しょうちゃんの繰り言


情操について

少々の個人差があっても、中学・高校時代に学校で学ぶ学課以外に自ずと関心が高まるものがある。年頃になると異性に目覚めるし、人生の何たるかを考えるようにもなるせいだろう。ホルモンのなせる業か、知性の発達かは後の議論で、当事はただ関心の赴く儘に振り回されていたと言った方が正確な総括だと思う。

妻をめとらば 才たけて 顔(みめ)うるわしく なさけある
友をえらばば 書を読んで(読みて) 六分の侠気 四分の熱

恋のいのちを たづぬれば 名を惜しむかな をとこ(おのこ)ゆえ
友のなさけを たづぬれば 義のあるところ 火をも踏む

ああわれコレッヂ(ダンテ)の 鬼才なく バイロン、ハイネの 熱なきも
石をいだきて 野にうたふ 芭蕉のさびを よろこばず

(これは16編からなる与謝野鐵幹の有名な「人を恋ふる歌」だが、上に挙げた3篇は広く世間に同じく「人を恋ふる歌」と題して、かつて唄われていた。括弧で書いたのは歌詞として通常知られているものを記載した。「顔」を「みめ」と当時読んでいたのかどうかは不明にして知らない。原文は明治30年に京城で創られ、明治34年に「鐵幹子」で発表されていたらしい。旧仮名遣いや漢字は原稿を書いているパソコンの許容範囲で表している事を了承して頂きたい)

この、七五調の詩はリズム感を持って若い頃頭に入り込み、格調高き文語体の詞は田舎の高校生に考えるテーマを与えてくれた。あらゆる歌が人の情感に訴えているが、世間で流行った歌では男女の情愛に関する怨念を表現していることが多い。一方、鉄幹の詩は将来歌曲になる事は想定して書いたわけではないだろう。曲としてはむしろ野暮ったく、決して美しいメロディ・ラインではないが、歌詞には旧制高等学校の校歌にも共通する、学ぶ若者の指標みたいなものが表されている。そこに当時の心ある若者は単なる流行歌(はやりうた)のジャンルを越えて魅かれていった。

多分、現在ではこの形式は歌としては若者に受けないのだろう。それでも鐵幹の詩は時代を超えた存在感と格調がある。才人晶子に「やわ肌の あつき血汐に ふれもみで さびしからずや 道を説く君」と惚れられた男の矜持が彼の作品には伺われる。彼らの詩を後の世の人が受け入れられるかどうかの感性も、その個人の情操と言うしかない。彼らのメッセージを受け入れられなくなった時、私達は残念ながらその程度の知性や情操しか備えていなかったと結論付けるしかないだろう。

ちなみに、情操とは広辞林によれば「高い精神活動に伴って起こる感情」と説明してある。

古今東西名作は数多(あまた)あれども、それを受け入れる感性は自分で磨くしかない。知性の欠如か情操の欠如か分からないが、現代では若者の名作探訪はあまり流行らないのは事実らしい。名作を読まなくても、そして知性や情操の欠落でも、偏差値の高いと言われている大学に入る事は出来るし、医師国家試験にも司法試験にも受かる事は出来る。真のリーダーを育てようとしない国では名作を読もうとしないのは当たり前の現象とも言える。目的の為の効率的攻略法は止むを得ない面があっても、チェック・システムそのものが、あまりにも画一化・形骸化すると平板的な仕分けしか出来なくなる。与えた問いに常に正解があるのは、予定調和での解決法は学べるが、肝心な人としての根本的な判断力を養う事は難しい。情操も「高い精神活動」が無ければ育めないものだ。

立ち居振る舞いに優雅さが無く、言う事に品がないのはあまりにも実利だけを追う人生を我々が送ってきたからではないだろうか。若者達は、たかだか大学受験に青春の全てを賭け、高偏差値大学への入学が、あたかも人生のゴールみたいな価値観を植えつけられていた。若者達自身も、この日本のシステムに対し何の疑問にも思わず素直に従ってきた。塾で、時間と金をつぎ込んで手にした栄冠がどれ程の価値を持つか今一度考えてみればいい。

事ある毎に言っているが、幅広い教養としての読書を捨て、情操教育に背を向けてひたすら受験勉強だけでは、試験には受かっても上質な教養人に育つ事は無理だろう。目的のために単に功利的に取り組む若者が増えただけだ。全てとは言わないが、資格を取っても真の役に立たない人間が現在では各界で跋扈しているそうだ。高い精神活動の無いところでは情操は育たない。

一度出来上がった社会の仕組みは、なかなか変える事は難しい。出来上がった中での勝ち組はその利権を手放そうとしないだろうし、また高偏差値の肩書は一生通用しなければその大学に入った意味も無い。このジレンマから抜け出せない限り、我々は今の閉塞感から抜け出す事は難しいのではないだろうか。若者の仕分けで勝ち組と負け組みに選別し、全ての基準を金勘定(経済)に置けば今の硬直した社会が出来上がる。

