しょうちゃんの繰り言


物差しの尺度

人は常に判断を迫られている。浅はかな判断が身の破滅に繋がることもあるので、古来「美しい花には棘がある」とか、「旨い話には裏がある」といった表現で先人達は警告を発している。女性と金は昔から常にトラブルの主役で、かつその源だったのだろう。守るものを持つ人は日頃疑心暗鬼で暮らさねばならないのには同情するが、実際儲け話に乗って店を潰した二代目・三代目はバブル期に幾らでもあった。名の通った都心の料理屋やレストランが店を閉めたのは株や不動産への投資が失敗し、銀行に差し押さえられたからだと後に聞いた。

株や不動産投資を実質的に顧客に勧めた金融機関は、ある意味バブルの主役だったとも言えよう。不労所得を求める方は、手持ちの資金でやっている限り現金が無くなれば終わりで、火傷しても死ぬ程の致命傷になることはない。不動産担保で博打を打たせれば悲惨な結果が出ることも充分予測出来る。部長職以上の一流企業のサラリーマンには無担保で一億円までなら貸し出した金融機関さえあった。貸す方の節操の無さが被害を大きくし、結果として自身も預金者に未だにまともな金利も払えないほど疲弊した。

規模の差こそあれ資産を持つ人や、銀行が無条件に金を貸してくれる階層に投機で不良債権を抱えた人は私の周りにもたくさん居る。同級生にも商品取引で詐欺同然の手口で騙された者も居る。不労所得はやたらと求めるべきでないという教訓が残ったが、欲に動かされる人間はなかなか学ばない。

ちなみに博打場であるカジノでもアメリカでは負けた客に個人資産の評価に応じて賭け金を貸してくれるが、英国ではカジノが客に賭け金を貸すのは違法で、法律で禁じている。また、アメリカではカジノを意図的に生活圏から離れた場所にかつて作ったが、英国ではロンドンの正に中心地に何軒もある。イギリス紳士はカジノが身近にあっても自己規制が出来るという余裕だろうが、さすが賭け金の貸し借りには歯止めを掛けた。韓国では自国民のカジノ利用は禁止していた。各国のカジノに対する取組みの違いが国情を表している。

投資と投機には自ずと違いがあり、まして博打と経済活動は性質が違うという主張は充分承知の上で考えても、互いに不労所得の追及という見事な一致点が見られる。分・秒単位で売買される株や為替の取引はまともな目には商取引ではなく博打としか写らない。

誰しも、自分の資産を増やしたいと思うのは当たり前で、チャンスと考えれば飛びつくだろう。1990年代にはじけた日本でのバブルは正に一億総不動産屋・一億総株屋と揶揄されたものだった。特に年収の高い医師・弁護士は金融機関の誘いに乗り、株や動産・不動産の投資で失敗した人が続出した。逆に都心ではわずかばかりの土地が地上げの対象になり、サラリーマンが一生働いても手に出来ない金額を得た例も身近にあった。ついでに言及すると現在、ある野党の党首に納まっている国会議員は経済評論家と称してテレビで強気の株の見通しを視聴者に訴え(1989年暮)、翌年見事に大外れとなった。彼の予想とは裏腹に株は大暴落した。総括すればバブルの結果は損と同時に得した人たちも多数出た。

こういった悲・喜劇は金という分かり易い尺度で人間が踊らされた例である。不労所得が品のいいものではないのは分かっていても、人は少数の例外を除いて誰でも安易に飛びつくのを我々は見てきた。教育も、社会的地位も関係なく、むしろ富裕階層や高学歴の成功組が積極的に関わったケースが身近でもたくさんあった。豊かな彼等は銀行が容易に融資した対象層だったのでトラブルに巻き込まれ、反対に貧乏人は金融機関が相手にしてくれなかったので結果として無傷だった。浮利を追った結果、残ったのは浅はかな人間の夢の跡と不良債権の山だった。人は懲りずに同じ事を時が経てばやるのだろう。歴史が教えてくれても自分は例外だと誰しも思いがちだ。

前にも武士は金銭的損得で人生の選択をしないと書いたが、彼等は少数の例外があったとしても基本には筋の通った心構えがあった。今考えてみても価値判断に於いては非常に精神性が高く、今日の我々にも共感を覚えることが多々ある。指導層が儲かれば何でもあり、という姿勢では、その社会は長い歴史の重みには耐えられないのではないだろうか。

例の友人が皮肉な笑いを浮かべて喋りだした。

「受けた教育も社会的地位も金儲けの前には何のブレーキにもなり得ず、金融機関が誘う儲け話に目が眩んだ高学歴の人たちが多数居た事実を忘れてはならない。一皮向けば貸す方も借りる方も学歴に関わらずその程度という話は俺のような落ちこぼれには愉快だが、彼らにはもっとしっかりして欲しいね」

日頃、金融機関に無視され続けている鬱憤を晴らすような彼の物言いには怨念が籠もっていても、言うことは充分理解出来る。

「金の前に人は品が無くなり、時には目先の利益のために知人を裏切ることもある。お互い様と言えばそれまでだが、社会で指導的立場に在る人たちは自分たちだけが有利に生きることのみを優先させていたのでは調和のある社会を築く事は出来ないだろう。一代で資産を造った人間にバランスの取れた生き方をした例は非常に少ない。歴史を見ても富と権力を手にした一族は時間の長短さえあれ、いずれ消えていく。また、たとえ時の権力者が名君であっても後を継ぐ子孫がその能力まで引き継いでいるとは限らない」

