しょうちゃんの繰り言


楽しむための作法
(伝統芸能の教えるもの)

伝統芸能と言われているものは、楽しむためにはまずその対象を知ることから始めなければならない。沢山の約束事があって、それを学ぶのも、その道の通(つう)に取ってはこたえられないそうだ。落語の世界でも単に面白いだけの話には素人は笑っても、通はちゃんとした話でないと敬遠する傾向がある。“先代の方が良かった”とか、“いや、これは何代目の方が良かった”とか、誰を選ぶかで自分の鑑賞眼も問われかねない。落語のみならず、歌舞伎や他の伝統芸能全てに通用する見方だろう。まず、基本となるちゃんとした型があって、それに自分なりの味付けをした後、観客に披露する。そこが伝統芸能と呼ばれる由縁かもしれない。これも芸能の楽しみ方だ。客の眼が肥えれば芸人もさらに自分の芸を磨かねばならず、この客との緊張関係が芸を芸術の領域まで高めたのだろう。

知っている話を何度も聞く習性は人間には確かにある。子供の頃流行っていた浪曲はストーリを知っていても、広沢虎造の“清水次郎長”や“森の石松”を父と一緒に何度も聞いた覚えがある。そう考えれば、芝居やオペラも、そしてシェークスピア劇も同じで、この人間の習性には国境が無さそうだ。同じ場面で泣いたり、笑ったりするのが楽しみで観客は見に来ているようだ。そこには単なるストーリの展開だけではなく、演じる人の“芸”に金を払って楽しんでいる。歌でも歌手はその都度新しい曲を披露しているのではない。同じ歌を何度聞いても、ファンには贔屓の歌手の歌はこたえられないようだ。

伝統芸能は芸人の努力はもとより、実は熱心なファンが育てているとも言える。厳しい目の肥えたファンの評価は何よりの芸人の尺度となり、彼等の到達すべき芸の高さを示唆してくれている。これは何も芸能の世界に限った事ではなく、例えば料理の世界でも味の分かった客が料理人を育てている面がある。我々は極めて高い文化の水準を庶民レヴェルでも維持していると言っていいだろう。

かつて、松下幸之助は自社の社員に「お客さんに褒められたことは忘れてもいいが、クレームは大事にしなさい」と教えている。彼は客のクレームに対し、「商品を買って使用して下さったお客さんが、金を払った上でモニターまでしてくれている」という捉え方をしていた。メーカーは客の不都合や不満を取り除いた製品を最終的には作るべきだという信念からだ。自分達では気が付かなかった事を、客から教えて貰う事は充分あり得る話だ。非常に合理的な発想で、この精神はどの分野にでも通用するだろう。

切磋琢磨という日本語があるが、広辞林には「(玉・石などを削りみがくように)知恵・学問を練りみがいて励むこと。互いに励まし合い、努力すること」と説明してある。伝統芸能と呼ばれているものは、演者と観客が「互いに励まし合い、努力している」ように私には見える。テレビで落語家が分単位の短い持ち時間に面白い事を喋るのと、演芸場で足を運んで来た客を目の前に本格的な噺を独演するのとでは全く違うものがある。

また、時代を反映したストーリが現代には合わなくなった出し物は幾らでもあるだろう。貧乏長屋の落語は、家賃を溜めても店子の面倒を見る太っ腹な大家の存在なくしては成り立たない。家賃滞納は、現代ではすぐに裁判にかけられ追い立てられるだろう。住人達の調味料やお米の貸し借りも、貧乏長屋では日常茶飯事だが、こんな話を若い世代はもう実感として捉えることは不可能だ。実感できる背景が無ければ、その環境で人間の醸し出す雰囲気を真に味わう事は出来ない。人情話の背景が無くなれば、語り部が幾ら優秀でも観客に評価して貰う事はないだろう。良し悪しは別に時代と共に変わるものは幾らでもある。

全ての笑いや人情物語りは、人間の存在なしにはあり得ない。美しく雄大な自然さえ、それを鑑賞する人間が居て初めて評価される。我々は全て人間との、正確に言えば自分との、関わりで物を見、そして判断している。旧い歴史は学ぶことは出来るが、その時代に自分が存在して実感する事は出来ない。分かったつもりでいても、個人的経験から直接知ることなど全体から見ればほんのわずかでしかあり得ないだろう。前にも述べたが、科学の世界では先人の成果の上で次の発見なり、改良が為される。だが、個人の知識や知恵はその個人が生まれた時から新たに育み増やすしか方法はない。世代の交代とはこの乳児からのゼロ発進の繰り返しで、我々が経験出来るのは出会った時代での出来事にしか過ぎない。

しかし、伝統ある文化や芸能は代々受け継がれ、又ある時は新しい伝統の始まりになる事もあるだろう。必要と思われるものは教育という名の下に伝承されるが、そこから派生して同時に我々は生きる価値観も学ぶことになる。こうやって残るものは残る。
育った環境が変わっても普遍の価値を持って変わらないものもあるに違いない。同時に時代に見放された多くのもがあるのも事実だ。

たかが芸能として考えても、それに携わる人が居て、又それを支える人が居る場合、互いが真剣であれば「たかが」と言っておれない領域まで芸能が昇華出来る。人間だけが成し得る業(わざ)だろう。

私が高校時代(1950年代中期)「“リーダーズ・ダイジェスト”を読んで読書したつもりになるな」と言った教師が居た。当時はピンとこなかったが、今思えば全くその通りと言うしかない。ダイジェスト版はあくまでダイジェスト(要約)で、漫画や劇画で歴史を知るのと同じだ。クイズ番組や入試で答える程度の知識は得られても、それ以上の成果はあまり期待出来ないだろう。

