しょうちゃんの繰り言
政治の役割 |
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序 戦後日本の民主主義の基本は国民全員参加の選挙政治にあり、国民は自分達の議会での代表や行政の長を直接或いは間接的に自分達の意思で選びます。民が主であることを定義するため、日本語ではデモクラシー(Democracy)のことを“民主主義”と呼んでいます。もともとはギリシア語のDemos(人民)とKratia(権力)から成り立っていて、正に“人民の権力”を意味するのがデモクラシーなのです。従って訳語である“民主主義”という表現には、我らが先人の知恵を絞った後が窺えます。明治の“自由民権”、そして“大正デモクラシー”という言葉が残っているように、民主主義は戦前にもありました。しかし現在の国民全員参加の制度(選挙)は第二次大戦後から始まったものです。 民主主義制度の功罪は一言で断じるのは難しく、かつてドイツではヒットラーを国民の意思で選択しましたが、その手法はあくまで民主主義の原則に従った手続きにより、国民の選挙で決められました。その教訓として彼の国では第二次大戦後、首相を国民の直接選挙で選ぶことを制度上禁止しました。ナチス全盛期、ドイツのエリート階級の“我々は今、無関心の代償を払わされている”という自省の発言が今の日本にも重くのしかかって来ています。ナチスの中枢には所謂ドイツでの伝統的なエリートは参加していません。リーダーとなるべく鍛えられた人達が政権に参加していなかったのです。“無関心の代償”という発言にはそういった背景があるのです。 また、国民の政治意識が低い場合、選挙が単なる人気投票に陥る傾向があり、イギリスでは「国民は自分のレベル以上の政治家(原文ではCabinet−内閣)を選ぶことが出来ない」という格言さえ生まれました。 選挙制度が民主主義の根幹をなし、国民が選挙で自分達の代表を選んでいる限り、多数決で選んだ代表達の成果については最終的に選んだ選挙民、つまり我々国民に責任があります。つまり我々国民は、もし政治に不満がある場合、その最終責任はそういった政治家を選んだ自分達に帰属するというパラドックスを抱えているのです。従って政治の不毛を嘆く前に、選んだ自分達の不明を嘆かねばなりません。自分の投げたブーメランが自分に戻って来ただけの話です。民主主義はとかくコストの掛かる効率の悪い制度だと言われる所以です。 政治家と言葉 ある県の知事は選挙戦の最中、「退職金は要らない」とテレビのインタービューに答えていました。小泉政権当時、知事の退職金の多寡が問題になり、当選していたその知事にインタービューしたところ「私は頂きます」と前言を翻していました。その矛盾を突かれた時「そんなことは言っていません」と否定し、その直後に「退職金は要らない」と言った時のビデオを流されましたが、それでもその後の選挙で見事に再選されました。出る方も選ぶ方もこの程度のレベルかと妙に納得した覚えがあります。発言する方の言葉の軽さと同時に選ぶ方の選球眼の甘さは、まさにイギリスの格言に揶揄されても仕方ないとの思いをしたものです。ちなみに彼は今でも首都圏で現職(知事)を立派(?)に務めていて、テレビでは相変わらず高邁な自説を披露しています。言葉の重みに対する感性が、発した方も受けた方も互いにこの程度の鈍い場合はご都合主義で何ら問題ありませんが、本来政治家は言葉が全てで、自分の発言には責任が伴うことを念頭に置かねばなりません。 最近の首相の交代劇も彼の発した言葉が、彼の真意はともかく、ことごとくその場限りの発言と国民に取られたからでしょう。 舌鋒鋭く政敵を批判した場合、同じことが自分の陣営で起きたら、相手に要求したことを自分も実行しなければ何の説得力も持ち得ません。もしその結果、責任を取るとしても明らかになった時点で直ちに実行しなければ意味がありません。いろいろ事情があったにせよ、「秘書の不祥事は議員の責任」と論じ、「私が貴方の立場なら議員もやめる」と迫った迫力は自分も直ちに従って初めて国民に理解されます。自分の発言に対する責任の取り方ではなく、時間が経過した後、選挙を控えての党内からの不満で辞めるのでは彼の政治家としての適性に根本的な疑問が残ります。彼の発言(主張)に対する信念の無さが国民に見透かされたのです。 身近に居る人であれば常日頃の言動からその人の資質と人柄は分かります。従って互いに目の届く、話の聞こえる範囲の集団では、リーダーを務める人が例え口下手であったとしてもあまり違和感なく役目を果たしています。