しょうちゃんの繰り言


科学する

「科学する」と言う言葉は最近お目に掛からないが、半世紀以上前には当時、流行(はやり)の言葉として使われていた。中学時代、理科の担任教師は科学の基本は自然の観察で、そこから法則性を見つけることだと教えてくれた。確かに天文学などは星を含めた天体の観察から全てが始まったのだろう。その結果、一年が365日だと分かり、人は季節が巡回することを知った。日本では四季の到来が農作物の旬の変わり目を教えてくれた。日本の暦に生活に密着した表現が多いのは古からの人間の知恵が集積され、それが言い伝えられて来たからだろう。これも立派な科学だ。法則性から先を予測することを学び、特に農作物の耕作では定住を始めた人類には、年間の気候の変動は真っ先に必要な知恵だったのだろう。ニュートンもリンゴが木から落ちなければ地球の引力に気が付かないで終わっていたかもしれない。

科学は観察から法則性を見出し、因果律を導くことにその基本があると理解している。つまり、合理性・整合性が一番求められ、それが蓄積された上に現在の科学が成り立っている。従って科学の進歩は画期的な発明を含め、必ず先人が解明した基礎となるものが貢献している。科学と呼べるものには積み重ねがあることに、そしてそれが不可欠なことに気が付くだろう。自然界の現象に興味を抱き、それを合理的に納得しようとする姿勢が科学を育んだとも結論付けられるかもしれない。自然界に法則性が無く、全ての現象が無秩序に日替わりで起きていたのでは法則性という言葉さえ生まれなかっただろう。つまり、昨日飲めた水が今日は石になり、明日は何になるのか判断出来なければ法則性の発見は無理だ。宇宙の誕生も太陽系の成り立ちも、そして我らが地球の出現も、何らかの法則性の上に導かれたと考える方が合理的だ。

つまり人類は、ものの道理を自然界から学び、それを観察・分析したことから科学する心を育んだと推測出来る。科学があらゆる分野に応用出来、かつ理論構成の基本を成すのは自然界の摂理が背景にあったせいだろう。素人にはとっぴに見えても、説明を受ければ細部に至るまで理解したかどうかは別として、納得が行くのはそのせいではなかろうか。乱暴に纏めれば、自然界に人間として存在すること自体が何らかの法則性の結果で、その意味では人のDNAは生れ付き違和感なく科学的解明を追及する要素を持っているとも言えよう。人体の構成は完璧とは言えないまでも、紛れも無く細胞レベルに至るまで合理的かつ有機的な結び付きで出来上がっている。この解明のプロセスを我々は科学的アップローチと捉えていて、その手法はあくまで合理的かつ整合性が無くてはならない。むしろその手法とその結果そのものを我々は科学と呼んでいる。この基本的なスタンスがあらゆる対象に向けられ、各分野での解明と応用が進んでいると理解した方がいいだろう。

ただ、科学の進歩は肯定出来る面だけではないのが厄介なことである。つまり、使用目的によっては人類に悲惨な結果を招く事がある。原子爆弾はその典型的な例だろう。巨大なエネルギーを殺戮の兵器に利用したことで悲劇は生まれた。争いが有る限り、別の言葉で言えば人類が存続する限り、科学の進歩とそれによる負の効果、つまり破滅が同時に存在するという葛藤から我々は逃れる事が出来ない。よしんば、神の摂理や自然の摂理があったとしても、人間には誰もが共有出来る摂理は存在しない。それぞれが自分の正義を持ち、それを互いに主張すれば、争いは永遠に続く人類の背負った正に原罪だ。残念ながら21世紀の時代も火種は方々に残っている。科学の別の分野でも、“果たして人は神の領域まで踏み込んでいいのか”という疑問は既に出ている。科学者の役目は純粋に可能性の追求であろうが、それをどう採用し、活かすかは人類共通のこれから方向性を決めなければならない大きな課題だ。簡単に出る答えではないが、少なくともあらゆる国境や宗教の垣根を越えて、全人類が納得するものを今後見つけなければならないだろう。大変難しい作業であることは推測出来る。

教師の教え方で子供の興味が左右され、それが将来まで繋がる事がある。世界的に有名な学者や研究者も生まれた時は我々同様に言葉も話せない赤ん坊だった。彼らの方向性を決めた何かが幼児期にあったと思うのが合理的だろう。音楽家の家庭では音楽の道が身近に開けていて、そこの子供にとって親の道への選択は比較的やり易い。エジソンは短期間しか小学校に行かなかったが、元教師の母親のお陰で学ぶことが出来た。好奇心が旺盛過ぎて、そのため学校では問題児扱いされ、そこを追い出された彼が、後に発明王と言われるようになったのは学校教育の限界を示しているような気がする。野口英世は無学の母に育てられたが、赤ちゃんの時、手に負った火傷が医学を志した遠因と子供の頃読んだ伝記には書いてあった。

大して能力も無い私の経験でも、子供の好奇心を伸ばしてくれた教師には、やはりそれぞれに忘れられない想い出が残っている。その道で大成するかどうかは別として、少なくとも興味を持って学べたか、それが幾らかでも自分と世の中に役に立っているのかを考えると、子供の頃興味を持ったものへの挑戦は決して無駄ではなかったと思える。

