しょうちゃんの繰り言
正論(?)での主張 |
政治的・社会的事象に対して各人各様、色々な意見を持つのは当たり前で、主張している当人は我こそ正論を述べていると思いがちだ。例えば、原子力発電の存続に関して「即廃止」のシングル・イッシュウ(単一政策・争点)で国会議員に選ばれた芸能人もいる。 集団的自衛権に関して反対派は「戦争法案」とレッテルを張り、法案が認められれば「自衛隊員に死ね」ということだと首相に言わせようとする議員も出てくる。言うまでも無いことだが、彼等は自分達が正しいことを主張していると信じて疑わないだろう。 また、民間でも放射線の恐怖を強調し、国や地方自治体が安全を保障した震災瓦礫に対し「国は信用出来ない」と堂々と正論をテレビで訴える主婦もいる。これなどゼロリスクの究極の追求だろうが、彼女が信用出来る国はどこにあると言うのだろう。 所謂「平和憲法」を金科玉条として第9条を絶対守るべき条項だと信じ込んでいる人達も居る。彼等から見れば憲法改正はとんでもない暴挙で、彼等はこの第9条が無くなれば自衛隊はすぐにでも戦争を始めるみたいな物言いをしたがる。 隣国と違い、表現の自由が認められた我が国では言ったことの妥当性は別として様々な意見が見られ、国会での質疑応答を聞いていても退屈しない。だが、同時に鼻先で小馬鹿にしながら野党の揚げ足取りを聞いていることがあるのも事実だ。時にはあまりのばかばかしさに、テレビのスィッチを切ることもある。その結果、多くの場合やはり彼等に政権は任せられないという寂しい感想を持つのも私の自由なのだろう。野党と雖も、与党の案に反対なら何故対案を出して本格的な論戦を挑まないのか、いつも不思議に思う。 昔、「戦争をしない軍隊が理想」という言葉を聞いた時、一瞬何かの間違いかと思ったが、考えてみれば軍隊があっても戦争をしないで済めば、なるほど「理想的な軍隊」と言える、と妙に納得したものだった。かつて、「日本はスイスを見習うべきだ」と主張する平和主義者が沢山いた。永世中立でどの国にも与せず、「平和を守る」という国のあり方が当時の日本人には受けたのだろう。だが、スイスの実態は国民皆兵制で、除隊後予備役として銃を渡され、各人いざという時の防衛に当たることになっている。国民が銃を持って国を護るという現実は、命を掛けて戦うという基本的な国民の了解がなければ成り立たない。こういった仕組みを知った上で「スイスを見習え」との平和主義者の主張だったのか今となれば疑わしい。そして、今では誰も「スイスを見習え」と言わなくなった。言うと徴兵制を認めることになるからだろう。 世の中には耳触りの良いキーワードが幾つかあり、特に「平和」・「安全」を唱えれば論旨に関わらず一般にはあまり抵抗なく受け入れられている。「子供の安全」・「家庭の安全」・「社会の安全」・「国の安全」等々、「安全」という錦の旗印には少々のことでは反論出来ない。同じ様に「平和」という旗印はどこに付けても良いし、その旗印が付けば反対など普通出来ない。「平和」・「安全」を旗印に掲げるのは誰にでも簡単に出来るが、肝心なのはそれを真に護るための方策だ。 いつも言っていることだが、国防には多大なコストも犠牲も伴う。現実的な対応として一番効率の良い方法を国は模索すべきで、その実質を伴った選択肢の中から国の方向を我々は選ばざるを得ない。時代と共に世界を取り巻く環境は変わり、従ってその時代の最良の選択肢は必ずしも、いつも一定のところに収束しないだろう。国は夢や希望を掲げるだけでは国民を護ることは出来ない。 世界には、未だに基本的人権さえ確立されてない国があり、かつ国民の声が反映されていない国もある。共和制を謳いながら親子三代に亘り世襲独裁制を続けている国さえある。戦後70年経っても、国民に反日教育や荒唐無稽な反日映画を絶え間なくプロパガンダとして利用している国も我が国の極めて近くにある。 我々が、自己完結しただけの平和主義で理想論を唱えていても、すぐ隣には歴史的事実さえ平気で捏造している国があることを忘れてはいけない。念の入ったことにそういった国を援護する日本の進歩的平和主義者も少なからずいる。普通の感覚では昔そういった連中を日本では「国賊」と呼んでいたようだ。 戦後70年間一度も戦火に見舞われなかったのは、国民として喜ばしいことで、それが平和憲法による効果であれば平和憲法を護ることに誰も反対出来ないだろう。前にも言ったように、憲法のお陰か他の要因かは冷静に判断しなければならない。憲法に「不戦」・「平和」という理念を謳う事で戦争を回避出来れば、何故他の国も真似しないのかという素朴な疑問が湧いてくる。世界でも教育レベルの高い我が国で、この程度の判断も出来ない知識人や政党が何故だか変わりなき不毛の自己主張を続けている。 