が名を惜しむ武士(もののふ)の集団であれば、誰一人としてこういった卑劣な真似はしなかったでしょう。ここにペーパーテスト秀才達のリーダーとしての資質に限界が見られます。自己犠牲を払わないリーダーが評価を受ける筈がありません。

一方イギリスを始めとしてヨーロッパ諸国では主に貴族の子弟が軍のリーダーを務めています。貴族の子弟は子供の頃から寄宿舎に入り、学問・運動を通して長期にわたるプログラムでリーダーとしての厳しい訓練を受けます。特にイギリスの場合、貴族の子弟が学ぶのは歴史や哲学や芸術が主で、法律・医学・経済の専門家を育てるのを目的としておりません。金勘定に長けた人間を育てようともしていません。一朝、国に難事あれば最前線に駆けつけ指揮を執るのが英国貴族の使命なのです。従って第一次大戦・第二次大戦での貴族の子弟の死亡率は高く、跡継ぎを無くした例は多数あります。チャーチルを始めとして、貴族出身リーダーの教養レベルが高いのはその教育・訓練に要因があります。子供の頃から甘やかされること無く毅然とした方針のもと、真のリーダーとなるべく集団教育を受けているのです。従って間違っても天下りで稼ごうとはしません。

翻って日本では、現在でも与えられた事を再現する能力に長けたペーパーテスト秀才が牛耳っている組織では、多かれ少なかれかつての軍隊で起きたようなトラブルを抱えています。ましてや、採用年次の入社・入省時のペーパーテスト成績が生涯ついて回るという組織が活性化するわけもないし、健全に機能するわけもありません。判断の拠り所を間違えた典型的な例ですが、後進国にはよく見られます。入って来る時のペーパーテストの結果に過大な評価と権威を与えた組織の限界です。社会保険庁のあきれた実態・厚生省の繰り返される業者(製薬会社)重視の姿勢・外務省の不祥事等々、表面に出てきた問題点は氷山の一角でしょう。与えられたことを忠実に再現する能力のみでは、予定調和の中での辻褄合わせは出来ても、未経験な問題に対する洞察力・判断力を保証するものではありません。本来の目的から逸脱し、省庁の存続と自己保身が優先している典型的な例です。

法律の専門家で運営されている法曹界になぜ素人の国民が裁判員として参加する必要があるのでしょうか。それは専門家と言われている彼らの判断に疑問があったからです。司法試験に受かり、優秀だと思われていた専門家集団にもかかわらず、純粋培養された彼らの能力に限界があることを大人が気づいたからです。

能吏という言葉の響きには、有能なアシスタントというニューアンスはありますが、決して優秀なリーダーの意味はありません。つまり、ペーパーテストでは能吏を創ることは出来ても、有能なリーダーを創ることは難しいのです。

戦後成功した事業家の中で突出した業績をあげた松下幸之助氏や本田宗一朗氏などはいわゆる学業エリートの道を歩んではいません。世間にはこういった例は多くありますが、それでも日本では何故だか学業エリートに重きを置いています。ものの本質を見極めるという基本を忘れ、辻褄合わせに終始した訓練には限界があることを早く気が付くべきです。

組織の共通理念
(理念の大事さ)

ある程度の人数が集まった組織では、全員が共有出来る理念が必要になります。社是とか社訓と言われるもので、組織の目的と行動規範を明示したものです。ちなみに弁護士集団の基本理念は「社会正義の実現」という極めて当たり前の分かり易い目的を第一に掲げています。個人若しくは組織の利害が絡まない限り、この共通理念は比較的守られますが、金銭が絡んでくると様子は違ってきます。つまり理念とはよっぽど腹が据わってなければ守れないし、生涯貫くことは難しくなります。「子孫に美田を残さず」と言った西郷隆盛の言葉は誰もが知っていて共感を覚えるでしょうが、それを忠実に守る人はほとんど居ないでしょう。社会正義のために戦った弁護士や、患者のために生涯尽くした医者も居たことでしょうが、全員がそうだとは到底思えません。個人的栄達や損得の前に我々人間がいかに弱い存在であるかという事実を認識する必要があります。一流と呼ばれた企業で反社会的な事件が数多く出ているのを我々は知っていますし、多分これからも無くならないでしょう。

