しょうちゃんの繰り言
真・善・美 |
私達、皇紀2600年(西暦1940年)に生まれた世代には、わずかにまだその青春時代に残っていた「真・善・美」の言葉は特別な響きを持っている。真理の追究、善の追求、美の追求は学ぶ若者の基本的姿勢とされ、人としての全人格の完成を試みる為の普遍の目標だった。それぞれに若者は解釈し、それなりの挑戦をしたことだろう。一般的には真理の追究は主に学問全般に対するためだろうし、善の追及は倫理・道徳の道を究めるためだろう。そして美は対象が芸術だ。春秋に富む若者の学ぶ為の目標は当時、崇高にして遠大だった。 ■ 一時期、学生に就職先として一番人気のあった損保の会社は、今の人気度はどうなっているのだろう。毎年、入社願書の受付を徹夜で並んで待つ学生の姿が風物詩となって、週刊誌のグラビヤや新聞の写真で当時紹介されていた。人気の理由は「高収入」・「ボーナス年4回」・「残業が少ない」、という極めて現実的かつ打算的なものだった。他にも厚生施設の充実度や休暇が取り易いという理由もあったように思う。また、政治家を職業としてランクしていいかどうかは別として、小学生の人気度は今年141位だった。 ■ 子供や学生のその時代での職業、或いは就職先人気度はやはり世相の反映だろう。こういった子供や学生の判断が出るのも教育の成果と言うしかない。別の言葉で言えば、子供や学生が現実的になり、崇高ではあるが、実社会では評価されない精神論は通用しなくなったとも言える。政治家に失望すれば当然子供の人気度は落ち、給料が安く仕事のきつい職場は学生から敬遠される。今日の大学生に「真・善・美」を訴えても彼らには何のことか分からないかもしれない。 ■ 例の友人は“就職先の願書を出すため徹夜で並ぶような奴は俺なら無条件で落とすね。こんな知恵も誇りも無いような奴を取っても会社には何の役にも立たない。会社自体も社会での必要性は認めるが、何にも生産的な事をやっている訳ではない。”と、一刀両断に切り捨てた。“言っちゃ悪いが、こんな職種が高給を払えることに疑問が残る。今年も20位以内に入っているから今でも人気はあるのだろうが。”新しいタバコに火を付けて続けた。 “昔は「教養が邪魔する」という表現を良く使った。多くの場合は冗談めかしてのプライドの表現だったと了解している。これは損得の判断でなら飛びつきたいが、教養ある人間としては遠慮した場合の常套句だった。最近は邪魔する教養が無いのか、教養の許容範囲が広がったのか俺には分からんが、高等教育を受けた連中も得するものには臆面も無く飛びつく傾向がある。多分教養のため遠慮していたのでは昨今生きていられなくなったのだろう。えげつなく得するものに飛びつく様は、一定料金で「飲み放題・食い放題」を標榜している店で喜んで食べ漁っている連中をつい連想してしまう。” ■ 社会の尺度が変れば当然人間も変る。今ではむしろ食べ放題も、飲み放題も、そして同一料金で袋に入れ放題のスーパーでも誰も抵抗を感じる人は居ないのだろう。人々から恥じらいの気持ちが無くなった時、社会は経済的には活性化しても、品性は確実に落ちる。彼はその事を言いたいのだろうか。 ■ “自慢じゃないが、大学時代「優」の数を増やそうとはただの一度も思ったことはない。考えてみれば、その傾向は既に中学時代には芽生えていて、教師が間違えて低く採点していても申告したことは無かった。それぞれの教科に関してどれだけ理解し、どれだけ到達しているかは自分が一番良く分かっていたから試験の採点や教師の評価はどうでもよかった。今考えれば、可愛げの無い中学生だったと思うね。前の日に必死で覚えて試験の日に覚えた事を書くのは俺の学ぶ流儀ではなかった。それで点数を稼いでも何の意味も無いと子供心に思っていたからだ。” ■ 彼はその流儀を未だに貫いている。変った奴だが一貫性はある。時として世間に流される私など、彼から学ぶ事が多々ある。 ■ “大学は就職斡旋所ではない筈だ。少なくとも専門の道を選び、学ぶ目標を選択したらどういう成果を出そうと、またその結果がどうなろうと自己責任の範疇だろうね。教授が採点するのは彼らの仕事だから文句は言わんし、その評価にも反対はしない。俺なんか大学を冒涜していると級友に非難されたものだ。ただ彼らも優の数を揃えるのは就職の為とはっきり言っていた。殆どの授業が教授の独演をノートに取り、その覚えた事を正確に再現するのが試験で、何年もそのスタイルは変ってなく、先輩のノートを借りてきて勉強していた奴も居た。やりさえすれば優なんて考えなくても馬鹿でも取れる。大学の授業の実態が分かると途端に熱が醒め、好きな本を読んで過ごしていた。その他大勢に紛れれば卒業くらい出来るよ。” ■ 彼は全てを分かった上で落ちこぼれていた。“世の中の流れや慣習に逆らわない方がいいよ”と助言しても彼は頑として受け付けなかっただろう。潔い奴だが要領は悪い。せっかくの能力を発揮する場所が狭まってしまう。