ところが市・県・国レベルの代表を選ぶ時は必ずしも個人的に良く知っている人を選ぶ訳ではありません。 業界・組合・その他の組織の代表として出てきた人達には、組織を守るという目的や、その個人的上昇志向に執念があったとしても、政治を委ねるに相応しい人物かどうか疑問に感じる人が居るのも事実です。 一方、政見放送や政治信条を伝える出版物を信じて投票したとしても、上に挙げた例のように言葉の軽い人が多数混じっているのも私たちは経験上知っています。 かつて中国では君子の口約束が最高の契約とされていました。西洋式の契約書に頼り切っている現代では過去の遺物として一顧だにされないでしょうが、口約束の本質を考えてみる価値は充分にあります。特に政治の世界では選挙民は政治家の言葉を信じて投票するより他に方法がない訳ですから、政治家は自分の言葉が意味するものと、発言に対する責任を常に自覚していなければなりません。そういった自覚の無い人達に、例え当選の可能性があっても政治家を目指してもらっては困るのです。本来、有権者はそこまで判断して投票するべきなのです。 政策の整合性と実現性 公約が最近ではマニフェストと呼ばれるようになり、各党自分達の主張と選挙民との約束を羅列するようになりました。支持者(得票)を増やす為か、国を良くする為のスローガンなのかを選挙民は賢明に判断しなければなりません。 私達は社会が悪い、国が悪い、議員が悪いと言う前に、各個人が社会や国を構成しているのは自分なのだという事を改めて認識し、その悪い原因は先に述べましたように最終的にはそういった代表を選んだ自分達にある、という事実をもう一度考えてみるべきです。 実現不可能な公約は公党の公約として意味を成すのかどうか、そして人に犠牲を強いるなら、まず自分達が改めなくては説得力が無いのではないか。高速道路無料化が財政的に実現可能なのか。また、子供手当が財政的に永続性のある政策になり得るのか。公務員の削減を言うのなら、議員定数の削減も同時に示すべきではないのか。給与のカットを言うならば、自分達もどの位カットするのか示すべきではないのか。こういった考察を各公約について私達がそれぞれに注意深くやってみる必要があります。何より民主主義(民が主)を唱えるのなら、使用人(公務員)の給与が雇い主(納税者・国民)より高いのは、如何なる理由かを政治家は国民に対して明らかにしなければなりません。説得力のない皮相的な口当たりのいい政策をいくら出されても、何の役にも立たないし何にも変りません。 戦後60年以上も外国の軍隊が日本に基地を持つのは独立国としては異常なことです。ただアメリカと安全保障条約を結び、いわゆるアメリカの核の傘の下で日本の平和が守られていた事実は認めなければなりません。戦後一度も戦火に見舞われなかったのは平和憲法があったからではなく、アメリカとの日米安全保障条約が機能していたからです。 ある与党(当時)の党首は日本が戦争に巻き込まれなかったのは憲法9条のお陰であると国会で答弁し、持論の米軍基地国外移転を支持者に約束していました。米軍基地の国外移転を主張するなら、現在の防衛費予算を何倍かにして、自国は自分たちで守るという姿勢が無ければ主張の意味がありません。憲法の制約があるため、日本は米国に頼らざるを得なかった歴史的現実があります。政治家であればこういった背景の事実認識には正確を期すべきでしょう。国家の安全保障に関しては、感情論としか言えない公約は小学校の学級委員会で通用しても、国家レベルでは単なる無責任で、ある意味国家の安全を危うくする可能性さえあります。その党首の主張が通らず、連立政権離脱の折、驚いたことに“筋を通した”とその党首はマスコミから評価されていました。通す筋にそれなりの意味があれば別ですが、少し物の分かった大人の判断として今回はその党首も、また評価したマスコミも、ただお粗末と言うしかありません。もともと2%にも満たない選挙民の支持で選ばれた政党に、大臣としてのポジションを与え、国家の安全に関する案件にキャスティングボートを握らせたことに根本的間違いがあります。どういう主張も党として許されていますが、支持率2%以下という数字は自然界では誤差の範囲として扱われているものです。無責任な野党の主張ならいざ知らず、政権与党の提案した政策は整合性と実現可能なことが絶対に必要なのです。 政治に於ける理念と実践 戦争反対・平和愛好等々、誰もが反対できない提言があります。