グローバルスタンダード・新しい金融商品・高利回り・規制緩和等々盛んにマスコミでアメリカ賞賛を繰り返し主張していた日本の経済学者や評論家が、リーマンショック以来静かになりました。アメリカでの金融商品が利回り年30%以上という数字を得意になって振り回し、日本も学べと言っていた評論家も今では黙ってしまいました。

紙切れを右から左へ渡すだけで儲かる仕組みに、何の疑問も持たなかった付けが今回って来ています。アメリカの金融業界では新しい金融商品を開発した社員に、それが売れればインセンティヴを約束し、結果として年間何億、何十億円というボーナスを個人に与えていたのです。企業が破綻し、国の税金を投入した後でも、契約は有効として高額の給料やボーナスを支給し国民の怒りを買っています。日本の評論家や経済学者と称する連中が賞賛し追随しようとしたアメリカの金融業界で今現在起きていることです。

破綻したアメリカの金融会社・判断力無き学者・評論家・指導力無き監督官庁・等々これら問題の渦中に居た人達や応援団の共通点は基本理念の欠如と当事者能力の無さです。簡単に言えば、欲に狂った無能なる人間の集団と無責任な取り巻きに過ぎません。

分・秒単位で繰り返される株や為替の取引で利益を上げたとしても、何の意味があるのでしょう。科学技術の進歩がそれを可能にしても、そこに存在するのは単なるマネーゲームであり、そこに参加する人たちは合法なるギャンブラーに過ぎません。間違っても「会社は株主のものである」という定義に納まる株主ではありません。

LTCM(Long Term Capital Management)というアメリカの投資会社は1994年に設立され、1997年にノーベル経済学賞を受賞したM.ScholesとR.C.Mertonを顧問に迎えております。初年度に40%の利回りを出したこの投資会社は1998年の4ヶ月弱という短い期間に46億ドルの損失を出し、2000年には見事に破綻しましたが、その影響力の大きさから連邦準備局が救済に乗り出しました。これがグローバルスタンダードと持て囃やされたアメリカ金融界の実態の一部です。投資が本来の役目を守れば大いに意義がありますが、実際は金儲け目的の投機である場合破綻するのはむしろ健全です。そういった投機に走った個人・企業は価値が何によってもたらされるかという基本が分かってないとしか言いようがありません。どんな理屈を述べ理論武装しても、根本が不労所得の飽くなき追及である場合いずれ破綻します。

株も金融商品も土地も上がると思うから人は買うので、下がると分かれば買いません。

1980年代から90年代にかけての日本でのバブル期、この単純な理屈を日本の金融界の経営者は理解せず、土地神話という根拠の無い夢物語に惑わされ土地は上がり続けると信じていただけです。1929年にアメリカで起きた経済破綻(当時もバブルと呼んでいました)を教訓にし、警告を発する経営者・評論家・経済学者は見当たらず、むしろそれを煽った例ならいくらでもあります。日本でのバブル期当時、金融機関の経営陣は、今でもそうですが高学歴のペーパーテスト秀才でした。バブル終焉後、軒並み不良債権と称する損失を抱え、そこでも国の税金つまり国民の金が再建のため投入されました。あれだけの不祥事にも関わらず経営責任を取った例はわずかです。住専(住宅専門の金融会社)各社が破綻した時わかったことは、そのほとんどの社長の椅子をせしめていた大蔵省出身者が破綻寸前に多額の退職金と共に辞めていた事実です。終戦間際の士官の敵前逃亡と同じことがいみじくも起きていたのです。

大蔵省の審議官と称する人が、バブル後のテレビに出演し「誰も分からなかったのですよ」と言う言葉で狂乱時代を総括していたのが印象的でした。天下の秀才が集まるとされている大蔵省のキャリヤー組が実はこの程度だったのです。不祥事続出の各省庁もその原因は、自分たちの目的と理念を喪失し、緊張感の無い単なる高給支給・生涯雇用保証集団になってしまったからです。

土地が上がっていた時、松下幸之助氏は将来の工場用地として土地の購入は許可しましたが、投機としての購入は禁じていました。そこには不労所得を追わない毅然とした姿勢が見えます。また、本田宗一朗氏は自分の会社への子息の入社を禁じています。これは創始者であることと、その矜持に一本筋が通っていた為貫けた理念と言えます。

