しょうちゃんの繰り言


トップの責任

私は子供の頃からジャイアンツのフアンだった。小学生時代、草野球に熱中していた時、川上哲治氏はまだ現役だった。彼の背番号16は子供の憧れのナンバーで、銭湯では16番のロッカーを子供同士奪い合ったものだ。田舎のラジオでは野球を放送してなくて、夜、不安定ながら聞ける東京からの放送でジャイアンツの試合を楽しんでいた。それも確か8時か8時半頃に放送が終わり、結果は翌々日の新聞で知ることが多かった。今みたいに根掘り葉掘りスポーツ・ニュースで繰り返し放送することは無かった。この思い出は昭和20年代後半のことである。

長嶋氏や王氏が入団し、そして彼らが皆引退した後もジャイアンツのフアンだった。ただ、その放送のやり方に段々と嫌気が差し、いつの間にか野球そのものに関心が無くなっていた。「残念ながら時間が来てしまいました。」と中継が尻切れトンボで終わることが多く、また、夜7時に始まるテレビ放送では、最初は「今日の見所」とかコマーシャルが入り、実際の試合実況は7時5分頃から始まった。フアンからすれば7時現在、試合はどうなっているかにまず関心があり、それを何故すぐに知らせようとしないのか毎回腹を立てながら見せてもらっていた。この感想は私だけの偏屈な意見ではなく、知り合いの多くが同じ意見だった。フアンを大事にしないゲーム実況は、フアンに見限られることを関係者は知るべきだろう。スポーツの醍醐味は生中継にあることは誰でも理解している。それが局側の都合で途中から始め、途中で終わり、挙句、放送が開始されても現場を中継するのは5分後というのはスポーツ本来の面白さを自ら放棄していたと言ってもいい。フアンが離れた大きな原因でもある。

そういった経緯もあり、我が家では今や夫婦してサッカーのフアンになってしまった。何と言っても試合時間中、何にも邪魔するものがないのがいい。サッカーで対応出来て野球で同じことが出来ないのが不思議でならない。試合時間に差があったとしても工夫の余地は幾らでもあると思うのだが。

その野球界で今「飛ぶボール」が話題になっている。昨年と比べてホームランの数が5割程増えているらしい。選手の指摘でプロ野球機構は「飛ぶボール」を認め、前年と比べ反発力が増している事実が明らかになった。現場に伝えると混乱が起きるという理由で黙っていたということだ。選手から見るとボールの反発力は、大げさに言えば選手生命にも関わることらしい。昨年ホームランの数が減った野手はそのため引退しているかもしれない。今年の投手はヒットとホームランを打たれた数が多いため年俸が減らされるかもしれなかった。また、飛ばないと思って浅く守備をしていてその頭の上を抜かれるケースもあり得るだろう。選手は生活がそれぞれの立場でボールの飛びに掛かっているため、こういうことには敏感だという。プロなら当然だろうと思われる。

その「飛ぶボール」がテレビで大写しになった時、人の名前が漢字で書いてあるのに気が付いた。今まで知らなかったが、公式球には野球機構トップのコミッショナーの名前を必ず入れるらしい。その名前の主は報道によれば外交官あがりということだ。その彼が記者会見で憮然とした表情のまま“不祥事とは思っていません。私がその事実を知ったのは昨日です。”と記者団に語っていた。彼の真意を日本語で分かり易く翻訳すると“別に悪い事をした訳ではない。しかも私がその事実を知ったのは昨日だから私には何の責任もない。”ということになるだろう。彼の顔がそう語っていたように私には見えた。

何か似たような反応を別の機会に見たのを思い出した。福島の第一原子力発電所が爆発した際、原子力安全委員長が記者会見時に見せた態度に共通点があった。

トップの地位にあり、まして疑問を持たれているボールに自分の名前が書いてあれば最終責任はその人にある、というのは世の習いであり言い訳は許されない。“私が知ったのは昨日”という発言は内部での話ならいざ知らず、外部に向かって言うべき言葉ではない。知らなかったとしたらその統治能力や組織に問題があると思うべきで、それを外部に向かって堂々と責任逃れみたいな口調で話すのは問題がある。外交官としては能力のあった人だという政府要人の弁護があったが、見方によればこの程度の問題処理も適切に出来ないという評価にもなる。

また、原子力発電所の事故に関しては、それが起きないように看視し安全を図るのが原子力安全委員会の最大の役目だ。つまり事故が起きた時点で彼らの役目は果せなかったことになり、その組織のトップは自分の責任を厳しく自問しなければならない。後から出てきた情報・エピソードの数々から、そのトップが責任を持って任に当たっていたとは到底思えなかった。彼の発言から安全委員会の責任に言及したものは一切無かったと記憶している。つまり、彼にとっては全て他人事のような説明と行動だった。彼が8代目の委員長だったらしいが、その後この組織は無くなっている。当然と言えば当然で、彼から見ると“7代目まで何にも問題が無かったのに、俺は地震のため貧乏くじを引いた。”という程度の認識だろう。

両トップに共通していたのは正に他人事のような対応で、自分には一貫して責任がないという態度だった。社保庁のトップも歴代厚生省から来ていて、無責任極まりない組織にしてしまっていた。(拙著“改革の意味するもの”参照)

