しょうちゃんの繰り言


出来ない理由

例の口の悪い友人がいつも口癖のように言っていた“人はやろうとしないで、出来ない理由から話し始める”、という名言(迷言)がある。新しい試みには必ず反対意見が出る。それが妥当であるかどうかの議論はあまりされないで、結局、現状維持に終わることが多い。改革が色々な分野で進まないのはそのためだろう。ある程度落ち着いた社会では、基本的に人は変化や面倒な事を好まない。周りが好んでもその任についている人達がやろうとはしない。特に役所の場合、余計な仕事が増える事を彼らは本能的に嫌う。まして自分の身に及ぶ変革であれば、役所でなくとも当事者は理由の如何に関わらず断固反対する。行政改革が思ったように進まないのは人間のこういった性向によるものだろう。

学校の勉強が嫌いだった私は、勉強が始まるまでに鉛筆削りでたっぷり時間を稼いだ。そして出来るだけ他の大事な用事を思い出し、勉強を避けてそちらへ移るようにしていた。お仕着せのものは所詮その程度の運命だったが、自分から興味を持って始めたラジオや模型飛行機の制作時には、例えご飯時になっても熱中して止めなかった。

子供にでもちゃんとした優先順位がある。つまり関心度という物差しだ。それは大人の世界でも通用するようだ。大人でも自分の利害と直接関係ある事には関心度が高い。それ以外は残念ながら、子供の発想と原則的に何ら変わらないようで、なかなか公共性だとか、価値観だけでは大人も動こうとしない。誰が考えても良いと思える事がなかなか普及しないのはそのせいだろう。

仕事上の経験からも、出来る人間は他人からの催促が無くても自主的に黙ってやっていた。出来ない連中は友人が言うように、出来ないことの言い訳から始めていた。この傾向はどこでも見られる。部下を持った経験や仕事の取引の人間関係から得られたものは、学歴も成績も出来る人間との間にはあまり連動性が無いという事実だ。出来る人間は出来たと言うしかない。有名な学校を出た人間には体面に拘る傾向が多く見られた。厄介なことに大企業では、トップ・レベルの大学を出た連中ほど何かにつけて利口そうな事を言いたがる人間もいた。

私の周りにも高校命(いのち)、大学命としか表現の仕様が無い人達がいる。人生の頂点が高校や大学時代(正確には入学)にあった人をそう称しているのだが、彼らは悲しいかな何か勘違いをしている。人生の瞬間を流れの中で輪切りにすれば、自分が輝いていたと思える時期を個人的に持つのも悪くはない。だが、それにあまり拘り過ぎると周りを辟易させる。時として同窓会命としか呼べない人達までいる。自分の出た学校と務めた会社やそこでの地位をどうしても他人に知って貰いたい人達だ。狭い世界で自己主張してもあまり意味が無いことに本人たちは気が付かないでいる。“秘すれば華”とは縁の無い知性と品性に欠ける存在だ。

子供の頃に植えつけられた価値観をいつまでも引きずると、往々にしてこういうタイプの人間が出てくることになる。私の狭い人生経験でも優秀な人間は学歴に関係なく、どこにでも見つけることは出来る。彼らに共通するのは辻褄合せで人生を送ってないことだ。彼らは少なくとも出た学校や自分の属する企業・組織を背景に物は言わない。おかしければ自分の属する組織の批判も平気でやる。こういった姿勢は何よりも人間として信用出来る。教育とは本来こういった人間を育てることではないのだろうか。一芸に秀でた職人の世界には、参考にすべき人材が多く残っている。何より彼らは金勘定より自分の仕事に誇りを持っている。生きていてこれほど素晴らしいことは無いだろう。彼らは辻褄合せでは生きておれないし、出た学校も味方してくれない。真剣に自分の仕事に向かい合う人間の迫力がある。私の父達の世代に残っていた迫力だ。

