しょうちゃんの繰り言


テレビ番組の討論
(高齢者と若者)

衆議員議員選挙を間近に控えたテレビの報道番組で、若い世代の投票率が話題になっていた。彼らの低い投票率を上げるため、大学教授・政治評論家それにコメンテーターと言われる人達がそれぞれに意見を述べていた。結論的に言えば、高齢化社会を支えるのは次世代の若者達だが、今の低投票率のままでは高齢者に手厚い政策が取られ、それを支えなければならない若者は損をするという共通論調で終始していた。特に大学教授は具体的な金額を示して投票率の与える効果を表していた。若者の投票率が上がり若者の主張が取り入れられれば、結果としてそれなりの具体的金額を若者が得するという事らしい。因果関係が良く理解出来なかったので或いは私の思い違いかもしれない。しかし、論調としては高齢者と若年層の対立として問題を捉え、現行のままでは溜まった国の借金で若者の負担が増え、多大な損害を将来彼らが被るという図式だった。はたしてこの分析と解説は正しいのだろうか。

まず、年金・医療・介護といった高齢者向けの社会保障に多額の税金が使われ、それは毎年増加の一途だという基本的な説明がなされた上での分析だった。例え国債を発行して現状をしのいでも、将来溜まった負債を清算するのは次世代の若者だという解説は一見もっともらしく思えるが、良く考えればこの理論展開には決定的な間違いがある。

それぞれ個人的な事情を背後に抱えていたとしても、多数を対象とした一般論としては年金暮らしの高齢者は何がしかの資産を形成しているのが実情ではなかろうか。家のローンも終わり、会社員なら金額の多寡は別として退職金も手にしている事だろう。その間老後の蓄えもそれなりになされていたと思える。つまり資産を形成し、経済的に余裕があるのは圧倒的に高齢者だと思われる。オレオレ詐欺にも金が無ければ引っかかる事は無い。高齢者はその資産から推測して自分達に掛るコストに対し充分に支払い能力は持っている。

高齢者には子供や孫も居るのが普通だろう。つまり、高齢者と若者といった対立軸だけでの議論はこの場合意味を成さない。世代の交代は大きく捉えれば川の流れであり、これが人の歴史なのだ。親と子は経済(個人資産)の流れから見れば同一の水脈で結ばれていて、親の死でその資産は全て消滅するわけではない。親の資産は確実に子や孫といった次世代の親族に脈々と引き継がれている。その高齢者の資産総額は彼らが使った年金や医療費を優に凌駕していると推測出来る。この資産がある限り高齢者への出費による財政の破たんも次世代の犠牲的な貢献も必要とはされないだろう。何も高齢者が生きている内に現金で清算する必然性はない。ここには財源は充分過ぎるほどある。

数字上の正確な整合性は、専門家の調査・検討を待つしかないが、次世代に残された資産は少なくとも現在の高齢者の後始末位充分出来るものと推定出来る。なかんずく高齢者が所有する土地の含み資産は莫大なものがあり、これは個人の努力の結果というより、彼らの資産価値高騰には国民全てが貢献していると考えた方が正しいだろう。

少数の例外は常にあったとしても、高齢者は自分達が築いた資産で老後を送っていて、何も子供や孫の将来を食いつぶしている訳ではない。この視点が抜けた議論はいたずらに財政の危機を煽り、全体像を正しく認識出来ないだろう。

ただ、人は公共の為に自分を犠牲にする気持はあっても金銭的負担を喜んで引き受ける人はあまりいない。また、自分の資産形成、特に土地によってもたらされた資産は自分だけの力量や才覚で済まされない事が多かったに違いない。こういった国民が貢献して出来た資産は公のルールを作り社会に還元すれば高齢者の医療や年金に関する財政的問題は殆ど解決出来ることだろう。

一方、個人資産の浸食は最後の手段としても、あまりにも偏った利益の配分は世代が交代する度に見直す制度も社会的公正のため必要ではないだろうか。

拙文「物の値段」でも書いたが、戦後急速に開発・整備された都市部の社会的インフラは地主の負担でなされた例はほとんど無い。もしあったとしても、極めて少数の例外的な善意に依るケースだけだろう。道路・鉄道・電気・電話・上下水・ガス等々に掛ったコストは地主の負担ではなかった。国民全てが税金や料金等で負担し、その結果良好な宅地として開発され、結果として土地の値上がりという恩恵を地主にもたらした。土地の取得コストと現在の地価を比較すれば簡単に不労所得の金額が出てくる。ここで出てくる高額な差益は地主の努力の結果ではないが、彼等は何の疑問も無く当然の権利として手にしている。

社会的公正や正義の為にも、この問題をアンタッチアブルの聖域にしておく必要はないだろう。色々な考えはあっても額に汗して稼ぐ金からは税金を少なくするべきで、今後税収を増やすとすれば不労所得の分野や特権で守られた分野に目を向けた方が国民の理解は得られ易いと思う。