訳の分からない事を大声で泣き叫ぶ県議などは、この劣化した社会の見事な産物だろう。彼を選んだのは勿論、良識豊かな筈の県民だ。政務活動費として出される多額の予算は、実質ノーチェックだった事が判明し、悪用しているのは汚物を連想させる彼だけではなく他にも居るらしい。もっと言えば、問題ある出費は他の都道府県でも同じだと言われている。生きている事に高い精神活動を伴わないから、県議、いや国会議員といえども情操を備えている人間が少なくなる。住民を代表する各種議員の劣化は、選んだ住民の劣化を表している事を国民は忘れるべきではない。

然るべき地位の人間が判断力を備えてない例は幾らでもある。各種の試験や住民の投票で選ばれても、それに相応しい人物がどれだけ居るのだろう。考える事を放棄しているような今の教育制度では、学んだ類型的な問題には反射的に対応出来ても、応用の利かない若者を増やしているだけだ。毎度言うように、まともな文章は書けないが国語の成績が良かった学生や、外国でホテルのチェック・インやレストランでの注文も出来ないが英語の成績が良かった学生が出来上がる。つまり、試験と言う一過性の試練さえ上手く潜り抜ければ、立派な偏差値上位の学生が出来上がる仕組みになっている。そして、それが日本では大手を振って未だに通用する。

全ての学生がそうだとは言わないが、こういった傾向はどの分野でも見られるという。前にも指摘したように、過去一ヶ月に一冊も本を読まなかった大学生が4割に達するという最近の報道は、今の日本の教育制度を反映したものだという事を関係者は良く認識して欲しい。知的好奇心にも、情操にも何の関心も無いからこういう数字が出ている事を良く理解して欲しい。決め付けた言い方をすれば、これは教育制度の崩壊だと思っている。若者が一過性の辻褄を合わせることで資格が取れれば、大半はそれに靡くのではないだろうか。学ぶ事が本当は楽しい事を子供の頃から教育しないからこういう結果になるのだろう。

それでも6割は月に一冊以上本を読んでいる事になるから、これは私の単なる思い過ごしだろうか。それにしても各界で言われている応用の利かない若者という評価はどう理解すればいいのだろう。少なくとも私が出会った弁護士は有能だと判断出来る例は少なかった。交流のあった一部上場企業の社員も決して粒が揃っていたわけではない。存在感のある人間が少なくなり、細かく決まった役割の中で自分の仕事を消化しているだけのように私には見える。地方を含めた議員にしても、あまりにもお粗末なのが多過ぎる。

我々の生きる目的は何なのか
我々は何故学ぶのか
知識は何故必要なのか
学校の成績は何を証明してくれるのか
国は誰が守るのか
損得は人生の最終判断なのか

思いつく儘に挙げても、考える事はとめどなく出てくる。若者の特権は既存の権威を疑う事だと信じていれば、不合理だと思えることや整合性の無いものは幾らでも目に付く。未熟であるが故の早とちりは少々あったとしても、若者の基本的姿勢としては既得権に染まらない新鮮な目で問題点を見つめて欲しい。現在の閉塞感は既得権の成せる業ではないかと疑えば、そこに新しい視点が生まれる筈だ。こういった問題意識を持つ事も無く、与えられた問題に正解を求める勉強では、「高い精神活動に伴って起こる感情」とは一生巡り逢えないかもしれない。

「友をえらばば 書を読みて 六分の侠気 四分の熱」と謳った鐵幹の心意気は現代にも通じると思うが私の時代錯誤だろうか。

国のリーダーだと位置付けられているイギリスの貴族は、歴史・芸術・哲学を必須として学び、自分の立ち位置(社会的使命)を常に意識している。功利的なものを学ばなくても生活出来る環境にあるため、彼等は自分の損得では判断しない。これも人によっては時代遅れと決め付けるかもしれない。ただ伝統も文化も哲学も希薄な環境で経済だけ優先させれば貧富の差は拡がるだけで、大きな軋轢を社会が抱え込む事になる。巨額な資金を動かせば何となく一人前の顔をしたがるが、日本でも醜悪な実態を晒した例は幾らでもある。

彼等の多くは「高い精神活動」には終生無縁の人生を送っている。それでも汚物に群がる蝿の如く利に聡い人達はそこに集まってくる。

美しい国の再生は若者が何を求めるかによって達成出来るだろう。古稀の歳では戯言を垂れ流すだけで先頭に立って行動は出来ない。ただ、書を読む人が居てくれる限り、戯言も幾らか役に立つかもしれない。

私事で申し訳ないが、“才たけて みめうるわしく なさけある”妻と、どう折り合いを付けて余生を過ごすかが今の私の一大関心事だ。

平成26年7月25日

草野章二