組織・企業の理念とは、簡単に言えば社会的責任とも表現出来ます。バブル期、目の前の利益追求に走った理念無き経営が破綻をもたらしたのです。金融機関もその例に漏れず、むしろ積極的に参加していたことを忘れてはなりません。1929年アメリカ・1990年日本・2008年アメリカ、こういったバブルがはじけた時代の先導者は常に金融機関だった事実が残っています。そして残念ながら人間は同じ過ちを懲りなく繰り返します。目先の利益最優先で自分たちの社会的責任を考えようとしない限り、いつでも、何度でも起き得ます。

ただ、静岡銀行の頭取酒井次吉朗はバブル期にゴルフ場の開発や土地投機に一切融資しませんでした。彼は顧客から預かった大事な預金をゴルフ場や土地といった投機性の高いものには絶対融資しないという強い信念があったからです。お陰で静岡銀行はバブル期に発生した土地がらみの不良債権には全く無縁でした。一過性の利益を追わず、愚直なまでに誠実に預金者の利益を守ったのです。経営者の姿勢次第で企業は健全な道を選べるという良い実例です。経営者は会社の社員や株主のみならず社会に対しても大きな責任を負っています。経営トップに普遍性のある理念が求められる所以です。

形骸化した組織
(競争の無い組織と天下り)

国や地方の行政組織には競合する相手はありません。かつての国鉄・KDD・NTTもそうでした。利用者から見た場合他の選択肢の無い独占的な組織は往々にして利用者の利便性を無視する傾向があります。個人で実際に経験した分かり易い例をいくつか挙げてみますが、いずれも50年・100年前の話ではありません。多分現在では改善されているとは思いますが。

昼休みに印鑑証明を取りに区の出張所を訪ねたところ、午後1時までは食事休憩のため出直しを要請されました。調布の自動車試験場での対応も同じでした。

NTTに壁掛け型ミニプッシュホーンのコードの延長を頼んだところ、業者からの納入時点ですでに3メートルに揃えてあることが判明し、それ以外の要望には応えられないとのことでした。

都心部の郵便局で小包を送ったとき、まず小包の窓口で重さを量り料金が決められ、次に切手の窓口に行くよう指示されました。そこには既に20名以上の列が出来ていて順番を待たなければなりません。ちなみに他の窓口は閑散としていました。後にそこの責任者に各窓口での切手の発売を頼んだところ、「切手はお金を扱うとこだから」と言う説明がありました。それは言外に部下の横領若しくは計算能力の不備を局長自ら認めたことにもなります。彼らの頭の中には顧客の利便性という考えは全く無く、他に競合する組織が無い場合、全てが自分たちの都合で物事を処理していました。

こういった例は多かれ少なかれ、大げさに言えば国民の殆どが経験したことでしょう。本来なら国民・利用者に対する利便性を最優先すべきで、特に税金で賄っている国・地方の行政サービス機関は納税者である国民が雇い主であることを忘れてはなりません。

社会保険庁・薬害HIV・肝炎の問題を抱える厚生省等は言うに及ばず、自己増殖・保身が目的化した天下り団体は典型的な形骸化の例です。理念と目的を逸脱した組織に我々の税金をつぎ込む必要はありません。

こういった原点を忘れ形骸化した組織は枚挙に暇がありませんが、行政はもとより民間の組織にも似たような例は見られます。むしろ外に対してではなく、内部が内部に対して形骸化している例です。縦のヒラルキーが確立された組織で、特に本社から役員が天下りで来る子会社にはその傾向が見られます。技術の革新(特にコンピューター導入後)・それによる組織の改革後、多くの大企業が余剰の人員を関連会社に天下りさせました。また、新規事業を立ち上げそこにも人員を送り込みましたが、特筆すべき成果は上げられませんでした。関連会社とはいえ、専門分野が違う業種では官庁の天下りと同じで、トップが親会社から来ても顕著に業績を伸ばした例は稀有です。自分達で手がけ、その組織を苦労して大きくした経験の無い人達に多くを求めても限界があります。特に官庁の天下りの場合、無難に役目の期間を終えれば事足れり、とする傾向があります。社会保険庁のトップ(歴代厚生省出身者)がまさにこの典型です。民間でも同じようにルーティーンとして天下りのポストが用意されているところでは同じような傾向が見られます。

自民党政権下における各省庁大臣の頻繁な取替えも、形骸化の典型です。トップとしての見識や理念は問われず、当選回数で順繰りに指名していたのでは本来の役目は果たせず、国民の反感を買うのは当たり前です。形骸化が怖いのは、ここでは何を言っても通用しないという意識を組織の構成員に植え付けることです。

