しょうちゃんの繰り言


適者生存の理(ことわり)

私は、この年になるまで“適者生存(Survival of the fittest)”という概念はチャールズ・ダーウィン (Charles Darwin) の「種の起源」が出典だと信じていたが、実はその前に同じイギリス人の哲学者ハーバート・スペンサー (Herbert Spencer) が自著「社会進化論」(1864年)に発表していた事を最近偶然知った。専門家ではないので二人の“適者生存”に対する基本概念の違いなど論ずることは出来ないが、一方が哲学者で、一方が生物学者という組み合わせが興味深い。調べたところ、ダーウィンがスペンサーから影響を受けて「種の起源・第6版」(1872年)にその概念を生物学者として発表した、というのが真相のようだ。

進化論に関しては、我々素人でも納得いくことが多い。人類(ホモ・サピエンス)の化石の変遷を見れば、その変化は誰にでも分かる。それぞれの種が地球規模の歴史の中で化石の変遷から判断するに、進化としか例えようのない変化を遂げている。もっと言えば我々はそれを進化という概念で理解している、と言った方が正しいのかもしれない。あらゆる生物(植物も含め)の変化は簡単な定義で纏めることは不可能で、残ったものは環境に適していたし、環境に適する為に変化したと考えるしかないだろう。何度かの氷河期や巨大隕石の衝突等、時間を短縮して考えれば生物の危機は過去幾度も繰り返され、環境に適応して生き延びた結果が現在の姿だと認識するしかない。言えるのは、なに一つ約束された必然は無く、結果としての必然の中に、人間を含めた生物は現在生きているということだ。人によっては存在と進化を神の業だと信じる人も居るだろう。ただ万人を納得させる為には哲学者と同時に生物学者の科学的推論も必要だ。生存する為に他より強くなる必然は無く、地球という舞台に進化出来る有機体として共存した結果が今日の姿だと理解した方が素人には納得がいく。

今日、我々個人が存在する因果関係は、天文学的数の精子と生まれた時から数が定められている卵子の偶然の出会いにしか過ぎない。結果から考えれば我々は全て例外無く、宝くじの一等に当たるより遥かに確率の低い奇跡的な存在なのだ。これは、他の生物に対しても同じだと言える。我々の命や存在そのものに、“かけがえの無い”という形容詞が時として付く理由はこのためだろう。

人のあらゆる営みを自然の結果だと受け止めれば、あらゆる人類の歴史や、その因果関係は創造のみならず侵略や破壊を含め、個人の好みは別として、謙虚にそのまま受け入れざるを得ない。ただ、人類がその営みを、知性を持って判断することが出来る存在だと自認するのなら、今後その選択肢には私たちも参加し、方向性に注文を付ける事は出来る。これも又自然と言うしかないのだろうが。(実際、我々はそういう選択をやっていることになっているのだが。)

従って地球上で、人類の発生もその科学文明の発達も神や自然の摂理だと認識するなら、それによってもたらされる負の遺産もそのまま受け止めなければならない。ただ、そこにはまだ人類のさらなる英知が働く要素は残されていると考えていいのだろう。

人類の科学技術の進歩は、今日では神の領域まで迫っているとも言える。遺伝子操作による新種の農作物は何処まで許されるのか。臓器移植の限界は。幹細胞応用の行方は。こういった問題は例えそれが部分において人類に貢献したとしても、手を出すべき領域なのかという問いには簡単に結論を出すことは出来ない。様々な問題を含め、人類が導き出した結論として負の部分も一緒になった自然の流れだと定義し、それを甘受するのも人類の知恵と言える。何が自然かという、この堂々巡りの議論の結論には、どうしても科学者のみならず哲学者の知恵が必要に思えてくる。人類は何に適して生存し、そして進化しているのかを、もう一度哲学者も含めて考えてみてはどうだろう。

人類の特異性は、生きることに「価値観」を見つけた点にあると言ってもいいだろう。これは他の動物には無い特性で、高い知能がそれを可能にした。形而上学が生まれ、知性の発達が見られたのも、その人(ホモ・サピエンス)の持つ知能のお陰だ。DNAレヴェルで僅か2%弱の差しかない類人猿との違いを見れば誰でも理解出来るだろう。数百万年前までは彼等と親戚だったことが信じられない位の差を持つ生物に我々は進化した。

そこで、類人猿から進化した現人類の適者生存の尺度を見てみると、生物としての人間本来の生命力ではなく、むしろ他の要素でコントロールされていることが多いようだ。それでも全体の大きな流れで捉えれば、或いは適者生存のルールをそこに見つけることが出来るかもしれない。しかし、個々に日常我々が目にするのは神から与えられた自然ではなく、人為的にゆがめられた環境の方が多い。知性を獲得した人間が新たに創った環境とも言えるものだ。

