しょうちゃんの繰り言
復興予算の行方 |
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今回、東日本大震災に対する復興予算が適切な使い方がなされてないと問題になっている。優秀な(?)官僚の作文と拡大解釈で震災復興と直接関係のない使われ方が明るみに出て、世論が沸騰している。政治主導を謳い、官僚を使いこなすと国民に約束した現政権与党が今後どう対応するのか見ものだ。得意の“事業仕分け”を駆使し、襟を立てテレビ画像的には目立って活躍している風に写っていた女史をカムバックさせれば、ことはすぐに収まるのではないだろうか。 ■ 所謂官僚の作文が時として法案をあらぬ方向へ誘導した例には暇が無い。彼らにとっては如何に自分達に都合の良い舵取りをするかが腕の見せ所で、その成否が霞ヶ関に生息する彼らの評価の基準になっているそうだ。自分の属する省庁に都合のいい法案に作り上げ、自分達に都合のいい解釈が出来るようにするのが官僚の仕事だと広く徹底されているらしい。何でもそれを「霞ヶ関文学」というそうだが、彼ら以外には誰も評価する者はいない。 ■ 時として島の帰属をめぐり近隣諸国の対応に言い知れぬ不気味さを感じることがある。人間として共通の言語やその基となる認識に.普遍的整合性を見つけることが出来ないからだ。それに対し日本は“大人の対応”で過去穏便にその場を繕って来たが、これでは未来永劫に何も解決出来ない。この不気味さと同じ様な不快感を今回の復興予算騒動に感じている。 ■ 1000年に一度の大地震と津波は平和ボケしていた日本人に衝撃を与えた。この災いを機に日本人は人の絆を思い起こし、スクラム組んで立ち直ろうと覚悟を決めた筈だが、放射線に汚染されても無い被災地の瓦礫持ち込み反対を堂々と唱える住民が日本各地で出てきた。そんな反対の声に東京の石原知事は一言“馬鹿者”で見事に解決してくれたが、隣の県ではテレビ上がりの知事が“根気良く反対派を説得する”と悠長なことを言って何も解決出来ないでいる。 本来なら指導的立場に立って被災地復興を先導すべき官僚が、競ってこの復興予算に群がっている。無害の震災瓦礫に放射線が含まれているのではないかと騒ぐ無知な国民より、よっぽど質が悪い。 ■ 個人や国のエゴをとことん互いが主張し、それをもし多数決や、軍事力で解決するとしたら人間の知恵など要らないし、教育など必要ではない。 しかし残念なことに利害というものは必ずこのエゴに火をつけ、臆面も無く反応するのが人間の常だろう。今回の復興予算の使われ方を見ていると、とても隣国の無作法と理不尽を未成熟な国家と笑ってばかりはいられない。 ■ 秩父の山間(山あい)で農業に従事していた老夫婦の生活を、時系列で追ったドキュメンタリ番組があった。たまたま見たその番組の後半で、年老いた農夫が自分の畑に木を植え始めた。自分で耕作する体力もなくなり子供たちも独立して都会に出て行き、もう必要でなくなった畑を“山に返す”とその農夫は説明していた。時折訪れる山歩きの人達のため、その農夫は休憩のため椅子とテーブルを作り、脇には強い陽をさえぎる枝振りのいい紅葉(もみじ)まで植えていた。老農夫の無償の行為である。老夫婦が亡くなった後まで現地を継続して番組は追っていたのだが、彼らが居た処に山になりかかった畑や立派に育った休息所の紅葉が残り、彼らの人柄も相まって何ともいえぬ感動と心地よい後味を我々に与えてくれた。一家の生計を支えてくれた畑を“山に返す”という言葉と行動で結んだ素朴な老夫婦の物語は、現代の我々に深く訴えるものがある。欲から離れて生きた人達のすがすがしさがそこにはあった。 ■ しかしこの畑が世田谷や練馬にあったら我々は同じことをやるだろうか。 自分の身に置き換えると当然坪当たり何百万円とする土地であれば大事に囲い込むことは間違いない。よしんば地価の値上がりが自分の努力や工夫の結果でなくとも、その恩恵だけは当たり前のように受けるだろう。隣家が坪100万円で売ったら、間違いなくそれ並かそれ以上のものを期待する。人がどういう思いと犠牲の基で自宅を建てるかには地主は関心が無い。関心があるのは資産となった自分の土地の価値だけだ。どうして価値が出たかにも無論関心は無い。 秩父の老夫婦は我々に感動を与えてくれたが、世田谷や練馬ではそれを期待することは所詮無理だ。 ■ 尖閣諸島周辺の海底に地下資源が埋蔵されているという国連の発表以来、隣国の主張は活発になり、客観的根拠は別として自分の領土だと言って譲らない。これも矮小化して考えれば、戦後の復興で都市近郊の農地が値上がりで起きた現象と変らない。近郊農家の身内内の土地争いは時として兄弟の縁まで壊れ、水面下では凄まじい骨肉の争いが展開されている。 ■ それが人間だと分かったような括りで結論づけるのは簡単だが、災害復興予算は国民の金であり、政治家や官僚の金ではない。 その使われ方に理念なり、明確な方針が見えれば国民も納得するだろう。国民が嫌悪し、拒絶するような物差しが使われ、一方それが逆に評価される組織があることに驚きを禁じ得ない。したり顔で官僚の作文を解説する元官僚がいるが、なぜ現役の時毅然として反対しなかったのだろう。どの世界・分野でもことの本質に係わる事を平気で捻じ曲げる事はまともなところではあってはならない。よしんば自分の居たところで起きたとすればそれは断じて許すべき事ではない。 まして官僚は国民の税金で養われていて、公に奉仕する精神や公正に判断する能力が無ければその位置に留まってはならない。 ■ 組織があらぬ方向に動き出したらもう役目が終わっていると思うべきで、全面的に作り直すしかない。誰がどう考えても復興予算は復興にまず使われるべきで、国民もそう期待し税率の増加にも賛成した。 ■ 何人かの官僚とかつて話したこともあるが、彼らは総じて人当たりも良く、理解力のあるごく普通の人達だった。それが組織となって個人の顔が見えなくなると、とてつもないことが出て来る事がある。 “ロシア人は個人としては愛嬌があり、人懐っこい人達だが、国となれば別の顔が見えてくる”という例えと全く同じだ。 ■ 秩父の老夫婦は損得の世界から隔離され、見事な人生が送れた。彼らの幸せで立派な生き方に感動を覚えたのは私だけではないだろう。 よしんば国の利害や省庁、個人の利害が絡んでいても、非難されない方法は幾らでもある筈だ。いいと言われている頭をそっちの方で働かせて貰えないだろうか。下らないしがらみや欲から離れれば、そんなに難しい問題だとは私には思えないのだが。 ■ 人間の欲にまみれた所業を見るにつけ、秩父の老夫婦が懐かしく想い出される。 平成24年10月15日 草野章二 |
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