トップに居た彼らは自分が在籍する期間を無難にこなせばいいという認識で、その地位を名誉職位に思っていたのだろうか。そう考えれば全て納得がいく。それにしては高額の報酬を得ている。

世間の言葉に“座りがいい”という表現があるが、彼らは座りが良い為その地位に居たのだろう。卑近な例では同窓会の会長に医者・弁護士が顔を並べるのと同じ様なものだ。椅子によっては責任が求められるが、どれだけの責任に対する自覚があったのか大いに疑問である。

野球のボールや同窓会の問題なら、適性の無い人間がそのトップに名誉職として座っていても大したことはないが、これが原子力発電の安全や国の舵取りとなると話は違ってくる。世間で問題になった時しか話題に上らないが、毎回この程度の人間がトップに居るという事は潜在的には不適格な人間がその地位を多く占めているとも推測出来る。比較的見え易い政治の世界でも、国民が選んだとはいえ、能力も適性も無い人間が多く居座っている。何故こうなったのか疑問だが、敢えて言えば背景には国民の知的劣化があるのだろう。

調理師の免許は持っていても料理の下手な人は沢山居る。車の免許はあるが公道で運転してはいけない人も多く居る。つい最近“外交を語る資格がない”と首相に断罪された元外交官も居る。どちらに分があるのか最終的には国民が決めることだろうが、こういった、世間で通りの良い経歴を持った人間が幼稚な発言でその世間を驚かせている。彼らの経歴は何だったのだろうという疑問を持たせる人間が多過ぎると思うのは私だけだろうか。

人間は自分の属した組織の価値観で動き、その方が摩擦が少なくより良い地位を得る事が出来る。また一般的に、学校であれ会社であれ、そこに入るのが難しければ難しいほど優秀とされている。私の知っている会社でも、株主会社から来た天下り社長は旧制一高を出ていて、非常にプライドの高い人だったが、なんら実績は残せず社長退任後いつまでも高給で不況になった会社に居座っていた。十代の頃難関であった一高に受かったのが勲章として彼に一生役に立ったが、会社はその勲章のご利益は全く無かった。こういった光景は世間でも時折見られる。評価が現れにくい官庁では優秀の定義がもっと形骸化しているのではないだろうか。

勘違いした人間は何処にでも居る。難関を通ったが故に態度が大きくなったり、頭が高くなったりするのは人の常かもしれないが、難関を通った事が能力を保証するものではない。教えられた事を正確に覚えるのは単に能力の一部にしか過ぎない。学校や所属する団体を含めた、自分の経歴を背景にしか生きられない人には限界がある。そこで留まっているような人に新しい試みや普遍性のある判断を求めても無理だろう。世界の国旗と国を全部覚えた三歳児は天才として騒がれることがあっても、その子にそれ以上のものは普通求めない。何かに挑戦することや、そのため努力することは大いに価値がある。ただ、方向性や方法を誤れば単にその資格試験に受かったという事実が残るだけで、彼らが全てその資格に相応しい能力を持っているとは限らない。

一寸考えれば分かることが判断できないトップが多過ぎる。例の口の悪い友人の“日本列島に住むには日本猿には快適でも、人間が住めばフラストレーションが溜まる。”という前にも紹介した発言がある。言い得て妙だと思うが一般的にはとんでもない暴言と取られるかもしれない。学ぶ姿勢と目的・方向を誤ると結果は今の日本程度にしかならないのだろう。トップにいる人達の発言でもそのレベルが良く分かる。世間的には文句の言い様がない経歴を誇り、当然難関を突破して来た人達だが、少し見る目のある人間にはすぐに見透かされる人が多い。友人の“君達には肝心なものが欠けているのだよ。”という指導者層に対する発言が最近良く理解出来るようになった。彼が指摘するように肝腎なものが育成されない教育では大した人間を創ることは出来ない。原発事故以来、得意顔でテレビに出ていた原子力保安委員は、アメリカ留学でMBA取得といった資格もキャリヤーという肩書に加えられ、エリートと見なされていたが自分の本来の役目に対する責任感は安全委員長と同程度だった。ついでに言うと外国特派員の集まりで話していた英語は海外留学の経験にも関わらず大したことはなかった。彼が何故そこで講演したかも理解不可能だ。彼は得意げにテレビで福島原発の状況を話す前に自分の役目がまっとう出来なかった事をまず国民に謝るべきだろう。こういった基本的な認識の欠如が彼らの特徴でもある。

制度があれば人はそれを修正しようとはしないでそれに合わせようとする。どこかで基本を変えないと何時までも何も変わらないだろう。訓練次第で人間は能力を伸ばすことは出来る。若者の能力を矮小化するような教育とその選別法は出来るだけ早く改めた方がいい。そうでないと三流大学の落ちこぼれ友人から何時までも馬鹿にされる。

その友人も調理師の免許を持たない我がかみさんの料理を高く評価している。資格を持たない人間は落ちこぼれ同士相性がいいのか、本当にかみさんの料理が上手いのか私には判断出来ない。ただ、この一節は彼らには読ませないようにしよう。

平成25年6月17日

草野章二