人間社会の基本をなすものは国籍の如何を問わず共通理念として共有され、今さら声高に唱えなくても誰もが分かっている事です。こういったお題目を並べていれば平和が保障され、戦争が無くなるものではありません。家庭内でも、学校でも、職場でも、地域内でも争いごとの種は尽きません。同じ宗教内でも、平和を掲げる団体間でも争いはあります。人類の歴史は争いの歴史とも言えて、地球規模では、かつて戦争・紛争の絶えた時期はありません。この人類に与えられた永遠のテーマには、理念を掲げただけで“戦争反対”をいくら主張しても何の解決法にもなり得ません。国の安全を維持するのは実は大変なコストと犠牲が伴うものなのです。想定されるあらゆる事態に備えていなければ国の安全は守れません。 つまり政治家とは理念を唱えるだけではなく、現実への対応を常に考えていなければなりません。これは国家間の争いに関する問題だけではなく、あらゆる政策に共通しています。ただ国家の安全はいろいろな問題の中で最優先の課題ですので、国を預かる政治家は充分に心して対処しなければなりません。 過ぎたる福祉政策が国民の活力を奪った例は有名な“英国病”を出すまでも無く、制度があれば悪用する国民が出てくるのは洋の東西を問いません。国民は自立することが大前提として求められ、それが何らかの理由で適わない人達にのみ国は手を差し伸べるべきです。 国民から委託された税金と言う財源をどういう順序で、どの位の予算で仕切ればいいのかを判断するのが政治なのです。 国のあり方、社会のあり方の根本理念をどうするのか。国防、外交、教育等々、国の基本になるものをどう組み立てるのか。そもそも今の税制のままでいいのか。又、憲法は改正すべきかどうか。こういった基本的な方針は政権党が代わる度に変えるものではありません。革命でもない限り、国家間の約束事も継承するのが当然です。 民意というものは残念ながら移ろい易く、時として雰囲気に流される傾向があります。民意が選んだ政治家に民が翻弄されて来た歴史があります。つまり民主主義のコストというのはこのことを指しています。効率が悪いというのもここから来ています。誤解を恐れずに言えば、民意は単に世論の指標に過ぎませんし、絶対的に正しく、間違いが無いとは決して言えません。従って政治家は民意を斟酌しながらも、普遍的に通用する理念を政策の根本に据えなければなりません。「次の選挙で落としてもらって結構です。どんな反対があろうと私はやります」というのが本来の政治家のあり方です。国家百年の計に必要であればこの位のことは言って貰いたいものです。政治家に形而上・下、つまり理念と実践が必要なことは言うまでもありません。政治家は理念を唱えると同時に決断も下さねばならないのです。誰でも満足する政策なんかあり得ないことですが、それでも最大多数のための決断が必要になります。その決断を民意だけに頼っていけませんし、民意に迎合するだけでは決断とは言えません。 伝統的日本政治の手法とその終焉 明治維新は日本にとって正に革命的変化の時代でした。そういった時には、しがらみを背負った連中(大名など幕府高官)は動き辛く、活躍したのは自由に活動できる若き下級武士達でした。欧米列強に“追いつけ・追い越せ”を旗印に近代化への道を歩む時、政策の重点は当然国力の充実が優先されます。学校教育は欧米、特にヨーロッパを手本として基礎が作られ、結果として必然的にいわゆる文献学者を育てる制度となったのです。自分の意見や新説より、世界的権威の何々博士の著書の何ページにその話は出ていると諳んじている方が優秀だと判断されています。欧米の知識の習得が一番の目的であり、学ぶことが極めて単純化されていて、その伝統は未だに続いている面があります。途上期には確かに効果があり、社会体制の構築、産業の振興を図る時も分かり易くかつ効率のいい方法をとなりました。国が発展途上にある時に機能した制度はそれなりの理由がありました。トップグループを走る人達(先進国)の真似をしていれば良かったのです。手本がある限り迷いが無く、国民の識字率の高さや勤勉な性向も旨く機能して、近代化のスピードには目を見張るものがありました。鉄鋼業・造船業もその創成期には資金力の無い民間では手に負えず、官営でスタートして、後に民間に払い下げられています。 官僚と言われる人達は日本近代化の黎明期、及び第二次大戦後の復興期にはこの官主導の方法で非常に成功を収めてきました。一言付け足せば、鉄鋼業・造船業が民営になった時ただの一人も天下りをしていません。官と民の役割を峻別し、民で出来ることは全て民に移管しています。