社会・国単位で全体の富を数パーセントの少数の人達でほぼ独占した時、どういうことが起きるのだろう。富と権力は直接繋がっていて、ヨーロッパでは貿易により莫大な利益を上げた商人の一族がやがて国の王(支配者)になっていった例もある。20世紀に入り、有産階級と無産階級の戦いは革命を経て新たな社会制度を構築するまでになった。最近では平等のため革命を起した社会主義国で、数百・数千億円単位の私財(賄賂)を幹部が手に入れている例が報告され、しかもそれがほぼ幹部全員に蔓延している事実も明らかになっている。共和国を謳いながら、そのトップが世襲三代目となっている国さえある。

一方、世界を代表する資本主義国でも個人として数千億・数兆円の私財を築いた例があり、念の入ったことにその国はホームレスも共存している。さすが自由の国としか言いようがない。

規模の違いさえあれ、我が国でも世界第3位の経済力を持ちながら、首都東京ではいたるところにホームレスの姿を見ることが出来る。そう言えば、我が国も自由の国だった。

どんな体制の国でも万人を幸せにすることは出来ないのだろうか。それともホームレスは彼等の自由選択の結果で、彼等はそれなりに幸せな立場にあるとでも言うのだろうか。

下請けから“ザマミロ”と言われたメーカー(拙文「我が家の整理整頓」参照)や、未だに納入業者の犠牲で利益を上げている産業(拙文「そして大人が居なくなった」参照)が日本にはある。どういう理由にしろ、他の犠牲で成り立つ産業構造に永続性が有る筈がない。これは自然淘汰でもなく、適者生存でもない。そこにあるのは単なる大企業のエゴであり、驕りにしか過ぎない。彼らには平家物語の“驕れる者久しからず”の一節を良く覚えておいて貰いたい。

これは日本だけの現象ではなく、あらゆる国の金融を含めた全てのビジネス分野で見られ、資本の原理が優先しているのが共通する特徴だ。そこでは違法ではない限り、利益追求の為には手段を選ぼうとしない。所謂グローバル・スタンダードに当てはまる方式だ。

人類は知性を備えたが故に、価値観という生きる上での理念とも、戒律とも言えるものを生み出した。その価値観が人類の幸せに貢献するという普遍性を失った時、国も企業も個人も目先の利益だけで判断し、それぞれがエゴ丸出しの状態になった。地球創生期、或いは人類誕生期のカオスが巡って来たような気がする。

“ミネルバのフクロウは迫り来る黄昏と共に飛び立つ”という哲学者ヘーゲルの言葉があるが、これは物事がおかしくなり破綻に面する頃、知恵者が出てくることをメタファー(暗喩)として表現したものだ。(フクロウは知の神であり、知恵の象徴である)

経済の尺度だけでは人間は幸せにはなれない。むしろ、経済の尺度を全てに適用したために問題が大きくなっているようだ。黄昏が迫らないとフクロウは飛び立たないようだが、私には既に黄昏が見える気がする。

民族間の争い・国家間の争い・人口問題・食糧問題・過剰殺戮兵器の拡散等々、21世紀は難問山積みに思え、解決の糸口さえ見えないものもある。

化石燃料は時の長短はあってもやがて枯渇することは分かっている。そして、二酸化炭素の増加は皮肉なことに開発途上国が発展するに連れ、等比級数的に加速される。

野放図に科学技術に頼り、自然を征服したつもりでいても、今の勢いでは人類が地球環境を破壊し、自分達の存続さえ危うくしているようだ。再生するものでなければ永続性は無い。それがエネルギー源であれ、食料であれ、人の持つ英知が大きく試されている時だという意識が必要だろう。快適さと利便性に払った付けは確実に我々に重い負担となって残される。

有限な資源を使い切った時が人類の終焉である事を思えば、国家間の争いなどやっている場合ではないだろう。

近代化を進める隣国では人も住めないような大気汚染が蔓延している。国の安全を確保する為と称して軍事力を高めていて、一方では人が住めないような国が生まれつつある。食料に至っては自国民さえ信用しないものが生産されている。宇宙に出る前に、核兵器を含めた軍備拡大の前に、やるべきことが幾らでもあると思うが彼の国にはそういった価値観が希薄なようだ。

適者生存の前に人類は早急にやらねばならないことが沢山ある。これは他人事ではなく、我が国でも見直さなければならないことが山積みしている。国の存続と同時に人類の存続を考えないと我々は“不適者滅亡”への道を加速しながら歩むことにもなり兼ねない。

ミネルバのフクロウが飛び立つ前に我々が立ち上がる時だ。黄昏を待っていたのでは人類は適者としての生存さえ危うくなるだろう。絶滅種から免れるのは、現存する“かけがえの無い”ホモ・サピエンスの知恵次第だと思う。

平成26年1月12日

草野章二