車の免許も試験場で喧嘩して取るのをやめた男だし、通訳・ガイド試験もあまりにも問題のばかばかしさに私と同じように一緒に途中でやめて出てきた男だ。 ■ “学ぶということを矮小化すれば意味の無い優の数を増やし、就職に有利なゼミを取ればいい。そうやって人生で辻褄合わせて生きていくのも人の知恵だろう。こんなことで若者が納得しているのなら大した社会や国が出来る筈がない。大学なんていうのは俺たちの時代、入学試験からして馬鹿げた事を学生に要求していた。真も善も美も全く関係なく、ただ「大学の用意したハードルを越えて来い」とばかり、意味も無い問題が多かった。正解の出る答えしか要求しないから「傾向と対策」で生徒は対応する。同じ入学試験を在校生や教授達にやらせたら全員その学校に余裕をもってまた入学出来るだろうか。” ■ 成る程、一過性のチェックで通す試験なんか彼の言うとおりで、受かってしまえば頭に残らないものが沢山出てくるだろう。大学どころか中学・高校さえ我々はもう受からないだろう。そんな試験にどういう意味があるのかを彼は尋ねているのだ。正解のある問題に慣れ切った日本の学生は既に予定調和の中でしか答えを出すことが出来なくなっている。 学ぶ理由や目的、人間として心掛けること、芸術を理解する洗練された感性、具体的な表現の方法は幾らでもあると思うが「真・善・美」を追求するテーマーとして選んだ若者には確たる価値観がまだ存在していたと思う。追求出来るかどうかより人生の多感な時期に真摯に追求するものを持っていたことに意味がある。打算や損得に容易に惑わされない姿勢を持てたことに、学ぶ人間としての誇りを感じることが出来ただろう。高学歴にも関わらず底の浅い人間を毎年多数輩出し、偏差値の高い学校という評価(物差し)でこの国では若者を仕分けしている。それでは待遇さえ良ければ徹夜で願書に並ぶ輩を生み出すだけだ。考える事を放棄したような教育ではその程度の学生しか仕上がらない。 ■ 折りに触れ同じ様な主旨の発言を続けているが、例の友人の話を含めお互いに良く考えてみてはどうだろう。ただ有利な就職のための大学であれば、何度も言うが税金を投入する必要は全くない。落ちこぼれた友人を過大評価する気は毛頭無い。それでも彼の姿勢は良く納得出来る。未だに知的好奇心に溢れていて、言う事には品は悪くても知性のひらめきを感じさせる。彼が言うように、関門を通り過ぎた途端に忘れるような知識では何の役にも立たない。ペーパー・ドライバーが無事故・無違反でゴールドの免許証を持っていても何の意味も無いのと同じだ。 ■ 人は常に自分にとって得になるものを求めている。それが自分を少なくとも豊かにすると信じているからだろう。与えられたハードルを越すことで次の有利な道が用意されていれば、そのハードルにどういう意味があるのか考える学生はあまりいないだろう。そうやって社会の要所を上手く潜り抜ければ然るべき地位は確保出来る。それを日本では努力の成果として評価している。その程度の訓練で得た知恵では商社の社長はやれても一国の大使の役目は無理だろう。政治家を含め、各界の指導者に魅力的な人物が少ないのは底の浅い評価しか世間がしなくなったからではないだろうか。 ■ 青臭い書生論として葬られるのは承知の上で強調したい。若者はある時期、哲学者や詩人になる必要がある。考える事を放棄しているような教育は、マニュアルが無いと動けない学士様を作るだけだ。“何故人は学ぶのか”という命題を与えるだけでも学生の基本的な姿勢は変るのではないだろうか。残り少なくなった持ち時間の中で、贖罪を込めて提案したい。知的好奇心の探究は、本当はすごく面白いことにこの歳になって気が付いたからだ。私も例の友人と同じ様にどちらかと言えば落ちこぼれ組に属し、社会を底辺から見てくることが多かった。今当たり前に受け止められている事が、下から見ていると本当は多くの矛盾を抱えているという事実にどうしても目が行ってしまう。個人の利益に対するエゴがあらゆる原動力になっている事を背景に、そこに少しばかり「善」を入れれば互いが角突き合わせることが減るのではないだろうか。人間としての内面の強化が、また新しい価値観を持った世代や、新しい社会を構築する可能性がある。戦後世代は宗教心にもあまり縁が無く、教育から内面を磨く教科が無くなっていった。日本的な伝統を否定し、家族の絆まで壊した。個人主義・自由主義が、個人の飽くなき欲望の追及を担保しているものではない。自由には必ず責任という概念が並立されていないと単に我が儘を主張しているに過ぎない。この手の主張が恥ずかしげも無く横行しているのは我々が内面の充実をないがしろにしたからだと思われる。法律は人間社会の瀬戸際の歯止めでしかなく、それを犯してないからと声高に訴えるのは見苦しい。社会を牽引している企業や官庁に是非模範になって貰いたい。 ■ 真・善・美を追い求める為には少なくとも幅のある考察が必要になり、自ずと奥行きが本人に生まれるだろう。マニュアルで画一的な教育をするのはファースト・フード店だけでいい。 平成25年5月27日 草野章二 |