こういった成長期の迷いの無い時代には政治もやり易く、具体的なことは官僚に任せておけば旨く運びました。その代わり国民の生活は幾らか犠牲になり、預金は基幹産業へ優先的に融資され、一般預金者は住宅資金、中小・零細企業では設備・運転資金の調達に苦労したものです。その傾向は未だに続いています。 この成長の図式が働かなくなった時、つまり経済成長が最盛期を迎えた後の方向性が政治家にも官僚にも出せなかったのです。円の価値が高まれば当然国際比較の労働単価は上昇し、製品のコストにも影響が出ます。民間ではオイルショックを乗り越え、円高も乗り越え企業努力の限界まで挑んで生き残ってきました。対応できなかった企業・産業は消滅しています。一方コスト意識の無い官僚を始め、国・地方の公務員は成長期の組織・運営を温存したままで危機意識は民間ほどありませんでした。気が付けば先程述べましたように、使用人(公務員)の給料が雇い主(納税者・国民)の給料より高くなっていたのです。数字の取り方にもよりますが、概略使用人の給料の方が雇い主より5割位多くなっています。 また、戦後日本が経済の分野にのみ集中し、それなりの成果を収めたのは国防の基本をアメリカに任せたおかげと言えるでしょう。このような環境で育った日本人には、基本になる国の安全に対してどうしても鈍感に成りがちです。自由・平等といった権利が自分たちで勝ち取ったか、与えられたかによって国民の理解が大いに違ってきます。つまり、公務員のみならず、国民も自分達が立っている足元を充分理解しないで、表面的な経済の繁栄に身を任せていただけ、ということに早く気が付くべきなのです。 本来政治家がやるべき役目を官僚に丸投げし、政治家は自分が当選するための効率のいい予算の運用をやっていたのです。地元の道路・橋・ダム等の建設は選挙戦で大いに効果がありました。現在の自民党の敗北はここに原因があります。コンテナー船の母港(ハブポート)となるべき施設は未だに作られず、その代わり地方に殆ど利用されてないコンテナー船用の港が作られ今では魚釣りの名所となっているところさえあります。かつて神戸・大阪・横浜・東京がアジアの中心だった面影は全くありません。空港もハブ空港としての役目を果たせる空港が無く、数だけやたらと増え(約100)、韓国・シンガポールの後塵を拝しています。国家としての戦略が無く、予算がいわゆる実力者と言われる議員に恣意的に使われた結果と総括するしかありません。 成長を遂げた後の将来図は実は一番難しいのです。予定調和に慣れ切った人達と、自分が当選することしか関心の無い人達の組み合わせでは結果は明らかです。今日の日本の実態がそれを良く象徴しています。断言しますが、過去の成功モデルはもう今の日本には合わなくなっています。政も官も根本的に変わらなければ日本の将来はありません。 国を支えるのは 本来国家と国民は対立するものではありません。ただ、個人はほっておけば自分の利益を最優先させ、特に国が相手の場合、道路・空港等の建設の際、地権者(個人)は取れるものは出来る限り取ろうとする傾向があります。これは何も日本に限ったことではなく、従って国にもよりますが公の目的に使用する時、土地収用法がかなり厳密に適応されています。ドイツでは新しく鉄道が建設される場合、公表した日から一年遡った地価で土地を買い取ります。制度が確立している為、日本で言う“ごね得”はあり得ません。フランスではシャルル・ドゴール空港を建設した時、地権者はたった三人で、買い取り価格も何ら揉める事はありませんでした。国・国民の姿勢として公共の利益に寄与する建設物に協力するのは当然というコンセンサスと運用上の制度が出来上がっているのです。一方日本では道路・鉄道・空港(成田)の建設が少人数の地権者のため大幅に遅れ、そのためコストも時間も掛かり、結果として納税者(国民)にとっては必要以上に高いものとなっています。ごね得という言葉が定着するほど日本人の精神は劣化したのでしょうか。こういった風潮は必ず蔓延します。ごね得、それによって生じる不労所得は元来、日本では非常に恥ずべきものでした。しかし今の日本ではこういったことの積み重ねで国の財政は膨らみ借金が増えているのです。 天下りも社会が必要とし、妥当な賃金であればこれほどの非難の声は上がらないでしょう。ところが“渡り鳥”と揶揄されているキャリヤー組の天下りは、退官後の短い期間に一般勤労者の生涯賃金に匹敵、或いはそれ以上のものを貰っています。その原資は言うまでもなく、雇い主の税金です。彼らのどこに国を支える自負と志があるのか分かりません。 