自然科学を学ぼうとする目は人文科学の分野にも共通するものがあるし、何より観察、分析という基本姿勢はどの学問にも通用するだろう。むしろそういった目を持たないため、独り善がりの結論で笑われている政治家・評論家・ジャーナリスト・経済学者がいる。新聞一面に大きく出たデモ集会の写真を国会の予算委員会で見せ、“この島の住民は、ご覧のように全員反対です。”と主張していた党首がいたが、正確には“ここに写っている人達は全員反対だと思われます。”と言うべきだろう。その集会所は島の全員が集まれる広さはないし、参加者の中には野次馬や反対派も混じっていたと思うのが大人の判断だ。もっとも彼女の亭主は「人権派弁護士」を名乗り、立派な人だと思っていたら「加害者の人権を守る」と頑張っている人だった。夫婦してさすが社会的な地位のある人は言うことが我々とは違うと思ったものだった。

漱石の書いた確か「我輩は猫である」に出てくる寺田寅彦と思しき人が、“二点間の最短距離は直線である”という数学の定理は犬でも知っているという主旨の表現があり、餌を投げれば真っ直ぐそこに走っていくことをその根拠に挙げていた。三角形の二辺の和は常に他の一辺より長いという原理は犬でも理解していて、急ぐ時には真っ直ぐに目的に向かう動物の習性を指摘していた。英語でも“Horse Sense(馬の感覚)”という表現があり日本語では”常識“と訳されているが、馬でも幾ら広めの公園と言っても、島の住民が全員集まることは出来ない程度の判断力を表す基準がそれに当たるだろう。学ぶことが互いに有機的に結び付く事を理解せず、断片的な一過性の知識と記憶力で人を選別するとこういった国会議員や弁護士が生まれる可能性がある。本人たちが大真面目な分だけ厄介だ。

かつての総理大臣で、“俺は厚生省の政策論争では誰にも負けぬ”と張り切っていたお方がいた。各省庁では課長クラスが一番油が乗っていてその方面には詳しくて強いらしいから、総理ではなくそこの課長を彼にはやって貰うべきだった。総理に必要なのはそんなディテールでの論争ではなく、大所高所からの判断だ。“良く勉強した”総理とも評価出来るが、同時に“その程度か”とも日本語では表現する。父親も厚生族と言われ二代目としては張り切らざるを得なかったとしても、何せ発するエネルギーの方向性が悪い。彼に関しては残念ながら、とかく気障で格好ばかり付けたがる姿しか記憶に無い。政界にも彼の事を慕う仲間は居ないという噂だった。
他にも本会議場での答弁でページーをとばしていても気が付かなかった総理は“暗愚の宰相”と呼ばれていたが、悲しいことにこの言葉を英訳すると“Foolish Prime Minister”となる。さらに本人は、とかく批判のあった棒読みの答弁を”肝心なのは国会議事録だからこれでいい“と開き直って国民をあきれさせていた。当時闇将軍と呼ばれた実力者の差配によるお粗末な総理だった。

例として出したお方には気の毒だが、“この程度”が政界にも他の分野でも多過ぎる。霞ヶ関で評判の良い大臣はその省庁の言いなりになる人物だそうだ。指示通りに演じた“クイズの女王”と呼ばれたお方もかなり前に大臣になったが省庁の評判は良かった。テレビでも使い勝手のいい評論家は何度でも声が掛かる。限られた時間での纏めや、局の進行に合わせた役目を心得ているからだという。“この程度”を見破れるかどうかは国民の能力に掛かっている。先走りの当たらない予想でも過去の経歴と使い勝手でいつまでもテレビで御高説を国民に垂れ流している元官僚など、本当なら“馬鹿にするな”と我々は怒らなければならないのだろう。

判断力を失くしたのは本人はもとより、そういった人物を使い続ける政界・マスコミ・それを黙って受け入れている国民も同じだと言える。教育の改革を言うのなら、小手先の修正で済ましてはならない。前にも述べたが日本の教育界には今や哲学者の出番が来ている。

前回の「真・善・美」でも触れたように、学ぶということは何が目的かということが分からない限り、辻褄合わせだけで人は納得し、単にハードルを越してきた人を認めることになる。学ぶことの基本を理解していなければ、幾ら社会的立場を確保出来たとしても言っていることは何の役にも立たない事が多いし、むしろ害になる事さえある。

昨今の問題点を見ていて、沢山のキー・ワードが考えられるが、分かり易いのは「仏作って魂入れず」という言葉ではないだろうか。魂の入らぬ仏では何体あっても役にも立たない事を我々の先人は分かっていた。今からでも遅くないから「魂」を皆で考えて見てはどうだろう。そういう目で見ると魂の入らぬ事柄は世間に幾らでもある。指導的立場に居る人や、テレビで顔を売っている人達が魂の入らぬ馬並み以下の“Sense(感覚)”で大きな顔をしているようでは教育を根本から変えなければ何も変らない。

教育とその選別法に少し科学を応用したらどうだろう。馬鹿な発言が少しは減り、そういう人間を判別出来る能力がお互いに向上するかもしれない。

“お茶する”代わりに“科学する”時が来ているようだ。

平成25年5月29日

草野章二