ドイツでは大学の入学資格を取ると、国中どこの大学でも講義を受けられるらしい。ランク付けされた大学ごとに試験を実施する日本とは考え方の基本が違うようだ。また、欧米では大学中退という表現は無いらしい。日本でこういう表現と肩書きが何の疑問も無く世間で通用するのは、このランクの大学には入学することが出来たという事を互いに確認出来るためだろう。学校という物差しが無いと相互認識出来ないことを物語っていて、考えてみれば物悲しい。そんなことにアイデンティティを求めてどうするのだろう。大学卒が50%と言われる日本だが、明治の頃と比べればこの数字には圧倒的な差があるはずだ。それで世の中は良くなったのだろうか。少なくとも住み良い日本になったのだろうか。これまでの経済発展を見れば確かに教育の成果は認めなければならない。しかしそれは経済的に豊かになったという事で、それ以上でも以下でもない。

自分で判断しないで上司の言うことに従順な社員は確かにコントロールし易いだろう。今、高学歴者として世に出てくる学生は、何度も繰り返すが、与えられたことの反復をいかに正確に出来るかの基準で選ばれた一群だ。日本式の勉強とは単純に纏めれば自分で考えなくてもすむし、出された問題を多く正解さえすればよい。こういった方法も一つの選別方としてはあり得るとは思うが、これでは主体性を持った若者の育成は出来ないだろう。応用問題に慣れてない人間は教わったことしか答えられないし、マニュアルが無いと動けないことが多い。与えられた情況の中でどう判断するのがベストなのかを常に考えていないと、人は適切な対応が出来なくなる。人生には決まりきった道と対応策(正解)が用意されている例は少ない。

日常的に遭遇する大小のトラブルの中で相手の立場になったらどうするか、という想定だけでも対応の仕方が変わってくるだろう。

今から40年ほど前、知人が駐在員としてロンドンに滞在していてそこを訪ねた時、家に置いてあるテレビはリースだという説明があった。リースにする一番の理由は、買い取りだと故障した時のサービスが悪いからだった。修理がいつ来るか分らないし、幾ら取られるかも分らないからだという。前任者から聞いた生活の知恵で、リースならすぐに新しいのと取り替えてくれるという話だった。高くつくのは承知の上で、彼はリースでテレビを調達していた。当時、日本のサービスは桁外れに良かった。今では日本も英国並みになった例が多く見られるようだ。そこには経済の法則が根底にあって、人件費の高くなった日本では昔流のサービスを維持出来なくなった現実がある。これは進化と言えるのだろうか。

私の知人で、高いのを承知で近所の電気屋さんから買い物をする人が居る。彼の説明に依ると、日常の普通の対応が70歳を過ぎると難しくなり、高い場所の電球交換や一寸した電気製品の不具合を見て貰うため電気屋さんと仲良くしているらしい。町の電気屋さんはここに生き延びるマーケットがありそうだ。作る側や販売する側だけの理論でマーケットが展開されると、必ず困る人達が出ることはあり得る。今、現実にあるのは経済を基本にした利益追求の姿勢で、人間を基本にした生き方への配慮はあまり無い。

例の友人の口癖に“人間10人居ると、11人までが人に命令されるのを好む”という暴論(?)がある。何か辻褄が合わないが、彼が言いたいのは10人くらい居ても自分で判断し、自主的にリードする人間は一人も居ないという事を彼一流の言い方で表している。“自分で考える事を否定するような教育では、こういうのが育つのは当たり前だろうがね”という捨て台詞も残している。“人間力の衰えだ”と友人は言うが、わが身を考えると“さもありなん”と思ってしまう。

残念ながら今日(こんにち)の現実を考えれば、彼の言う事を認めざるを得ないだろう。彼自身は“三流校の落ちこぼれ”と自称していて、卒業校といい、そこでの成績といい自分でも認めているように客観的には正に現代社会の落ちこぼれと彼をランクせざるを得ない。しかし学生時代に辻褄合せをしなかった彼の真の英語力や文章の表現力は、学校での評価とは全く違う。“学ぶのは俺の為だ”と言っていた彼は、学校の評価などどうでもよかったのだろう。日和見で生きてきた私から見れば、彼は信念を貫いただけでも敬服に値する。見識が高過ぎるため一般受けはしなかったが、彼の友人には各界で活躍している人達が結構居る。見る目のある人達からは認められていたようだ。それでも世間からは決して人生の成功者としての評価は貰えないだろうが。特に金融機関からは。