彼の言うとおりだが、誰しも金の誘惑には弱いし若い日は競って富も美女も求める。むしろそれが若き日の原動力となっている場合が多い。この現実を否定する訳にはいかないとしても、現状のままで調和の取れた美しい国を築くことが出来るのだろうか。

世界的レベルで人が活発に交流すると必ず摩擦が生じる。一般的には主にマナーの問題だが、我々日本人も海外旅行の黎明期に世界から非難を浴びた経験がある。その例として、ホテル内をステテコ姿で歩き回り、買い物して支払いの時腹巻から金を出すといった当時の日本ではあり得る習慣だったが、西洋では受け入れられなかった。また、みんなが利用するレストランでもツアーの仲間内で声高に話し、顰蹙をかっていた。しかし、数十年後の現在、日本人は最もマナーの良い観光客として世界各地で受け入れられている。それは、我々日本人が社会性や公徳心を世界的な基準にいち早く修正出来たからだ。基本さえ出来ていれば修正は大して問題とはならない。ただ、これだけの事さえ学べない国があるのも事実だ。自分さえ良ければという発想が全身に沁み込み、彼らに公徳心や民度という意味を伝えることさえ不可能に思える。彼等は現在世界各地で顰蹙をかっている。

こういった日常のマナーの問題は、いずれ本人達に恥ずかしいという気持ちが生じた時に修正が可能になるだろう。経済的損得を伴わない問題は民度さえ上がれば解決することは難しくない。時間は掛かるだろうがこの尺度は比較的修正可能だ。

問題なのは利害が直接絡んでいて、公徳心や自制心といった穏やかな表現で嗜める事が出来ない場合だ。そこに巨額な金が動く時、あらゆる手段で自分たちが利益を上げ続けられるシステムを守ろうとする。

社会の仕組みの中で、不労所得を含め通常の労働対価としては有り得ない巨額の利益を上げる人達が現れてきた。平等を謳う社会主義国の指導者階層が貯えた莫大な私財、自由経済を標榜する国での一部の人たちの途方もない年収は常軌を逸していると言ってもいいだろう。特に資本主義最先端の国では金融出身のトップが時の政権に入り込み、また逆に政権から金融の世界に天下りして金融の現制度を守っている。そこには政治を巻き込んでの金融支配の様子がえげつなく映し出されている。そんな国のやり方をグローバル・スタンダードと称して有難がる理由はない。本国でも少しずつではあるが疑問の声が上がり始めている。価値の創造を伴わない富がその影響力のみで肥大化し、その中にあって飽くなき利益追及を続ける人達を今迄誰も止めようとしなかった。だが、その反動の兆しは少しずつだが見えてきつつある。

伝統や歴史の無い社会の強みは新しいことへの躊躇ない挑戦だ。効率を求めてひたすら邁進し、勝てばヒーローとして賞賛される。ただ、歴史・伝統・哲学という人間を磨く機会に恵まれないと、金儲けは出来ても尊敬されることはない。宗教の縛りがあって、かつては社会還元が寄付という名の下で行われていた国でも、貧富の差はとてつもなく拡がっている。簡単に言うと、そこではバランスの取れた国をもう創れなくなっている。怖いのは我が国を含め、その影響が世界中に及んでいることだ。これは伝統にも歴史にも、そして哲学にもあまり縁の無い国が資本主義社会の下、金儲けという尺度の物差しで全てを支配しているからだ。

どこの国でも人の金銭欲は歳をとっても衰えることはない。幾つになっても儲ける機会があれば人は簡単に飛びつく。食欲や性欲が肉体の老化と共に衰えるのとは対照的に、権力欲や金銭欲は一向に衰えない人が多い。資本主義経済の本場米国では前述のように政治と金融が癒着としか言いようの無い結びつきであらゆる分野での金融支配が続いている。価値の創造より資本が利益を生む仕組みに没頭しているとしか思えない。車・鉄鋼での、かつての圧倒的優位性は今や見る影も無く、軍需産業とIT部門で世界をリードしているに過ぎない。そこでも日本の基礎技術の援護が無ければ自国のみでは生産出来ない仕組みになっている。

金融での資本の支配が結果としての貧富の大変な格差を生み、今や大きな社会問題になっている。本来の価値を創造する姿とは違う為、米国人も戸惑っているようだ。経済学理論として資本の役目を理解していても、影響力の大きいこの巨人は人類が創造した他の価値観を破壊する位の力を持ち、かつ、なまじっかの自制心は消えてしまう魔力も持っている。素人の目からも野放しにしていていいのか疑問に思うことが多い。

我々が物差しの尺度を、単に儲ける為の経済の単位だけにしてしまった時、今日の世界が出来上がった。情けない事に、それでもこの愚かな仕組みを有難がるアメリカかぶれの学者や評論家が日本には幾らでもいる。金融に支配された世界が本当に人類に貢献しているのかどうか冷静になって考える時ではないだろうか。みんなで渡れば怖くなくても、それが正しい方向かどうかは判らない。

経済を勉強して無くても、今ある世界がおかしいと感じる感性は持ち合わせている。人類が持てる者と持たざる者の戦いであることは歴史が教えてくれるが、21世紀に生きる我々には経済の原則を超える理念が今や必要ではないだろうか。

前にも何度か述べたが、不安定な社会は富める者にも貧者にも望まれるものではない。社会主義を提唱する気はなくても、この穏やかな日本で初任給が20万円レベルの時、年収10億の経営者は要らないだろう。本場ではこんな差ではなく、トップは桁が違う収入を得ている。そして同時にホームレスが居る。

配分の物差しの尺度をホームレスも交えて再構築する時が来ているようだ。

 

平成26年6月8日
草野章二