あらゆる組織での閉塞感はこの形骸化が主な原因です。それでも既得権化している組織は、特に国民の税金で養われている場合、あらゆる理屈を付けて存続を図ります。民間の場合形骸化した組織でも経済的に破綻すればそこでその組織は終焉を迎えますが、厄介なことに税金で賄われるところでは簡単にゆきません。行政改革が国民の意思に反して上手くいかないのはそこに原因があります。入りの部分に何の苦労もしていない人たちに対する最大の効果は、そこに資金(税金)を投入しないことです。

組織の活性化
(基本的な取り組みと物差し)

形骸化した組織を活性化し、そこの組織構成員にやる気を起こさせるのは至難の業です。何故なら人間一度身に付いた習慣はなかなか変えることが出来ないからです。例えそこで孤軍奮闘しても、“余計な仕事を増やすな”とか、“自分だけいい顔して”、といった周りの冷たい視線に阻止されることでしょう。特に生涯保障され、能力の差に関係なく自動的に昇給するシステムで動いている職場ではその傾向は強まります。つまり形骸化から免れない運命にある組織は極論すれば活性化は極めて困難なのです。多くの行政・公共機関がこの典型的な例です。生まれつきの社保庁人間は居ませんし、生まれつきの役人も居ません。所属した組織の環境が人間を変えるのです。一般の目から見れば非常識と思われることが堂々と行われるようになった時、その組織は本来のあり方から逸脱し、間違った方向への自己増殖を始めます。評論家の堺屋太一さんが「自分たちの仲間内でしか通用しない言葉を話し始めた時」という表現で問題のある組織を総括していました。つまり、自分たち以外では通用しないことを始めればその組織がおかしくなることは自明の理です。問題を起こしている省庁・企業は全てそうでした。簡単に言えば、顧客(国民)を大事にしない企業(省庁)が存続出来る訳がありません。従って組織を活性化しようと思えば形骸化する要因を最初から取り除けばいいのです。キャリアー制度・天下り・ペーパテスト依存といった、現在まかり通っていることに疑問を持つことです。残念ながら人間の能力には大変な個人差があります。その能力を最大限に発揮させることが本人のため、ひいては社会・組織・国のためになるのです。ペーパーテストでは人の持つ真の能力を判断することは不可能です。

各人各様な物差しを持ち、個人レベルではその物差しによってその人の人となりも判断で出来ます。尊敬されたり、軽蔑されたりするのは本人の持つ物差しに大いに関係してきます。第二次大戦後かくも日本がおかしくなったのは、国民が金という物差しを最優先したからです。

戦後GHQが日本に来て大変驚いた逸話が残っています。当時の公衆電話は交換手が通話先番号を聞き、繋がると料金箱に規定の料金を入れるよう促し、通話者はそれに従っていました。現在の硬貨による自動通話ではなく、料金を入れたかどうかの確認は出来ませんでした。それでも集計したら交換手の記録に残された実際の通話料金より、より多額の料金が箱の中に入っていたのです。GHQが驚いたのは戦争に負け、食うものにも困っている日本人が決して通話料金を誤魔化そうとしなかったことです。この事実を見てこの国民は末恐ろしいもの持っていると記録に残しています。その日本の現状はどうでしょう。

今一度組織内で横行している物差しを見直すことです。その物差しに如何ほどの説得力と権威があるのか考えてみることです。また個人レベルでも自分の物差しを見直してみることです。単純な決め付けに陥ってないかどうかという問いは常に心がける必要があります。

個人の物差しのレベルが上がると、その所属する組織のレベルも自ずと上がります。そうなると経歴と肩書きがすべてといった短絡した発想では終わらない筈です。

人間は教育(学校教育を含め)によって変わります。目先の利害で判断することは誰にでも出来ます。相手の弱みに付け込んだり、権威を笠に相手を押さえつけたり、またその権威に盲従することは馬鹿でも出来ます。一過性の利益や、自分さえ良ければという発想なら教育も教養も必要ありません。今あるものをまず疑ってかかる必要があります。永続させるためにはどれだけ説得力があり、どれだけ整合性があるのかがいつも問われています。

そういった意識を持つことから全てが始まります。長い目で見て、かつての日本の武士の心得やイギリスの貴族に学び、目先の利に走らず恥を知る人間を育てることが組織活性化の一番の近道かもしれません。

平成21年

草野章二

*平成24年に加筆