雛鳥は卵から孵った時、最初に目にした動くものに付いて行く習性があるという。通常であれば最初に目にするのは自分を生み、孵してくれた親鳥だろうから厳しい自然界に生きる野生の動物としては理にかなった本能と言えるだろう。また、高校時代「人間は活字になったものを読む時、最初に読んだものを信じる傾向がある」と我が恩師は教えてくれた。世間の狭い若者が陥り易い欠点とも言える。人が永遠に雛鳥で未熟な若者であればこのレベルで留まっているのも悪くないだろう。そんな未熟な若者が飛びつくのは「平和」に象徴され、それに結びつく多くのキーワードだ。「平等」・「反戦」・「公平」・「人権」等々に関する基本的な概念を学び、歴史の教訓として「日本帝国主義」の「侵略」・「他民族への圧政」・「植民地支配」・等々の反面教師的な教材から「日本の負の歴史」も学ぶことになる。全てが史実に基づきバランスの取れた学習なら問題ないが、戦後多くの場合、所謂左翼系の学者によるバイアスの掛ったものが多いのも事実だ。程度によるとしても、あまりに酷い「自虐史観」に若者を染めるのは日本にとって決して良いことではない。その延長に硬直した左翼主義者がいる事実は否定出来ないだろう。「性奴隷」という新語を創った人権派弁護士、ありもしない「強制連行された慰安婦」の弁護を買って出た女性弁護士、尖閣島沖で逮捕された「中国人船長の地方検察による解放」を指示した首相と弁護士上がりの官房長官等々、彼等の経歴を見れば、それぞれに出した結論がよく分かる。彼等に共通するのは祖国への敵意のように写る。新しい日本を創る時、旧いものを排除するのはある程度理解出来るとしても、自虐史観に染まった理念無き連中の所業は理解不可能だ。その延長線上に日本を代表するような新聞の捏造問題があることも忘れてはいけない。彼等はいずれも確信犯としか私には見えない。何時の時代でも「反権力」が常に正義だとは限らない。半端な大学教授やインテリが好む図式だが、学生も幼いとはいえ、良く考えて選ぶべきだ。本物を見極める目もしっかり養って欲しい。 前に「笑いの陰に」という拙文を書いた時、「国に少ない人」という題で: お隣共産国での幹部の腐敗はすざましいものがあり、あらゆる国家予算にたかっている様に見える。何故なら普通の商取引における賄賂の金額とはケタが違うからだ。ごく少数の犯罪としてならあり得ることだろうが、数の多さから彼の国では伝統的に組織だって手を染めているとしか思えない。これが隣国の伝統であり、文化なのだろう。幹部の腐敗から国民の目を逸らすためには常に仮想敵国が必要で、いざとなったらどんな手でも彼等は使うと覚悟していた方が良さそうだ。言われなき非難や捏造された歴史遺産には彼らなりの理由がありそうだ。 個人的な話でも、厄介な隣人を持つと普段の生活には常にストレスが付き纏う。我が国が厄介な隣国に対して取るべき道は安易な妥協ではなく、毅然とした一貫性のある姿勢を堅持することで、告げ口をするような政治家や新聞は国民の手で葬るしかない。馬鹿な政治家を選ばない、バカな新聞を買わないという単純な選択で少しは日本もまともな国になれるだろう。 辻褄合わせの勉強で一流大学に受かったとしても、肝心の判断力が養われていなければ、左にかぶれた教授の良い餌食になるだろう。未熟な若者にとって最初に読んだ本や、最初に接した教授の影響力は大きい。よその国の反日教育を笑ってばかりはおれない。 あらゆる分野で閉塞化した社会は確かに若者でなくても不満がつのる。春秋に富む若者の特権は権威を疑う事だ。その意味での教授の啓蒙なら大歓迎だが、半端な姿勢でのインテリ面は何の役にも立たない。偏った「反権力」を謳い文句に底の浅い歴史観で若者を堕落させるのは「百害あっても一利なし」と断罪出来る。若者が結果としてどういう方向を向こうとも、教える側は真摯に若者に接して欲しい。若者は日本の将来を担う大事な人材だとの認識があれば、うかつな誘導尋問は出来ない筈だ。隣国と違って我が国は長い歴史と誇れる伝統を持つ国との自覚があれば、理念なき隣国に迎合するような教えは恥ずべきことだと認識して欲しい。 ゼロリスクでの主張 これらが全て空しいとは言わないが、戦後70年の我が国の歩みを冷静に観察すれば、日本は充分に自制心を持ち、世界に貢献している平和国家だと言ってもおかしくない。 国を語り、歴史を語るならもっと本質的なことが判断出来るインテリジェンスを養ってからにした方が破綻が少なくて済むと思うが、一流新聞屋さんと前述の弁護士の皆さん如何でしょう。 「国に少ない人」 平成27年8月27日 草野章二
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