政治家が悪い・役人が悪い・社会が悪いと言う前に、国民一人一人がもう一度考えてみることです。子孫に誇れる社会・国を我々は残し得たかどうか。 政治家も、役人も、そして国民も“国を支えるのは自分達だ”という責任と自負を、それぞれに持って貰いたいものです。こういった基盤が無ければ、どの政党が政権を担ってもうまくいくはずがありません。政治家、役人、国民が物欲の塊になった時、自分さえ良ければという風潮が蔓延した時、国は滅びます。何故ならそこには国の土台となる共通の理念が無くなっているからです。民主主義に於ける個人の自由とは、際限の無い個人の欲望の追求を担保したものではありません。公共の為に自分を犠牲に出来る人間を多く持てることが、その国の発展を左右します。志とは、そういう心構えのことを言うのではないでしょうか。 今後の政治のあり方 あるIT関連の創業者が“人間の心も金で買える”と豪語していました。建前論ではいざ知らず、今の日本をよく見ていると半ば納得したものです。誰もがそんなことではいけないと思いながら、実際は彼に見透かされていたのです。 理念を無くした経済活動ほど人心を蝕むものはありません。分単位・秒単位で行われる株の取引が正常な経済活動だとは誰も思っていません。まして会社はこういった超短期の株主の物でもありません。取り締まる方法が無いため、実質公営ギャンブルに成り下がっているこういった株取引を認めざるを得ないだけです。為替の取引でも同じことが言えます。アジアの国の国家予算に匹敵、若しくはそれを上回る資金力を注ぎ込み、為替取引で巨万の富を得たジョージ・ソロス率いる投資会社がある一方で、当時シンガポールを始め、タイ・韓国は為替問題で深刻なダメージを負いました。為替投資会社は、為替の交換レートが単純に上がるか下がるかを読み、顧客から委託された巨額な資金を動かして利益を生んでいます。つまり丁半博打を合法的にやっているだけです。何故なら、誰かが勝てばその分誰かが負けるのが為替相場なのです。為替取引に占める実需は10%以下だと言われています。残りの90%以上は過剰流動性の飽くなき不労所得の追及に利用されているのです。こういった資本主義の不健全な部分はその制度の性質上どうしても避けられません。少数とは言え、何十億円という年俸を稼いでいる人が居る一方、同じ社会にホームレスが居るのがアメリカの現実です。経済を最優先、わかり易く言えば違法と認定されていない限りどんな方法でも稼いだ者が勝ち、といった価値観をグローバルスタンダードと持て囃す必要はありません。 同じアメリカの先人で慈善家としても有名な鉄鋼王カーネギー(Andrew Carnegie)は“財産を持ったまま死ぬのは罪悪である(The rich should distribute their wealth during their life time)”として、その遺産の全てを寄付しています。遺族には遺産は一切渡っていません。わが国でも“子孫に美田を残さず”と言った西郷隆盛が居ます。ただその精神を受け継ぎ、実践している人がどれ程いるかは定かでありません。 人類はあやまちから学ぶしか方法がありません。ケネディー大統領の父(Joseph P. Kennedy)が証券取引委員会(Securities and Exchange Commission=SEC)の初代委員長に選ばれた時、国民の間で大ブーイングが起きました。彼はあらゆる内部情報を通じて株で巨万の利益を上げ、1929年の暴落の寸前に売り抜けていたのです。株の暴騰から暴落で終わったアメリカ経済の余波は世界大恐慌へと連鎖の輪が拡がりました。行過ぎた株の取引が発端になった訳ですが、その反省からSECが出来たのです。公正・透明な取引を目指しJ.P. ケネディーがその監視役の親玉に指名されました。まるで強盗に強盗対策をやらせるようなものだと揶揄されましたが、裏道を知り尽くしていたから最適任だと妙な持ち上げ方もされたものです。 カーネギーもまた鉄鋼業で巨万の富を得ましたが、彼の経済活動が遠因となり独占禁止法が生まれました。利益の飽くなき追求から、公正で秩序ある競争へと改革されていったのです。しかし、こういった改革は全てが後追いにならざるを得ません。 資本主義社会では富めるところへ富は集中する傾向があります。金融機関も金持ちには金を貸しますが、赤字の会社、資産のない個人には貸しません。どれだけ社会的意義があり、将来性が良くても日本の銀行は絶対と言っていいほど融資しません。