日本で、現在まで残るあらゆる分野の伝統的芸能や業は、当事者の拘りとそれを追っている客の拘りがあったからだろう。そういった目で見直してみると、日本にはいいものが沢山ある。惜しむらくは後継者不足で衰退しているものも出てきているが、国民総意の下でもう一度見直して欲しい。大きな組織で安定した人生も悪くないが、生きがいにも通じる世界が開ければ、その方にも価値を求める若者が出てくる可能性がありそうに思える。

アジアの国から突出した数のノーベル賞受賞者を出している日本は、受賞の対象となったそれぞれの分野で、間違いなく人類に貢献してきた実績があると言える。今でも多くの人達が専門の分野で研究を重ねられていることだろう。成果を評価し、サポートする姿勢は何時の時代でもどの分野にでも必要だ。まだ、本物の人達が頑張っているのは応援団として、ただ嬉しい限りだ。正に拘る国民性が作り上げた良き伝統だろう。

産業革命以降、一般に流通する商品は、自動車を含め大規模工場での大量生産方式で市場に出されるようになった。例外として付加価値の高いブランド品は未だに経験豊かな職人(プロ)集団によって生産されている。但し、このマーケットは極端に狭く、ハンドバッグの類を除けば一般には手の出せるものは無いと言ってもいいだろう。少数の成功した人達の愛好品となっている。この大量生産の傾向は食べ物の分野にも広がっている。

富の格差が広がると、ごく少数の資産家と多くの貧困層という社会構造になり、一回の食事を500円以下に抑える人達が増えたという。安い食事には安い理由があるのは当たり前で、素材の安全性に関しては明らかにされないことが多い。何らかの不正事が発覚した時話題になる程度だ。繁華街の通りで店舗を構え、人を使って500円以下の食事を客に提供するのは、私には儲けを諦めてほぼボランティァの精神で運営されているとしか思えない。それでも利益が出ているとすれば、素材費は極端に安くなければならない筈だ。自分の口に入れるものに対して、あまりにも消費者は無防備ではないだろうか。

これは私が商売の仕組みを知らない故の感想かもしれない。ただ、現実は500円のみならず、200円台、300円台の食事も提供されている。それしか払えない哀しい消費者の背景があって、の選択かもしれない。良し悪しの判断の前に、消費者の“生き延びる”という選択があれば、黙って引き下がるしかない。その、安く早く提供するファースト・フードが、最近元気がないとインターネットのニュースに出ていた。東日本大震災の時、首都圏の帰宅難民を背に早々と店を閉めたチェーン店が客にしっぺ返しを受けていると思っていたら、そこで働いている店員が「自分だったら、この店で作ったものは食べない」と、これもインターネットのニュースに出ていた。当事者たちは、もうこの企業の限界を知るべきだろう。今までの方式では、彼等の役目は終わったとしか言いようがない。

わが国には伝統的に他人を慮る文化があった。切磋琢磨もそうだが、叱咤激励も実は他への応援歌なのだ。私達が働き始めた東京オリンピックの時代(1964年)と比べれば、個人は確かに豊かになっている。産業が発展し、皆が昇給の恩恵に浴した為の経済効果が目に見えて現れた結果だ。あの成長時期の国民の一体感は、はたしてまだ残っているのだろうか。

アメリカ主導の経済原理が所謂グローバル・スタンダードとして我が国を席巻し、経済的弱者はことごとく社会から葬られようとしている。本場でさえ問題が生じている経済主導の社会体制は、歴史と伝統のある我が国が猿真似して従う必要は全くない。むしろ、世界に先んじて生きがいのある社会の構築を提唱した方がいい。アメリカから来た金融関係の30代と思しき若者が「日本に教育(Educate)に来た」と数年前テレビのインタービューでほざいた時には怒るより笑ってしまった。その伝で、売り言葉に買い言葉で彼に対応すれば「伝統と歴史の無い国に生きる哲学を教えに来た」となるだろう。

目的と手段がはっきりしているのは誰にでも分かり易いという利点はあるが、往々にして奥行きが無い事がある。経済と軍事力だけでは、もう世界をコントロールする事は出来なくなっている。社会から集めた富は社会に還元すれば問題は少なくなる筈だ。単純な図式だが、これを個人に期待する事は無理だ。皮肉なことに多くの場合、持っている人間ほどまだ欲しがる傾向がある。

四季を肌で感じて生きて来た日本人は、幸いに自然に対する感受性も豊かで繊細な目も養われている。私達が培った伝統や文化は今こそ活かして出来るだけ多くの人が共存出来る社会を構築するべきだろう。品の悪い経済支配の社会は誇り高い大和民族には適さない位の気概で当たれば不可能ではない。どこかで大きな舵を切る時が来ている。粋な生き方をしている落語愛好者なら、アメリカ追随の経済学者よりましな掛け声を作法に則って発してくれるかもしれない。人間の基本的な感情の動きは、少々の時代の変化でもびくともしない継続性がある。哲学者と一緒にその点を探れば、経済学者に任せるよりいい社会が出来るかもしれない。不満の鬱積ほど社会に害になるものは無い。

歴史の時間に耐えられたものは、目先の姑息な利益より遥かに人に訴える物を持っているに違いない。伝統芸能がその事を我々に教えてくれている気がする。

平成27年2月5日

草野章二