世の中が成長期から安定期に入ると、ああゆる面で仕組みが出来上がってしまう。国際競争に晒されると金融・重工業が競争力強化のため、合併という手段で生き延びようとする。そこにあるのは人間が生きるための価値の模索ではなく、経済効果を求めての集約であり、延命策である。生き延びる為には止むを得ない面があるのは分るが、金融界では社会的責任が充分配慮されているとは思えない事が多い。

1970年代にピークを迎えた日本の基幹産業である鉄鋼・造船はその後、安定から残念ながら縮小の方向へ推移している。世界をリードした家電も現在は停滞している状態だ。アベノミックスの円安効果で自動車を含めた輸出産業は息を吹き返しているが、為替次第では今後どうなるか分らない。

前にも書いたが、自動車業界が使っている薄板は鉄鋼会社の犠牲の上で供給が続いている。日本を取り巻く経済環境は1990年代バブル経済崩壊後、厳しくなりデフレ経済は昨年安倍政権が出来るまで続いた。

産業が低迷し、働く人間の給料が上がらない時は国民に元気が無くなり、明るい見通しを持てない。過去20年以上我が国はあらゆる面で閉塞状態だった。分不相応に稼いでいるのはテレビで顔を売った芸人、芸人紛いの司会者達、それにITで儲かった連中くらいだ。

だが、日本の技術力はまだ捨てたものではないと思っている。円高の影響で家電は随分苦労したが、底力は充分ある。あらゆる原料資源に恵まれない日本は、人間が一番の資源だろう。画一的な物差しで序列を付けるより、本人の潜在力を伸ばす方向に舵取りすれば日本はまだ充分活性化出来るに違いない。出来ない理由から説明するような若者には断じて育ててはいけない。世の中が閉塞感に溢れていると往々にして辻褄合せに終始する人間が出てくる。幾ら偏差値の高い学校を出ていても、辻褄合せのレベルで留まっていては何も出来ない。

遣り甲斐と生き甲斐が無ければ人は簡単に金儲けに走る。誰もが持つ弱点だが、もっと大事なものがあると信じることが出来れば、少しはましな社会が出来るかもしれない。

最先端を走っていた我が国の科学技術は、厚かましい恥知らずな国の良き鴨となって盗まれ、挙句に新幹線まで自分たちの新しい技術だと外国に競争相手として売り込む始末だ。いかに経済的に成功しても、こういった生き方しか出来ないのでは限界がある事を彼らはいずれ知らされるだろう。

最大規模のファースト・フード店が売り上げを落とし、業績が悪くなっているらしい。大地震の時、彼らが取った行動を国民は忘れてないのだろう。(拙文「判断力は何処から」参照)

子供の頃「天知る、地知る、我知る」と小学校の先生に良く言われた。この気持ちを忘れなければまだ可能性は残されている。

出来ない事の理由から言い出すような子供には育てないようにしたい。考え方とやり方次第では日本はまだ充分に可能性を秘めている。新幹線は致命的な事故は50年間も皆無で、日常の運行は秒単位に納まっている。これは奇跡的なことで、日本のハードとソフトの見事な結晶と言えるだろう。

農業でもその安全性と生産品の美味しさは、今や世界でも認められるようになった。全てが目先の損得に捉われず成し遂げられたことを皆で考えてみる時ではないだろうか。

職人の世界、科学技術の世界、鉄道の世界、農業の世界、それに洗練された和食の世界等々、全てではないにしろ日本の良き伝統がまだ生きている。日本はもっと自信を持って生きられるはずだ。大学を出ても互いに出来ない理由を理路整然と並べていては、伝統を守っている人達から笑われるだろう。

“不労所得を過度に増長するような金融界のグローバル・スタンダードは、まともに生きようとしている日本には合わない位の見識で立ち向かえばいい。空しい金持ちなら日本だけでなく、世界中で幾らでも見られる。”

この最後の一節は例の友人の受け売りだ。

平成26年1月6日

草野章二