現在の税制度でも充分だという考えもあるだろう。ただ、土地資産に限らず不労所得への課税はどういう種類であれ考えてみるべき時ではなかろうか。

私は現在借地に住んでいて、ここの土地の実勢価格は一坪(畳二枚分)で250万〜300万円位するらしい。東京ではこの価格は特別珍しいものではないが、まともな仕事のサラリーマンでは宅地として取得出来る金額ではない。代々農地として所有していた土地が日本経済の発展と共に宅地になり、その土地の値段が経済発展に同調して上ったというのが実態だ。地主の努力や工夫はどこにも見られず、彼らが土地開発の為特別出費した事実も皆無だ。こういった例なら東京のみならず日本中で見られるだろう。ここで一反(約300坪)持っていれば10億円近くの価値になる。昔は一反程度の畑を持つ農家は「水飲み百姓」と言ってからかわれていたが、ここでは今や「億万長者」だ。

現在の高齢者が住宅を取得したのはそれぞれに時間差があったとしても、少なくとも今の価格でない事は確かだ。その高齢者が持つ資産価値は前述したように彼らの社会保障のコストを清算するのに充分なものであることは間違いないであろう。高齢者と若者という対立させた図式で説明するからいたずらに不安を掻き立てることになるだけだ。

もし、根本的な解消を図るなら、年齢による人口構成率の変化を基本に置いて考えなければならない。日本では65歳以上の人口が25%の比率を占め、その数字は毎年上がるらしいが、20年もすれば彼等は私を含めてもうこの世には居ない。団塊の世代が終焉を迎えるのも唯物的表現をすれば30年程度という時間の問題だ。従ってこの30年程度を高齢者の資産で賄う事が出来れば今より穏やかな人口構成比率になる事だろう。

現在の日本の人口は1億2600万人だと統計に出ている。その25%が65歳以上とした場合その総数は約3,150万人となる。自然の摂理から考えてこの人達は上記のように30年後には殆ど生存していない。30年後の人口構成比率や社会の在り方は今から早急に結論を出し、対策を練れば対応の方法はあるだろう。しかし、この判断は利便性を基にして考えても結論が出る問題ではない。誰かが合理性から出た結論で音頭を取って、それに国民が従うほど単純に解決出来る課題とは思えない。

人生を長く経験した我々高齢者が、「日本は良い国だった」とか「生まれて良かった」というメッセージを如何に本音で伝えられるかだろう。それを実感として次世代に伝えられなければ我々は日本の歴史や伝統の継承者としては資格が無かったことになる。

人が自然と調和して穏やかに暮らしていた時代はもうない。全てが競争原理に晒され、慎み深い人や自己主張をしない人達はどうしても存在感が薄れていく。何度も言うが、人の価値は金貸しの尺度で測ってはならない。資本主義先進国のアメリカも、それに追随する日本も経済で成功してもその陰に「人間らしさ」を犠牲にしている事が多々あるのを知って欲しい。

表面的な数字で「若い世代は損をする」という程度の議論は本来なら恥ずかしいという意識が送る方にも受ける方にも出てくるのが当たり前だと思う。また、高齢者もその資産をひたすら親族(子供)にだけ残そうとせず、お世話になった社会に還元する気持ちがあれば世間の見る目も変わり、良い社会が出来る可能性もある。若い時に競争するのは当たり前で、その元気と山っ気が無ければ進歩も発展も無いだろう。ただ、高齢者の我々は人生の達人或いは経験者として、余裕がある場合、世の為人の為に個人資産から少し出すのも人生の終わり方としては考えてみる価値があるのではなかろうか。

三途の川の渡し賃として六文要るらしいが、死に際に六文を残して財産を社会に貢献すれば子供には恨まれても世間は評価するだろう。アメリカの鉄鋼王と呼ばれたカーネギー(Andrew Carnegie 1835〜1919、スコットランド生まれ)はそれを実行した。彼は「金持ちとして死ぬほど、不名誉なことはない」と言っている。また、「The rich should distribute their wealth during their lifetime」(金持ちは生きている内にその富を社会貢献するべきだ) とも言っている。また、遺産相続にも強く反対している。彼の成功への人生には毀誉褒貶あるが、富を得た後の対応には輝かしいものがある。

人生の選択は人様々だろう。まして自分で築いた資産を他人からとやかく言われる筋はない。農地を宅地にして儲かっても悪い事をした訳ではないだろう。ただ、そこに自分で出来る何がしかの価値あるものが存在したら、一寸だけ目を向けては如何だろうか。

国の財政が厳しく借金しなければ予算も成立しないのが現状だ。少なくとも高齢者に必要な予算を自分達の手で解決するのも人生最後の挑戦としては意義ある試みに思える。俺達に借金を残したと若者から恨まれる事もないだろう。

時にはカーネギーの事を思い出しては如何だろう。これは何も出すものが無い人間しか言えない事だろうか。

平成26年12月8日

草野章二