それでベンチャー企業の創設をいくら呼びかけても、生まれる筈も育つ筈もありません。目先の利益と自己保身が全てという状態になっています。この傾向があらゆる分野に蔓延し、日本中が閉塞状態になっているのです。 金をめぐっての人間ドラマは上に述べましたように、主役の個人・企業がどういう目的を持って役目を果たすかによって結末は大いに違ってきます。非難は単なる怨嗟の念から来ているとは思えない面もあります。賞賛はすべからず社会還元への姿勢に対してのものです。強いて結論付ければ、個人(会社)の利益に対するエゴの飽くなき追及には人間は本能的に嫌悪感を示し、社会還元には全員一致で賛同を示します。当たり前と言えば当たり前ですが、実はここに人間の健全な判断を見ることが出来ます。富の配分・再配分もこの単純な価値判断を基本に置かないと体制は長く続きません。理念・社会的責任を放棄したような企業はいずれ立ち行かなくなるでしょう。 政治は後追いながら不備と思われる点を修正してきました。競争は基本的により良いものを生み出すため必要です。しかし基本は公正でなければなりません。経済の面を考察しただけでもその難しさが良く分かります。 極めて平凡な結論ですが、価値を生み出さない経済活動を“利益を生むから良し”とする風潮は改めるべきです。21世紀の日本の政治家には正にこういった視点と見識をもって貰いたいものです。 政治家と選挙民の資質 アメリカでは“国民は誰でも大統領になる可能性がある”という表現で、自国の民主主義の素晴らしさを称えています。また、イギリスでも“代表なきところ課税なし”という言葉で表されているように、納税者(国民)の主権は守られています。ただ、そのイギリスでは親が代議士であった場合その子息は同じ選挙区からは出馬出来ません。日本で言う地盤・看板は子供が受け継ぐことは出来ないのです。イギリスの国会議員の給料は65,738ポンド、首相は142,500ポンドで、今の為替換算ではそれぞれ約900万円弱と2,000万円弱となります。ちなみにロンドンの市会議員の給料は無給で、政治活動に要した経費が領収書と引き換えに払われます。その額は役職によって違いますが、それぞれに上限が決められています。これが今の政権与党がお手本にしているイギリスの実態です。国会議員は650名と日本より多いのですが、全員が出席した場合座る椅子がなく、あぶれた議員は階段に腰掛けたり、立ったままで質疑応答を聞いています。第二次大戦後、狭い議場の建て替えの話が出た時ウィンストン・チャーチルは“議場は互いの声が良く聞こえる広さがいい”と主張し、元のままに残しました。権威とは立派な議場や立派な議員宿舎で守られるものではないことをチャーチルは国民に示したのです。 わが国では実力者と称されている人が、一年生議員は“次の選挙に当選することが最大の役目”とはっぱをかけ、それに対し誰も異議を唱えません。そもそも一年生議員とは何を表しているのでしょうか。国民から信託を受けた議員を当選回数によって一年生・二年生と呼ぶのは相応しくありません。本人の見識で評価されるのが本来の姿でしょうが、日本では何故だか当選回数で評価されています。それに対する疑問が国民からもマスコミからも、そして肝心の議員自身からも出ないのが不思議です。本来なら知性豊かであるべき国民の代表からして、そのレベルだということを自ら認めているようなものです。 外国の首脳と一人10秒単位内での記念写真撮影を、140人を超す我が国の議員が何の疑問もなく整然とこなし、念の入ったことにその首脳に話し掛けてはいけないというルールまで見事に守りました。話もしないで単に記念写真を短い時間で撮るのは、憧れの芸能人やスポーツ選手に対してフアンが偶然出会った場合は理解出来なくもありませんが、国民の代表が他国の首脳に集団で同じ事をやるのは国辱以外の何ものでもありません。我々はこういった連中に税金を使っているのです。当選後に“政治は良く分かりませんから勉強させて頂きます”と言う新人議員が日本では珍しくなく、むしろ謙虚な人柄だという評価さえ受けています。政党の員数合わせに著名人を掘り起こし、当選の可能性だけ追求しているのは国民を馬鹿扱いしていることに他ならず、このままでは我々もいずれ “無関心の代償”を払う時が来る事でしょう。 政治家に資質を求めるなら、選ぶ方にも資質が求められます。政治を変えるのは非常に単純で、国民の意識さえ変わればいいのです。
草野章二 |
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